第38話:戦場の檻
イーリアスは地に膝をつき、息を整える。ガサガサと踏み鳴らされるいくつもの草の音がゆっくりと通り過ぎていく。
緊張感からか、生い茂った草の隙間から見える獣顔の集団が、こちらを見ているんじゃないかという錯覚すら覚える。すぐ隣で伏せているジェスパーからも、過呼吸気味に繰り返される息づかいを感じる。
まだか――先の戦闘で見つけた隊列のわずかなほころび、亜人達の隊列のつなぎ目とも言える場所。それが見えてくるまで、遊撃隊は、今にでも見つかるのではないかという緊張感と戦いながら、その時をじっと待ち続けていた。
隊列の向こうに見える岩へ、ふと視線を送る。
ロイドとレイナ達は大丈夫だろうか。手はずでは彼らはあの岩陰に潜み、"わざと見つかるように"奇襲をかけることになっていた。
死すら厭わぬ覚悟で挑む、彼らの作戦がまさに始まろうとしていた。イーリアスは、その現実に指の震えを抑えられずにいた。
やがて、聞こえてくる隊列の足音にわずかな変化が訪れた。革の擦れ合う音が少しずつ薄れ、代わりにガチャガチャという鉄同士がぶつかり合うような音が増える。
待ち続けていたものが訪れたことを知り、イーリアスがふと視線を亜人の隊列へ向ける。
その中に、かつてイミス村で対峙した虎顔の男――――マーサの姿を見つける。黄土色の革鎧に身を包み、漆黒の毛並みを揺らしながら、堂々と歩くフェラルド。
イミス村で一度対峙した、あの男がここにいた。彼はこの進軍の指揮官格と思しき存在であり、倒せば敵の動きを止められるかもしれない。
獲物を見つけた獣のようにイーリアスの瞳が力強く光る。それは、今の彼女にとって唯一の光だった。気づけば、指の震えもいつの間にか収まっていた。
「敵襲ーーッ!」
突如訪れた喧騒に、亜人の隊列が揺らぎを見せる。フェラルド達は我先にと声の上がった方向へと歩みを向けるが、迎え撃つべく体制を整えるドゥルガー達に遮られ、一時的に亜人の隊列は混乱状態となった。
予想通りの展開にイーリアスはこの作戦の成功を確信していた。上手くいけば、マーサを撃破し、全員で帰還できる未来だってつかみ取れるかも知れない。そう感じながらイーリアスは腰に帯びた剣をゆっくりと抜き、タイミングを見極める。
(まだだ……)
今出てしまったら、イーリアスもロイドとレイナ達と一緒に囲まれてしまう。しかし、遅すぎては彼らが亜人の渦に飲み込まれてすりつぶされてしまう。はやる気持ちを抑え込むようにしながら、イーリアスは亜人の隊列の動きを見定める。
乱れていた亜人の隊列は、マーサの号令と共に秩序を取り戻し、ゆっくりとロイド達を飲み込み始める。聞こえてくる剣戟の音に、イーリアスの胸がざわつく。
「今だ……行くぞ!」
押さえ込んでいた感情を爆発させるようにイーリアスは駆けだした。一瞬で亜人の背後に迫り、その無防備な背中を払うように剣を走らせる。
迸る鮮血が、周囲に鉄の匂いを漂わせていく。遅れてジェスパー達が突撃し、一人、また一人と亜人を斬り伏せていく。
イーリアス達の二重の奇襲を受けた亜人の隊列は先ほどよりも大きく乱れる。
亜人の軍をかき分けるように切り結びながらイーリアスは前進する。ロイドとレイナは"混乱させたら逃げろ"と言っていた……しかし、最初から逃げるつもりなどイーリアスにはなかった。それを察したかのようにジェスパー達も後を追うように突き進んでくるのがわかる。
「く、そ……俺はここまでだ」
聞き慣れた傭兵の声が背後から聞こえてくる。振り下ろした剣は亜人ではなく、味方の命を奪っているんじゃないのか。そんな錯覚を振り払うように、イーリアスは次々と血で出来た道を作り上げる。
「下がれ――!」
マーサの怒号が戦場に響き渡る。
低く、獣の咆哮のようなその声に呼応するかのように、混乱していたはずの亜人達が、一瞬にして動きを揃えた。
それは、一つの巨大な肉体が息を吹き返したかのようだった。規律を取り戻した亜人達の隊列が素早く形を整え、イーリアス達を包囲するように押し寄せてくる。
先ほどまで切り拓いていたはずの道は、あっという間に閉じられていた。
イーリアスは咄嗟に振り向き、後続の味方に視線を走らせる――が、そこにいたのはただ一人、血まみれの剣を握りしめたジェスパーだけだった。
(そんな……皆、死んだというのか……)
同時に、戦場の向こう――剣と斧の交錯が一瞬の静寂を迎えた刹那、視界が一時的に開ける。その先にあった岩陰。死地へと誘い出す役目を担っていたロイドとレイナ、そして共にいた十人の傭兵達の姿が――動かない。
岩肌に寄りかかるように崩れたロイドの体。無残に斃れたレイナの傍らに転がる複数の血塗れの死体。仲間だった者達が、皆、すでに沈黙していた。
イーリアスの胸が、締めつけられるように痛んだ。
(間に合わなかった……!)
あのとき、もう少し早く飛び出していれば。もしくは、最初から正面を突破する覚悟をしていれば。目の前のこの光景は、あるいは変わっていたのではないか――。
後悔が脳裏をよぎった次の瞬間、風を裂くような気配が背後から迫る。
――それは、突如として訪れる斬撃。
イーリアスの身体が反応するより先に、何かが割れるような音が響いた。
「っ、が……!」
咄嗟に庇ったのは、ジェスパーだった。
彼の体が盾のように割り込んできて、マーサの巨大な刃を受け止める。その勢いのまま、彼の体は宙を舞い、地面へ叩きつけられる。
「ジェスパー……っ!」
イーリアスは声を上げ、駆け寄ろうとする。しかし、目の前にはなおも立ちはだかる虎顔の男――マーサがいる。あの咆哮の主。この戦場を操る指揮官。そして、仲間の命を奪った張本人。
マーサは、血の滴る刃を構えながら、ゆっくりとイーリアスに歩み寄ってくる。
「さて……次は、お前だ」
一人となったイーリアスをすり潰すように亜人達の包囲網が近付く。それはまるで亜人で出来た壁のようだった。
(せめて、こいつだけでも……!)
イーリアスは弾かれるように剣を構えてマーサに向かって突進する。
刹那、風を切るような音が耳に届く。考えるよりも早くイーリアスが身を翻すと、先ほどまでイーリアスが居た場所に一本の矢が刺さる。
「はっ、二度も同じ手を食うかよ」
体勢を立て直し、周囲に目を配る。迫り来る亜人たちの壁は、もはや数歩でイーリアスに届こうとしていた。
逃げる場所も、援護もない。見渡す限り、戦場の残響だけが広がっている。
イーリアスは剣を握り直した。震える手に力を込め、最後まで抗う覚悟を固めかけた――そのときだった。
亜人たちの先頭に立つ大柄な影が、ひときわ高く片手を掲げる。
合図は明確だった。奔流のように突き進んでいた亜人たちの足が止まる。まるで時間が一瞬だけ凍りついたかのように、静寂が場を支配した。
影――マーサが、イーリアスを見下ろす位置に立っていた。
「あの時……イミス村で見た顔だな」
押し殺したような低い声が、ざらついた風に乗って届く。マーサはゆっくりと前に出ながら、背後にいる仲間たちへ振り返らずに言った。
「隣人どもは……我々を、踏みにじった。これが、その報いだ」
亜人たちの間にざわめきが広がる。誰も声を上げないまま、マーサの言葉だけがひたすら重く、空気を押し潰していく。
やがて、マーサが再び手を振り下ろした。
再び動き出した亜人の壁は、今度こそイーリアスを飲み込むように、その口を閉じようとしていた――。