第39話:戦士の矜持
「やめろ!」
逃れられない終焉が迫る中、亜人たちの動きを強引に止める、断固たる叫びが戦場に木霊した。その声は、先ほどまでのマーサの低い、だが熱を帯びた言葉とは全く違う。確固たる信念と、有無を言わせぬ威圧感を孕んでいるように聞こえた。
気付けば、閉じかけていた亜人の壁は、イーリアスの眼前で沈黙していた。
イーリアスは泥と汗にまみれた視界の中で、全てが終わることを受け入れていたはずだった。だが、その声は、そんな彼女の覚悟を一瞬にして揺さぶる。
何が起こったのか理解できないまま、イーリアスは呆然としたまま立ち尽くす。
やがて、止まった亜人たちの隙間から、まるで戦場の象徴だと言わんばかりに身の丈ほどの大斧を誇示するように担いだ男の姿が現れる。
燃えるような赤銅色の髪と、誇らしげに逆立つ髭、わざとらしく尊大な笑みを浮かべるその仕草、イーリアスはその全てに見覚えがあった。
「また会ったな」
グラントのガドニス――以前そう名乗っていた男は、イーリアスに向かって気さくな笑みを向けた。亜人であるはずの彼が、なぜ自分を助けるのか。そして、あの親しげな表情は何なのだろうか。
疑問は数あれど、答えは一向に見えてこなかった。思えば、以前、マーサに刃を向けられた時も、彼は現れたのだ。まるで、都合の良い救世主のように。
「ガドニス! またしても邪魔をする気か!」
イーリアスの疑問を吹き飛ばすようにマーサが雄叫びを上げる。
その表情は歪にゆがみ、今にも食らいつきそうな程に怒りを表していた。
「邪魔をする気は無い。しかし、だ……」
マーサの剣幕など歯牙にもかけない様子でガドニスが大きく溜息をつく。その表情は先ほどまでの穏やかなものとは打って変わって、威圧するかのように険しくなり、マーサを睨み付ける。
「戦争に力を貸した覚えはあるが、虐殺に協力すると言った覚えはないぞ?」
ガドニスの言葉が、戦場に短い静寂をもたらした。
亜人たちのざわめきも、マーサの怒号も、一瞬にして鳴りを潜めた。その静寂を破ったのは、乾いた、嘲笑だった。
「戯言を」
マーサはそう吐き捨てると、ガドニスを侮蔑するように鼻で笑った。その目は冷酷で、ガドニスの言葉など、一片の価値もないと言わんばかりの軽蔑に満ちている。
「グラントのガドニス殿は、戦場というものを理解されていないようだ」
わざとらしくマーサがガドニスを馬鹿にするような言葉で挑発し、嘲笑を煽るように手を広げてみせる。次第に、周囲のフェラルドから嘲るような笑い声が広がり始める。
ドォン――!
ガドニスが担いでいた大斧を勢いよく大地に叩きつけ、大地が震えるほどの轟音に再び静寂が訪れる。
「それは、俺たち地穿ちの民を馬鹿にしているって事なんだろうな? 全てを敵に回してもいいと、そう言いたいんだな?」
地の底からあふれ出すようなガドニスの怒気に応じるように、周囲のドゥルガー達からも熱い鉄塊のような威圧感が漂ってくる。
戦場は、イーリアスの事など忘れたように、フェラルドとドゥルガー、二つの種族の間に大きな溝を作り出す。
「悪いんだが、あんたらが勝手に潰し合うなら、別の場所でやってくれるか!」
先ほどまで沈黙を守っていたイーリアスが、冷ややかな声で言い放つ。亜人たちの亀裂は願ってもない展開ではあった。
だが、このまま傍観者でいることは、彼女の矜持が、共に倒れた者たちの想いが、決して許さなかった。
「ガドニス。助けてくれたとこ悪いが、私は最後まで戦わなければならないんだ……死んでいった奴らのためにも、一人でも多く道連れにして、ね」
イーリアスの瞳が、昏い炎のように怪しく光る。
その黄金の輝きは、死を眼のまえにした怯える兵士のものではなく、戦うことを自らに定めた戦士のものだった。自らの死地へ足を踏み入れる愚かさなど、理解していた。しかし、理屈ではない。託された想いが、魂の叫びが、彼女の足を前に突き動かすのだ。
マーサとフェラルドたちの鋭い視線が、イーリアスに突き刺さる。
その警戒の色とは対照的に、ガドニスは豪快に笑い声を上げた。
「ハッハハ! 良い目だ、イーリアス! いい戦士の顔だ!」
ガドニスはそう言って、満足そうに顎髭を撫でた。その瞳は、イーリアスの奥底に宿る決意を見抜いているかのようだった。
そして、一転、その笑みを消し去り、鋭い目でマーサを射抜いた。
「おい、マーサよ。どうだ、この女と一騎打ちでもしてみないか?」
マーサは、ガドニスの予期せぬ提案に、侮蔑と苛立ちを露骨に顔に表した。
「一騎打ちだと?」
訝しげな声に、周囲のフェラルドたちもざわめき始める。ガドニスは、そんな周囲の反応など意にも介さず、当然のようにゆっくりと頷いた。
「もし、この女が貴様に勝ったら、見逃してやれ、殺すには惜しい。だが、もし貴様が勝ったら――今後、俺たち地穿ちの民は、貴様らフェラルドの行動に一切口出ししないと誓おう」
マーサは、まるで汚物でも見るかのような目でガドニスを睨みつけた。
「ふざけるな! そんな提案に乗る理由などない!」
ガドニスは、予想通りの反応だとでも言うように、肩を竦めてみせる。
「ならば好きにしろ。その女を今すぐ殺すがいい。だが、その瞬間、この戦場にいる地穿ちの民全てが、貴様らの敵となることを覚悟するんだな」
ガドニスの言葉に応じるように、周囲のドゥルガーたちが重々しい足音を響かせ、大地を文字通りに震わせるような轟音が戦場に響き渡った。
それは、静かなる威圧となってマーサに圧力をかける。
「我ら地穿ちの民は戦士と認めたものに暴虐な振る舞いをするものを許さない」
その言葉には、誇りと、決して譲れない強い意志が込められていた。
彼の瞳は、まるで研ぎ澄まされた刃のように冷ややかな光を放ち、マーサの喉元に突きつけられるようだった。マーサが、周囲の圧力とガドニスの言葉の重みに、じりじりと追い詰められていくように見えた。
マーサは奥歯を噛み締め、苦虫を噛み潰したような顔を歪めた。
「……分かった。その一騎打ち、受けて立つ」
マーサの絞り出したような声が響くと同時に、周囲の亜人たちはざわめきながらも、二人の間に広がる空間からじりじりと距離を取り始めた。
ドゥルガーとフェラルドの間にできた"溝"は、今やこの一騎打ちのためのリングと化した。ガドニスは腕を組み、面白そうにその様子を眺めている。
イーリアスは息を整え、愛用の剣をしっかりと握り直した。
泥と汗で汚れた視界は、もはや目の前の敵しか捉えていない。マーサの歪んだ顔には、侮蔑の色に加えて、奇妙な昂揚感のようなものも混ざっているように見えた。まるで、待ち望んでいた獲物を見つけたかのような、病的な光がうかがえる。
互いに構えを取り、静寂が場を支配する。張り詰めた空気の中、マーサが嘲るように口を開いた。
「フン、所詮傭兵風情が。粋がってみるがいい。だが、すぐに後悔させてやる」
イーリアスは、その言葉に感情を揺らすことなく、ただ静かに剣の切っ先を相手に向けた。
「悪いが、後悔するのはあんたの方だ。」
二人の間に横たわる短い距離が、無限にも感じられた。風が、場に残る血の匂いを運んでくる。静寂の中、お互いの呼吸音だけが響く。
先に動いたのは、マーサだった。
「死ね!」
獣じみた咆哮と共に、マーサが地を蹴る。その動きはフェラルド特有の驚異的な速さで、剣が閃光となってイーリアスに襲いかかる。
イーリアスは紙一重でそれを躱し、返す刃でマーサの脇腹を狙った。金属と金属が耳障りな音を立ててぶつかり合い、火花が散る。
一撃ごとに込められた力は重く、イーリアスの腕に痺れが走る。しかし、彼女の瞳に宿る炎は、怯むことなく相手を射抜いていた。