第2話:失われた情景
陽光は、雲の切れ間からぽつぽつと地上を照らしていた。まだ、あの焼け付くような夜の出来事を夢に見ることもない、穏やかな午後だった。
その柔らかな光の中で、少年――いや、もうすぐ成人を迎える青年ウィリアムは、草むらに寝転び掌のくすんだ石をじっと見つめていた。
「何が輝石だよ……」
誰にも聞かれないよう、不満そうに小さく呟く。
周囲の若者たちが、自らの石を誇らしげに掲げる姿を見て、彼はそっと視線を逸らした。
輝石の一族と呼ばれるその種族は、生まれ落ちた時に輝きを放つ石、「輝石」を握りしめているといわれている。
しかし、青年が持つ石は輝石と呼ぶには余りにも異質で、重く鈍い灰色の塊だった。
「おい、凡石。お前みたいな奴がいると石が淀むだろ、さっさと穴蔵に帰れよ。」
若者の一人が青年に蔑むような視線で見下ろしながら声をかけてきた。彼は金色の短髪を逆立て、金色の輝石を腰に吊るしていた。それが誇らしげに胸元で光っている。
ウィリアムはその眩い輝石の輝きに照らされないように、自分の掌の中にある鈍色の塊を固く握りしめた。
凡石――彼らの中でも輝きを持たない者に対する蔑称の1つで、幼い頃から青年はそう呼ばれ続けていた。
ただでさえ落ち込んでいた気分が、より沈み込むような感覚を覚える。面倒くさそうに上体を起こしながら、青年は若者の方を見返した。
「やぁ、スファレ。僕にはウィリアムっていう名前があるんだ。 それくらい覚えるのは君の頭じゃ難しいかい?」
ウィリアムが意趣返しとばかりにため息交じりに皮肉を言うと、スファレと呼ばれた青年の口元に浮かんだのは、怒りというより、先ほどよりも冷たい嘲笑だった。
スファレの目は細められ、ウィリアムを見下すような光を帯びる。それは、言葉以上に相手を侮辱する傲慢な仮面だった。
「はっ、そんな輝きもしない石を持っている奴を凡石って呼ぶんだよ。お前が皆になんて言われてるか知っているか? 凡石、鈍石持ちのウィル。あぁ、煤石なんてのもあったな。」
陽光を浴びてきらめくスファレの輝石とは裏腹に、彼の嘲笑は底なしの悪意を宿した泥のように、ウィリアムの心を重く沈ませる。輝石なんて、こんな醜い心を飾るだけのものなのか――ウィリアムの胸に、深い陰のようなものが広がっていく。
幼い頃より輝かぬ者として蔑まれてきたウィリアムにとって輝石とは、眩いばかりの夢を見せる羨望の象徴でありながら、その光の裏側にある自身の暗闇を突きつける憎悪の対象でもあった。重く沈み込んだ心が、より一層掌に握りしめた鈍色の塊を曇らせていくような気がした。
クスクス――面白おかしいものを見たような笑いが周囲の若者たちの間に広がった。見下すような、あるいは憐れむような視線がウィリアムに突き刺さる。「そんなこと言ったらかわいそう」といった間延びした声が聞こえてくるが、それは道ばたで虫を弄ぶ子供を諭すような、上から目線の、薄っぺらな同情でしかなかった。
「……そうだったね。 これ以上皆の邪魔したら悪いから僕は帰るよ。」
喉の奥で渦巻く黒い感情を堪え、わずかに引きつった笑みをスファレに向け、ウィリアムはその場を後にした。まるで巨大な捕食者から存在を悟られないように逃れる獲物のように、しかし露骨な動きは避け、あくまで自然に見えるよう、一歩、また一歩と少しずつ足を速めていく。背中に突き刺さるような視線を感じながら。
集落から離れるにつれ、重苦しい空気は薄れ、代わりに鼻をくすぐるような草木の香りがウィリアムを出迎えてくれた。空気は清々しく、どこか落ち着かせるような自然の優しげな囁きに、張り詰めていた心がゆっくりと解きほぐされていくように感じた。
まだ遠くに見える山小屋からは、鍛冶場の炉からだろうか、力強い黒煙が狼煙のように立ち上り、自分の帰るべき場所を静かに示してくれている。
彼の足取りは、意識しないうちに、ほんの少しだけ軽くなっていた。
「ただいま、グラント。」
作業の邪魔をしないように小さく帰宅を告げて山小屋の戸を開けると、赤茶けた髪の小人のようなずんぐりとした体型の男性が、自慢のそれまた赤茶けた髭を指でゆっくりと撫でながらこちらに振り返る。グラントと呼ばれた小人は、この集落に流れ着いたという変わり者のドワーフで、その卓越した鍛冶の腕を見込まれ、この集落の外れにある山小屋にウィリアムと住むことを条件に滞在を許されていた。
グラントはウィリアムを見ると、緊張の解けた柔らかな笑みを浮かべ、気さくに大きな片手を上げた。
彼は、輝石を持たないウィリアムをこの集落で唯一分け隔てなく接してくれる存在であり、ウィリアム自身もまた、スプレンディラピスではないという理由で周囲から疎外されてきたグラントに言葉では言い表せないほどの親近感を抱いていた。
「今日は何を作ってるの?」
ウィリアムは、グラントの熟練した手が様々な鉱石を操り、熱い炉の中でそれらが溶け合い、新たな形へと変わっていく様子を飽きずに見つめていた。
ゴウゴウと燃える炉の熱気と、金属がぶつかり合う……。乾いた音が響く中、凡石と呼ばれる自分でも、いつか何かと深く交わることでその存在を認められるのではないか――そんな淡い希望にも似た感情が、彼の胸の奥には確かにあった。
「明日の成人の儀があるだろ、その準備も兼ねて炉の調整だ。何てったって我が子同然のウィルの晴れ舞台にもなるからな。」
「カン、カン、カン」とグラントは満面の笑みを浮かべながら快活にハンマーを振り下ろす。その音色は無機質な鉱物から新しい命が生まれる産声のように鍛冶場に響き渡り、その心地よい響きに、明日に控えた儀式への微かな緊張を覚えながらも、ウィリアムは瞳を閉じて耳を傾けた。
成人の儀、それは16歳になったスプレンディラピスの青年が自身の輝石を武器に加工し、いざという時はその武器を手に取り、種全体を守り反映させていく誓い日。彼らの種族が生涯を石輝石と共に生きることを誓う重要な儀式だ。しかし、ウィリアムの手にあるのは、輝きを持たない鈍色の石だった……。
「……まだ気にしてんのか? 俺らドワーフにはお前ら輝石人の価値観はよくわからんが、輝きなんて物は目に見えるものが全てじゃない、大切なのは魂の煌めきだ。」
まだ何も言っていないのに沈んだ空気を感じ取ったのか、グラントが優しい眼差しでため息交じりに頭をかきながら告げる。
それは昔からウィリアムが輝石の事で落ち込んでいると必ず言ってくれる言葉だった。「輝石がなんだ。お前の魂が輝いていればそれでいい、ようは加工次第って事だ。」ドワーフの彼に取っては輝石の輝きよりも、その石をどうやって形にするか、それが何より大切だとウィリアムに、いつも変わらぬ温かい声で教えてくれた。
ウィリアムの胸には、それでも拭いきれない不安が残っていたが、グラントの言葉は、彼の心に小さな希望の光を灯してくれた。
……安や劣等感が巣食っていたが、それでもグラントの言葉は、まるで冷えた炉に再び火を灯すように、彼の心にほんのりとした熱をもたらしてくれる。
「魂の煌めき、か……」
ポツリと呟いたウィリアムの視線は、再び手の中の鈍い石へと落ちる。鉛のように重たいその色と質感は、どう見ても周囲の輝石のように華やかでも、光を反射することすらない。それでも、この石はウィリアムが生まれた時から握りしめていた、自分そのものと言ってもいい存在だった。
――お前の石には、まだ形がないだけだ。
昔、グラントが言った言葉を思い出す。 他の誰かと同じように輝く必要はない。自分だけの形、自分だけの武器を見つける。それがこの石との、本当の出会いなのだと。
「明日が楽しみになってきたよ」
そう言ったウィリアムの声は、ほんの少し震えていたけれど、確かに前を向いていた。
グラントは一度ウィリアムの顔を見て、それから大きく頷き、またハンマーを振り下ろす。 「カン、カン、カン」という音が、夜の始まりと共に、山小屋の鍛冶場に響き渡った。