第40話:赤雷
戦場の喧騒から少し離れた、吹き抜ける風に草葉が揺れるだけの草原に、ぽつんと一本の木が生えていた。
その枝先で羽を休めていた一羽の小鳥が、不意に響いた甲高い金属音――剣と剣がぶつかる音に驚き、短い鳴き声を上げながら飛び立った。
その鳥の視線が向かう先。そこは、泥と血にまみれた混沌の戦場。その一角は、奇妙な静けさをもって隔絶されていた。
ドゥルガーとフェラルドの亜人たちが、それぞれの集団を形成し、中央に開けられた空間を固唾を飲んで見守っている。彼らの中心には、腕を組んで不敵な笑みを浮かべる赤銅色の髭を持つ男、ガドニスの姿があった。
その視線の先、静寂の中心に立つ二つの影へと、場の全ての意識が集中していた。
痺れと重みに悲鳴を上げそうな右腕に意識を叩き込み、イーリアスはマーサの剣を力任せに弾き飛ばした。甲高い金属音が再び戦場に響き渡り、火花が散る。
体勢を崩したマーサに追撃を仕掛けたい衝動を抑え、イーリアスは剣を構え直す。
一瞬の均衡。マーサの顔からは先ほどの侮蔑が消え失せ、獲物を見る獣のような鋭い光が宿っていた。
「思ったよりやるな、傭兵!」
牙を見せてニヤリと笑ったマーサが、再び地を蹴る。
今度は先ほどとは違い、より計算された、だが野生の勘に裏打ちされた動きだった。イーリアスは直感的に危険を察知し、紙一重でその一撃を回避する。
剣が空を切り裂く風切り音が、耳朶を打つ。間髪入れずに繰り出される連撃。速い。重い。そして、どこか楽しんでいるような狂気を感じる。
イーリアスは全身の神経を研ぎ澄ませ、来るべき一撃一撃に全霊を込めて対応する。受け、流し、そして躱す。彼女はマーサのわずかな隙間を見つけては、反撃の機会を伺う。
マーサの攻撃は猛烈だったが、どこか単調になり始めていた。力に任せた大振りが増え、速さの中に隙が生まれつつある。
経験で培ったイーリアスの目は、その微かな変化を見逃さなかった。
(この期を逃すな――!)
全身を駆け巡る赤雷のような加速感。その名の通り、燃えるような赤い髪が残像となり、彼女の通った道筋を示すかのように赤い軌跡を描きながら、イーリアスの体がマーサの間合いに瞬時に潜り込んだ。
マーサの驚愕に歪む顔が間近に迫る。振り下ろされた剣は、もはや追いつかない。
それはまさに必殺の一突き。
鋭く研がれた剣の切っ先が、マーサの無防備になった喉元に吸い込まれるように突き刺さった。
「がっ……!?」
呻き声とも呼べない音と共に、マーサの目に宿っていた狂気の色が急速に失われていく。大剣を取り落とした彼女の巨体が、ゆっくりと大地に崩れ落ちた。
静寂が、再び戦場の一角を支配する。
亜人たちの間から、どよめきとも困惑ともつかない声が漏れ始めた。泥と血に濡れたイーリアスは、呼吸を乱しながらも、剣を支えに立ち尽くす。
その瞳には、死闘を終えた安堵と、そしてまだ消えない戦士の光が宿っていた。一騎打ちは、終わったのだ。
「勝負あり、だな?」
先ほどまで黙したまま見守っていたガドニスが、前に出て亡骸と化したマーサの状態を確認する。巨大な体を屈め、マーサの頸動脈に軽く指を触れた後、ガドニスはゆっくりと立ち上がった。そして、血と埃にまみれたイーリアスの方へ向き直る。
「見事だ、傭兵。勝者はお前だ」
その声には、皮肉ではなく、純粋な戦士への賛辞が込められているように聞こえた。ガドニスは顎髭を撫でながら、静かに告げる。
「取り決めだ。お前さんは行け。在るべき場所に帰ると良い」
イーリアスは、全身の疲労と痛みに耐えながらも、ガドニスの言葉の意味を測りかねていた。目の前の男の意図が掴めず、警戒を解かずに立ち尽くす。
ガドニスはそんなイーリアスから視線を外し、代わりに周囲を取り囲むフェラルドたちの方へ向き直った。マーサの死を受け入れられず、怒りと混乱が入り交じった表情でこちらを睨んでいる。
納得していない様子の彼らに、ガドニスは低く響く声で号令をかけた。
「聞け、牙を持つ者達よ。勝負はついた。取り決めは取り決めだ。あの女には指一本触れるな」
不満げなざわめきがフェラルドたちの間から漏れるが、ガドニスの有無を言わせぬ威圧感に押され、それ以上の反論は出てこない。ガドニスはさらに続けた。
「これ以上の戦闘は無意味だ。地穿ちの民は撤退する。貴様らも引き上げろ」
ガドニスの指示を受け、フェラルドたちは、不満を残しつつも、撤退を開始しようとしていた。彼らが重い足を引きずり、あるいはしぶしぶと歩き出した。
これで終わった、イーリアスがそう感じた瞬間、すぐ近くで激しい閃光と熱が走り、それに遅れるように暴風と轟音が響き渡る。
突如発生した風圧に、イーリアスの身体は投げ出され、宙を舞う。
視界の端に、先ほどまで自分が立っていた草原の一部が、何かにえぐられたかのようにめくれ上がり、爆発に巻き込まれバラバラに引き裂かれた亜人達の姿が映った。
全身を襲う衝撃の中、混乱する視界の端で、揺るぎない巨影が爆風に耐えているのを捉えた。ガドニスだ。彼は大斧の柄を深く大地に突き立て、まるで嵐の中の岩のように微動だにしない。
吹き飛ばされながらも、その巨影とイーリアスの視線が確かに交錯した。
次の瞬間、ガドニスは迷いなく片腕をイーリアスの方へ伸ばし、轟音の中でもはっきりと響く声で叫んだ。
「掴まれ!」
反射的にイーリアスは伸ばされたその手に自身の血に濡れた手を伸ばす。指先が触れ合った瞬間、強靭な力で引き寄せられた。猛烈な風圧の中、ガドニスはイーリアスの手首を掴み、自身の大斧の後ろへと引き寄せ、共に爆風が収まるのを耐え抜いた。
爆風が収まり、場に不気味な静寂が戻る。身体の痛みに顔を歪めながらも、イーリアスはガドニスの大斧にもたれかかり、大きく息をついた。
「はっ、これであんたに助けられるのも三度目か」
自嘲するように笑いながら、イーリアスは目の前の巨漢を見上げる。泥と埃に覆われてはいるが、その瞳には変わらぬ強靭な光が宿っていた。
ガドニスはふっと鼻で息を吐き、イーリアスから手を離した。
「恩義を感じてくれているのなら、後で聞きたいことがある。しかし、今は……」
ガドニスの言葉が途切れる。イーリアスは爆発の凄まじさを思い返し、顔を上げた。血と埃に汚れた顔で、隣に立つガドニスを見上げる。
「あぁ……凄まじい光と熱、それに風か。あれと無関係ってことは無いだろうね」
イーリアスの言葉に、ガドニスは僅かに眉をひそめた。その視線は、まるで何かに引き寄せられるかのように草原の北へと向けられる。
それは、亜人立ちが下がっていく方角とは異なる場所だった。夕暮れに染まり始めたその先に、かろうじて見えるくらいの人影が複数立っているのが見えた。
そして、その人影の中に、見覚えのある空色の髪を持つ影が止まるのが映った。彼らは動かない。ただ、静かにこちらを見ているように感じられた。
空色の髪……あれは、まさか。
そして、この世界で、あれほどの光と熱を伴う現象を起こせるのは、魔法使い達と呼ばれる種族しかいない。そして、彼らは良き隣人たちの――
「魔法、ってやつか?」
ガドニスの問いかけにイーリアスは無言で頷く。
視界の向こうでゆっくりと人影が腕を上げる、それに呼応するように周囲の風が渦巻き、"何か"が凝縮されていくような気配を感じた。
直後、押しつぶされるような重圧。
イーリアスの直感が告げる、"何か"が来る。