第3話:芽生えた希望と伴わぬ希望
清々しい朝の空気には、どこか張り詰めた緊張が漂っていた。ウィリアムは身支度を整えるたび、繰り返し掌を見つめる。
その中心にあるのは、どこまでも沈黙を貫く鈍色の石。何の輝きも宿さず、まるで彼の存在そのものを映しているかのようだった。
だが昨夜、何度も繰り返しグラントの言葉を思い返すうちに、湧き上がってきたのは諦念ではなかった。
それは――抗うという、静かで確かな決意だった。
今日という日を迎える覚悟は、昨夜よりもわずかに強くなっている。
スプレンディラピスの民にとって、成人の儀とはただの通過儀礼ではない。輝石を武器に変え、過去を脱ぎ捨てること。
それは新たな自分に生まれ変わるという、神聖なる再誕の儀。
この集落に暮らす若者たちは、皆がその日を待ちわび、今まさにその瞬間を迎えようとしていた。希望に満ちた瞳で。未来を信じる心で。
――ただ一人、暗澹たる影を胸に抱えるウィリアムを除いては。
鍛冶場の方を見やると、いつもなら「おはよう!」と陽気に声をかけてくるはずの男の姿がない。
グラント。彼の不在に、ウィリアムはふと胸にぽっかりとした空洞を感じた。きっともう、他の若者たちのために、会場の準備に出てしまったのだろう。
「……行ってきます。」
返事のない空間に向かって、ウィリアムは静かに呟いた。それは、鍛冶場と、そこに魂を注いできた男への敬意だった。
煤けた壁、磨り減った金槌、そしてまだ微かに温もりの残る炉――。
小さな別れの言葉を胸に、ウィリアムは山小屋を後にする。
村の中心へ向かうにつれ、心の奥に押し込めていた感情がじわじわと顔を出し始めた。彼は腰に下げたポーチの中、袋越しに鈍色の石をそっと撫でる。
(……こんな僕に、成人の儀を受ける資格があるのか?)
――お前の石には、まだ形がないだけだ。
グラントの言葉が、まるで光のように心に差し込んでくる。不安と疑念に支配されかけていた心が、じんわりとした温もりに包まれていく。
「おい、凡石。お前なんかが成人の儀に出られると思ってんのか?」
その嘲りの声に、ウィリアムは一瞬だけ表情を曇らせた。けれどすぐに、平静を装って顔を上げる。
そこにいたのは、銀髪碧眼の青年――ジンク。
胸元には、まばゆいばかりの銀の輝石が誇らしげに揺れていた。
その隣には、金色の輝石を持つスファレ。
同じ顔、同じ冷たい目――この集落で“祝福された双子”と称される存在だ。
二人の視線は、まるで玩具を弄ぶような悪意に満ちていた。周囲からは、好奇と嘲笑の視線が集まり始める。
「またジンクたちが、鈍石にちょっかいかけてる……」
そんな声すら、笑いとともに流れていく。
奥歯を強く噛み締める。けれど、それ以上は何も返さなかった。言葉はただ、彼らの望む餌にしかならないからだ。
彼らの力、美貌、輝き。すべてが周囲の羨望と服従を集めていた。それに逆らう者など、この村にはいない――ただ一人を除いて。
だが、その例外も今はきっと、感謝すらされずに炉の世話に追われているのだろう。それも満足そうな笑みを浮かべながら。
「静かに――これより、成人の儀を始める。」
厳かで、どこか時間の重みを帯びた声が広場に響いた。
白髪を丁寧に束ねた老人――ジェイド長老。
風になびく白髭と、深い皺の刻まれた顔。その瞳には、伝承を背負う者の覚悟が滲んでいる。杖を高く掲げたその手を中心に、広場の空気が静まり返っていく。
「祠にて、己の誓いを捧げよ。誓いが真実ならば、石は応える。」
「その輝きを炉に納めよ。石は心を映し、魂と共に生きる武器と化すだろう。」
「さぁ、行きなさい。子らよ。己の声を、石に刻むのだ。」
その言葉が終わると同時に、若者たちが勢いよく駆け出していった。眩く輝く石を胸に、爛々と希望に満ちた瞳で――未来へ向かって。
先頭を走るのは、やはりジンクとスファレだった。白銀と金――その光が、ウィリアムの目をかすかに眩ませた。
(見返してやる……)
そう心の中で呟き、ウィリアムは空を見上げ、そっと瞳を閉じた。だが、彼の決意とは裏腹に、腰のポーチがひときわ重く感じられた。
「ウィルよ――」
そのとき、ジェイドが彼を呼び止めた。老いた手が腰の短剣を抜く。
それは青緑に輝く、美しい剣だった。
「この剣も、かつては光なき石であった。だが誓いは形となる。信じるのだ、自らの内に宿る“真実の声”を。」
ウィリアムは返事をせず、ただ静かにポーチに触れる。鉛のように重く、冷たい石は――今日も沈黙を貫いたままだった。
彼は軽く頭を下げると、ジェイドに背を向け、山道へと足を踏み出す。
陽光が木々の間から降り注ぎ、森の緑が揺れている。けれどその光もまた、どこか遠い世界のもののように感じられた。
道は徐々に狭まり、苔むした石段が現れる。誰が敷いたのかさえも分からない、古の階段。
一歩、また一歩。
汗に濡れ、息を切らしながらも、彼は立ち止まらない。止まることは、敗北を意味していた。
途中、すでに儀式を終えた若者たちとすれ違う。彼らの胸には誇らしげな輝石――石は応えたのだ、彼らの誓いに。
(……僕も……)
揺れる決意。
蝕む不安。
心の深いところで、それらがせめぎ合う。
やがて、木々が途切れ、視界が開けた。
風に削られた岩場の上に、ぽつんと立つ古びた祠が姿を現す。
祠の中には、いまだ数人の若者が残っていた。その手に輝石を握り、誰かを、何かを守りたいと強く誓っている。
その誓いに、石は応える。
そして、やがて――ウィリアムだけがそこに残された。
誰もいない祠の中で、彼はそっと腰を下ろし、ポーチから鈍色の石を取り出し、掌の上にのせる。
冷たさが、肌を通して心まで浸透していく。
「……誓い、か。」
誰に問うでもないその言葉は、祠の中でかすかに反響する。
――お前は、何を誓う?
石が語りかけるような錯覚に、ウィリアムはそっと目を閉じた。
心の奥に沈めてきた言葉を、一つずつ拾い上げるように。
(誓いとは何だ? 僕は何を望んでいる?)
「僕は……見返したい。あいつらを。僕を笑った全てを。」
掌に握りしめた鈍色の石に懇願するようにウィリアムが声を上げる。
「だから……力を。どんな犠牲を払っても、手に入れてやる!」
その言葉は、やがて静かに闇に吸い込まれていく。
鈍色の石は、何の反応も示さない。
ただ、そこにあるだけだった。
そしてその夜――彼の中の何かが、ほんのわずかに、揺れた。