Ⅵ 名家の血筋
領都に戻り、母と久方ぶりの再会を果たした。今では母はもう起き上がる事もままならない。自室のベッドに横になったきりで、ペンでさえ重く感じられて手に取る事も出来ないようだ。
フラヴィアと同じ菫色の瞳も開く事は少なくなった。それでもフラヴィアがベッドの横に座ると嬉しそうに微笑んだ。
「フラヴィア…久しいわね。」
「ただいま戻りました。」
「貴女の活躍は…聞いているわ。」
母は苦しそうに一言ずつ息継ぎをしながら搾り出すように話す。
「お母さま、無理にお話にならないで…。」
咳込む母の背中を撫でると、ぎゅっと手を握られた。
「フラヴィア…侍女達を連れて逃げなさい。」
「そんな…お母さまを残して行けません。」
3年前の言葉をフラヴィアは1人思い出す。
(なんという因果でしょうか)
「私は長くないわ。お願い。」
残っている侍女は2人だ。1人は母が嫁入り前から支えている旧知の侍女、もう1人はフラヴィアが孤児院でスカウトした忠義の侍女だ。
恐らく、2人は母とフラヴィアを残して砦から逃げる事は出来ないだろう。長い付き合いの中で分かっている事だ。
「お母さま、2人には逃げるように説得します。でも、私はローゼンタール一門を束ねる当主の娘として逃げる訳にはいきません。」
懇願するように見つめる母をみて、3年前より随分と弱気になっている事を知る。侯爵夫人として堂々たる風格を見せていた母も今は1人の母親としてフラヴィアを心配している。
しかし、3年前より少しだけ大人になったフラヴィアに逃げると言う選択肢はなかった。
「私が逃げれば我が軍の士気は落ちましょう。裏切られたと思う兵や領民もいると思うのです。」
「どうしても残るの?」
「はい。私の命運はローゼンタールと共に。」
「そう…。それが貴女の正義なのね。」
母は少し寂しそうに、でも愛おしそうに言った。
「はい。」
「分かったわ。それなら私は私の正義を貫きましょう。」
病に伏せり、迷いがちだった菫色の瞳に強い意志の光が宿る。
そして国王軍が領都に迫った夜、母は1人服毒をして旅立ったのだった。母の容体ではこの砦から逃げる事は出来ない。自らの命の期限を悟り、娘と侍女を守るために自死を選んだのだろう。
士気を下げてはいけないと、母の死は上層部の者たち以外には伏せられる事となった。
母の死をしる人物のなかには2人の侍女も含まれている。おいおいと泣く2人の侍女に母から手書きで『逃げなさい。』との遺言が残された。この遺言を盾にして半ば強引に逃した。
フラヴィアは手持ちの宝石箱からとっておきの宝石のついた装飾品を2人に持たせることにした。
たくさんの侍女や使用人にも下賜したのでフラヴィアの手元に残したのはローレンスから以前贈られた髪飾りと母の家系から受け継いだ紫水晶のネックレスだけだ。
「奥様はお嬢様と私たちを逃がすためにお命を犠牲にしたのです。」
「フラヴィアお嬢様も一緒に。」
喚く2人の侍女に対して静かに首を振って今生の別れを終えた。
部屋には侍女によって綺麗に死化粧をされた母が横たわるだけだ。フラヴィアは最愛の母の亡骸に触れた。
「お母さまはご自身の正義を全うされたのですね。」
少しの間2人きりの時間を過ごす。名残惜しいが、ずっとこの部屋には居られない。
フラヴィアは母の鏡台の引き出しを開けた。そこには美しく装飾された短剣が入っている。短剣はローゼンタール家の女性に引き継がれる一品だ。
万が一の時、貞操を守る為この国の貴族の女性は短剣を用意していた。恐らく、母には既に自ら短剣を手に取る力さえ残されていなかったのだ。国王軍がこの砦に乗り込んできた際には今現在唯一の女性であるフラヴィアも無事ではないだろう。クーデターの首謀者の娘であり、女性という事で死よりも辛い事があるかもしれない。その為にお守りとして短剣を身に付ける事にした。もしもの時には母のように死を選ぼう。
鏡台の引き出しを静かに閉じると、ふと、目の前の自分の姿を目にした。フラヴィアは紫水晶のネックレスをぎゅっと握りしめると最後に母に近寄ると額に口付けをした。
「お母さま、大好きよ。また会いましょう。」
ーーーギィ、と広間の扉を開く。それまでガヤガヤと男性達が今後の策について言い合っていたのに、一瞬で静寂に包まれた。広間の視線が集まるのが分かる。
一瞬の静寂の後、親戚筋の当主がわらわらと駆け寄りフラヴィアに声をかける。
「フラヴィア嬢、お早く逃げませんと。」
「ご母堂の遺言を叶えて下さいませ。」
チラリと父に視線を移すと、父は気難しげに腕を組んでフラヴィアを見つめるだけで何も言わない。
ローゼンタール侯爵家一門の筆頭当主である父は自らの娘に逃げろとは言えないだろう。
「…私は…」
フラヴィアが口を開きかけた時、ツカツカと足音をさせてこちらに向かってくる若者を見た。
「逃げろ。」
「え?」
「早く逃げるんだ。」
「ジーク、やめなさい。」
ジークハルトがフラヴィアに迫り、父の近くにいたオースティン子爵が声を上げた。
「私は残ります。」
答えると、ジークハルトはフラヴィアの華奢な肩を掴んだ。
「貴女のその瞳は、王家に連なる証だ。王家の血を引き、名誉あるローゼンタール侯爵家の唯一直系。」
菫の様な紫の瞳は王家の血筋にのみ現れる特徴の一つだ。
「それは…」
「ローゼンタールの血筋を護るんだ。分かるな?」
「でも…」
反論しようとするフラヴィアを制してジークハルトは素早く剣を抜いた。
バサリ。
フラヴィアの長かった金色の髪を肩の上あたりで切り取ったのだ。
「ジークハルト!!!!!」
オースティン子爵が今まで聞いた事のないような大声で怒鳴った。しかし、ジークハルトは止まらない。近くの暖炉から、むんずと灰を掴み、フラヴィアの短くなった金髪に塗りたくった。
周囲からドヨドヨと驚愕の声が上がる。
「逃げろ。筆頭当主の娘御がそんな身なりで国王軍に捕まったらみっともないと思わないか?下女と間違われて辱めを受けても構わないのか?死んで晒されたら恥だとは思わないのか?」
「くっ…」
「王国の宝石と言われた貴女が、死後醜聞に塗れるなど豪語道断!!王家に連なる紫色の瞳を持つ、ローゼンタール一族としての矜持をもて!!」
いつも女性に優しく、紳士だったジークハルトが青筋を立てて怒鳴る様子にフラヴィアはたじろいた。
それでも踏ん張ろうとするフラヴィアをジークハルトは思い切り睨んだ。
「そこの兵士、フラヴィア嬢を隠し扉までお送りしろ。外に出したら扉を閉めてこちらに入らないようにするんだ。分かったな?」
「はっ。」
「待って、ダメよ!!私は…」
兵士2人にそれぞれ腕を取られる。鍛えられた兵士の力にフラヴィアが敵うはずもない。
「早く行け!!」
「はっ。」
「お父様!!!」
フラヴィアが父の方を見る。父は、フラヴィアを見ていた。
そして頷くと微かに笑った。ように見えた。
フラヴィアにとってその時が親しい人々との最後の別れだった。
バタンと扉が閉じられ、フラヴィアが広間を去ると再び静寂が戻り、徐々にまた今後の策について話し合う声が交わされ始めた。
ジークハルトは自らが切り落とした金絹のような髪を一房手に取った。
「何か紐を持っていないか?」
近くにいた男性から細い紐を貰うと、髪をぎゅっと結んだ。そして近くにいたまだ幼さの残る兵士に声をかける。
「そこの君、手紙を一通書くから届けて貰えないか?」
「はっ、はい!!!」
歳の頃は13.4だろうか?声変わりの最中の様な声をあげた。
ジークハルトはペンをとり、一言だけ書きつけると封筒に紙と一緒に髪の束を入れ蜜蝋を押した。
「任せたぞ。」
「はっ。」
年若い兵士を見送り、ジークハルトは息をついた。
「ローレンス、フラヴィア。どうか幸せに。」
その数時間後、広間に砲撃の音が響いた。




