第4話:逃れられぬ絶望の果てに
ゴトリ――。
掌から滑り落ちた鈍色の石が、冷たい音を立てて地面に転がった。それはまるで、希望が音を立ててこぼれ落ちたかのようだった。
誓いは、届かなかった。
鈍色の石は、何も応えてはくれなかった。必死に堪えていた暗い感情が、堰を切ったように胸の奥から溢れ出し、虚無となってウィリアムを飲み込んでいく。
「帰ろう……。こんな僕でも、きっと、待ってくれてる人はいるんだ」
たとえどんなことがあっても、あの赤茶けた髭の父は優しく迎えてくれるだろう。
「諦めなければ、なんとかなる」
――そんなふうに、笑って。
震える手で石を拾い上げ、そっと腰のポーチにしまう。その重さが、まるで鎖のように足元を縛っている気がした。
「――行こう、僕の帰る場所へ」
けれど、ポーチの中の石は、黙して語らぬままだった。
それでも重たい足を引きずりながら、ウィリアムは祠を後にした。
夜の闇がすっかり辺りを包んでいる。
眼下に広がる集落には、見慣れた灯りとは違う、不穏な黒煙が立ちのぼっていた。
(……炉に、輝石をくべてるのか?)
そう思いながらも、胸の奥に沸き立つ違和感が拭えなかった。
儀式の後の喧騒かと思っていた声は、どこか切羽詰まっていて、追い詰められた獣のように甲高い。
黒煙の数も、明らかに多すぎた。
(まさか……)
鼻腔をくすぐる、非日常の焦げたような匂い。胸の奥をざわつかせる焦燥に突き動かされ、ウィリアムは駆け出していた。
木々の隙間から見えた村の景色に、思わず足が止まる。
燃え盛る家々。狂ったように揺らめく炎。
見たこともない鮮やかな光が炸裂するたび、人々が崩れ落ちていく。
「何だ……あれは……」
あれは、間違いなく、自分の村だ。
いつもは、あの山小屋だけが自分の居場所だと思っていた。
けれど、焼け落ちようとするその光景を目にしたとき、胸の奥から自然と、熱いものがこみ上げてきた。
――あれは、僕の村なんだ。
怒号と絶叫の不協和音の中、心臓が早鐘のように鳴り響く。
何が起きているか、理解できない。だが、行かなければならない。
魂の奥底が、そう叫んでいた。
(もうすぐ、村に着く……!)
そう思った瞬間――
ズザァッ! ガクンッ!
突如として足元が崩れ、視界が天地を反転する。
星空が、否応なく目に飛び込んできた。湿った地面の匂いと硬い衝撃。
そして、覗き込んでくるふたつの顔。
スファレとジンクだった。
見慣れたはずの顔が、どこか異質に見えた。嘲るような色はなく、代わりに焦りと緊張が強張った面差しに浮かんでいる。
「ウィリアム!」「村に……!」
声が、悲鳴のように重なる。
「村に……見知らぬ連中が現れたんだ!」
ジンクの声が、まるで足枷のようにウィリアムを現実に引き戻す。
「信じられないような力……魔法を使って、大人たちを次々と……殺し始めた!」
スファレの続く言葉が、現実感をじわじわと侵食していく。
(魔法……?)
その言葉だけが、現実と乖離した音のように耳に響いた。
火と煙と、鋭い叫び声。脳裏に焼きついたあの光景。
――あれが……魔法?
「村長から言われたんだ」
ジンクの声は、わずかに震えていた。
「戻ってくる若者たちを、村に近づけるなって……お前たちだけでも、逃げろって……!」
(逃げろ……?)
その言葉が、ようやくウィリアムの心に刺さる。
(……グラント!)
全身を焦燥が貫いた。ウィリアムは反射的に立ち上がる。
「いやだ! グラントを放ってはおけない! 僕は戻る!」
その叫びを、スファレの鋭い声が遮った。
「馬鹿なことを言うな! 鈍石持ちのお前が行ったところで、ただの足手まといだ! 死ぬだけだ!」
その言葉は、冷たく胸に突き刺さる。
「輝石の力は、輝きの強さで全てが決まるんだ。武器の力も、戦う力も……お前には、あの力は止められない」
ジンクが、静かに、しかし断固たる声音で続けた。
「他の若者たちには伝えてきた。……俺たちは、この村で一番強い輝きを持つ者として、戻らなきゃならない」
「それが、俺たちの誓いだ」
2つの声が重なったとき、それは一つの意志になった。
「俺たちは、輝石に誓った。……この村を、守るって」
見下していたはずの双子の瞳に、いまは確かな強さが宿っていた。
その光は、胸の輝石よりも遥かにまぶしかった。
(魂のきらめき……)
グラントの言葉が、ふいに脳裏に浮かんだ。
魂の煌めきとは、きっと――こういうことだ。
今、初めてその意味を理解した気がした。
「……死ぬなよ」
そう呟いたウィリアムの目の前で、双子は迷いのない足取りで闇へと駆け出していいく。……見返してやる、なんて小さな誓いで石が輝かなかった事に落ち込んでいた自分が、今はただ愚かに思えた。
(そうだ。僕は――凡石だ)
ポーチの中の鈍色の石が、鉛のように心に沈んでいく。それは無力な自分への重しであり、背負うべき現実だった。
足が崩れ、身体が倒れ込む。
冷たい地面に身を横たえたウィリアムの上で、星々が容赦なく瞬いていた。それはまるで、彼の絶望を見下ろして笑っているかのようだった。
ただ、呆然と、空を見上げることしかできなかった。
双子の消えたその闇の先に、何が待っているのか――。その答えを知るには、彼はまだ、あまりに力が足りなかった。