Ⅴ 守りたいもの
父から通達されていた2ヶ月の期間でフラヴィアはローレンスとの婚約を破棄した。
国王派の公爵家で開催された舞踏会で破棄を叩きつけ、その後何度かジークハルトと共に公の場に姿を見せた。ローレンスの生家である伯爵家からは父である侯爵に抗議の書簡があったかも知れないが、父がフラヴィアに何か言う方はなかった。
そうしているうちにあっという間に時は経ち、フラヴィアと父は領地へと戻った。ローゼンタール家の領地はローゼンタールという家名の由来ともなった薔薇の花を初めとする色彩豊かな花の名産地であり、国内で有数の河川港を有し栄えている。
河川を利用した輸出入が多いと同時に古くから戦闘の舞台になる事があった為、城塞都市としても発展してきた。そんな石造りの強固な要塞の一つにローゼンタール一族は詰めている。
フラヴィアは塔の上からたっぷりと闇に沈んだ領都を見下ろしていた。
「フラヴィア嬢。」
聞きなれた声で名前を呼ばれ、ゆっくりと振り向いた。そこには既に武装したジークハルトが凛々しい表情で立っていた。
「あまり長時間夜風に当たると身体に障る。」
フラヴィアは手にしていたカップを挙げる。香り付けに人匙のラム酒を入れた温かい紅茶だ。
フラヴィア自身も普段から着慣れていた美しいドレスを脱ぎ、動きやすい簡素な衣服に着替えていた。輝く金色の髪も一つに纏めている。
「不思議…子どもの時からここから何度も領都を眺めていたのにこんなに静かな街を見た事はありませんわ。」
領都の家々には光がほとんどなかった。わずかに燃える松明が唯一の灯りだ。多くの女性や子ども、老人はとうの昔に街から逃した。ローゼンタールの正義に賛同し、力を貸してくれる非戦闘員たちは少し離れた塔にいる。本丸の塔にはフラヴィアの父や侯爵家一門の家々の当主やその子息、侯爵家の私兵団が籠城している。
「まだかなり距離があるが、国王軍がこちらに向かい始めました。貴女も早く逃げた方が良いでしょう。」
「いいえ。私は最後まで残るつもりです。私はローゼンタール侯爵家一門筆頭当主の娘ですもの。私が逃げたら士気が下がるでしょう。」
徐々にクーデターを鎮圧する為の国王の討伐隊が近づいて来ているのだった。各当主の妻子達も砦からは脱出しているものが大半だ。残っているのは病弱で伏せっているローゼンタール侯爵夫人とフラヴィア親娘、忠義の侍女2人だけ。ジークハルトの母は儚くなって久しいので、この砦には元々いない。
「…貴女は王弟殿下の所に居るべきでした。」
このクーデターの本当の旗頭は王弟殿下である。しかしながら王弟殿下はローゼンタール領よりも王都に近い砦で機会を伺っている状況だ。
ローゼンタール侯爵家は先に反旗を翻り、言わば囮となっている。国王軍や騎士団がローゼンタール侯爵領に足留めされているうちに王弟殿下の一団が一気に王都まで攻め込み、国王から主権を奪う計画だ。
ローゼンタール侯爵家はとにかく領地に国王軍達を留めるために抵抗をする。直ぐに負けても勝ってもいけない。難しい役割だ。
「もしもローゼンタール侯爵家が倒れても従兄弟のチャールズが跡を継いでくれると信じていますわ。」
王弟殿下の元には当主である父の弟の嫡男、つまりフラヴィアの従兄弟がいる。
もしもローゼンタール侯爵家が全滅しても王弟殿下の奇襲が成功し、即位した暁には逆臣の疑いを解き、王弟殿下に付き従っているフラヴィアの従兄弟チャールズがローゼンタール侯爵家を再興する約束になっている。
「ローレンスには手紙を送らないのか?」
「そんなことをしたら万が一作戦が失敗した時、陛下にローレンス様が疑われてしまいますもの。」
ジークハルトは物悲しそうにフラヴィアは見詰めた。何か言いたいことがあのかと首を傾げて尋ねてみる。
「仲睦まじい、貴女達2人を眺めるのが好きだった。」
ジークハルトは城壁に背を預けて、どこからか取り出したブランデーを口に含んだ。
「貴族の家に産まれたからには結婚相手を自分の意思だけでは決められないと幼い頃から分かっていたから。でも互いに想いあっている2人を見ていると希望が持てました。政略結婚でも幸せな結婚が出来ると。」
「そんな…」
「柄でもないな。感傷的な事を言ってしまった。」
ジークハルトはヒラヒラと手を振りながら塔の中へ入って行った。
政略結婚であれ、家庭を持つという平凡で穏やかな生活を今ではジークハルトもフラヴィアも想像出来なくなってしまっていた。フラヴィアは手にしていた紅茶を飲み干すと最後に夜の領都を見回す。
ーーー3年前の夏、ローレンスと2人で領都にやって来てここから街を眺めた。
「ね、ここから眺めると河川が綺麗に見えるのです。」
「本当だね。それに活気があって良い街だ。」
2人で塔からキラキラと光る河川を眺めて、ザワザワとした街の声を聞いた。貴族として屋敷の中で過ごすことの多いフラヴィア達にとってはなんだが眩しく感じたものだった。
そこには人々のありふれた営みが流れていて、それは2人が将来守るべき日常のはずだった。
「後で街に出てみましょう。珍しい渡来品があるかもしれませんわ。」
「それは期待してしまうな。何か新しい医薬品などがあれば尚更…」
「ローレンス様ったら。ふふふ。」
ローゼンタール領に流れる大きな河川は隣国にも通じていて変わった輸入品を手に入れられる事も珍しくなかった。
「フラヴィア?」
「お母さま。」
ふと静かな声色で名前を呼ばれ振り返ると、普段は横になっている事の多い母が数人の侍女を連れて姿をあらわした。
「ローレンス様、遠路遥々ありがとうございます。」
「ローゼンタール夫人、ご無沙汰しております。こちらこそお招き頂きありがとうございます。お加減はいかがですか?」
「ええ。今は大分調子が良いのです。」
フラヴィアに受け継がれた菫色の瞳を少し細めて母は微笑んだ。
「ローゼンタール領を楽しんで頂けているかしら?」
「ええ、それはもう。」
「ふふ。それは良かったわ。」
母とローレンスと3人並んで街並みを眺めた。湊にちょうど大きな商船が入湊して来るのが見えた。
「領民は豊かな生活を送っているようですね。馬車から見る限り皆、幸せそうでした。」
「ふふふ。まだまだ課題はあるのですけれどね。」
「お母さま、私とローレンス様でこの街を守ってもっと発展させて行くわね。」
フラヴィアはローレンスが領都を気に入ってくれたことが嬉しくてニコニコと笑みを浮かべながら言った。
母はそんなフラヴィアを愛おしそうに微笑みながら言った。
「…フラヴィア、少し問答をしましょうか。」
母は侍女に椅子を用意させて3人で腰掛けた。夏の日差しを避けてパラソルも出し、冷たい果実水を口にする。
「フラヴィア、この果実水はどのように出来ているか知っている?」
「えっと、料理長がいくつもの果実を水に入れて作ってくれているのではないでしょうか?」
「そうね。水屋に水を持ってきてもらって、商人に果実を持って来てもらって料理長が作っているわね。もっと言えば行商人が湧水を取りに行ってくれて、果実園で農夫が果実を作ってくれている。そしてこの氷、これはとても高価なものよ。氷室で氷を保管し、夏になると特別に卸してもらっている。なぜかしら?」
カラリ、とガラスの中で氷が揺れた。グラスを伝う水滴でさえ冷めたい高級品だ。
「…私たちが貴族だからでしょうか?」
「ええそうね。領主であり、貴族という特権階級であり、富を得ているから出来るのよね。では特権階級で特別の待遇を受けられるのはなぜかしら?」
「国と民を守っているから、民の生活を豊かにする為に働いているからではないでしょうか?私達は貴族ですから、皆の為に尽くさなければいけません。」
「そうね、一般的にそう言われるわ。つまり私たちは国の為、領土の為、民の為尽くす義務がある。どうかしら?」
「はい。その通りです。」
「では、もしも国と我がローゼンタール家の利益が大きく相反したらどうしますか?例えば国の為にローゼンタール領が困窮しなければならないとしたらどうかしら?」
「え…」
「言い方を変えましょう。国とローゼンタールの正義が違っていたらどうしますか?私たちの義務は国と領に尽くすこと…。国の為にローゼンタール領を犠牲にしますか?」
「…話し合いをして妥協点を探します。」
「探して、その後は?陛下にローゼンタールが折れよ、と言われたら?」
「…。」
「国に尽くす、領土を守る。なかなか難しいことなのです。正解はありませんよ、フラヴィア。これからは2人で支え合い、常日頃から考えて行く事なのです。」
「はい、お母さま。」
母は優雅に笑った。
「あの、お父さまとお母さまでしたらどうなさいますか?」
母は少し思案するように間を開けて答えた。
「…そうね、お父さまでしたら大局を見て判断するでしょう。ローゼンタールの利益だけでなく、国全体の利益と損失を中長期的に見て判断するかしら。そしてやむなしと判断すればローゼンタールの犠牲も厭わないと思うわ。」
「お父さまらしいわ。」
「それから私は…。そうね、私もやっぱりお父さまと同じ意見かしらね。」
母は微笑みながら、フラヴィアの両手を手に取った。
「けれど、私には弱点があるの。そこを突かれるとどうにも弱いわ。」
「弱点?」
「この考えは侯爵夫人としては失格。けれど、母としてはどうしても娘である貴女の事は守りたいの。」
フラヴィアは驚いで目を見開いた。
「領主だからどうしても矢面に立たなければいけないこともある。けれどそれが貴女ならば、逃げなさいと言ってしまうかもしれないわ。」
「そんな、お母さま…。」
「正解も間違えも自分だけが判断出来るのよ。貴女はどう?フラヴィア?」
「私は…私は分かりません。まだしっかりとした判断軸がありません。」
「そうね、これから考えていくといいわ。ローレンス様はいかが?」
今まで母子の問答を黙って見守っていてくれたローレンスに母がやっと声をかけた。
「そうですね。もちろん国の為、領土の為に身を粉にして働く所存ですが…。私は癒官になるべく学んでいます。癒官の使命は人の命と健康を守ることです。ですから私は目の前の命を見捨てられません。それは家族でも名も知らぬ誰かであってもです。そして…敵であろうとも。」
フラヴィアの好きな紺青の瞳は使命感に燃えているように思えた。ローレンスはいつも冷静だがその実熱い思いを秘めているタイプなのかもしれなかった。
「皆、それぞれの正義や信念があります。それを大切にね。そして、そうね。どんな決断をしてもお互いを認め合ってくれたら嬉しいわ。夫婦は1番の味方同士でいて欲しいの。」
ふいに。
ビューと大きな風が吹いた。
「少し風が出て来たわね。」
「奥様、お身体に障ります。どうぞお部屋へ。」
母の1番の理解者である旧知の侍女が声をかけた。
「そうね。ローレンス様、今日は本当にありがとう。少し意地悪な問答をして申し訳ありませんでしたわ。」
「いえ、とても楽しかったです。」
「それでは、失礼致します。」
フラヴィアは柔らかに微笑む母の表情にわずかな疲労を感じ取った。徐々に悪くなる母の症状に不安を募らせていた。上級癒官の診療を受けているがなかなか快方には向かわない。ローレンスに意見を求めた事もあったがなかなか難しい容体のようだった。
フラヴィアは3年前の夏の日のことを思いながら同じ場所からまだ領都を眺めるのだった。
飲酒シーンがありますが、小説の世界観ではジークハルトは成人しています。