Ⅲ 過ぎし愛しき日々
ーーーー「…フラヴィア?」
名前を呼ばれ、ハッと顔を上げる。深い紺青の瞳が心配そうにフラヴィアを見つめていた。
「私ったら、ごめんなさい。」
落ち着かなければと、カップを手に取り手指を温める。お茶に口を付けゆっくりと嚥下した。
「気分でも悪い?遅くなってしまったから疲れさせてしまったね。」
そう言ってローレンスが眉を寄せる。それは困った時の彼の癖だ、フラヴィアは長い婚約期間でよく知っている。
「いいえ。少し考え事をしてしまっていて。大丈夫ですわ。」
「それなら良いけれど。」
オースティン子爵とジークハルトが帰って少しするとローレンスが急いでやって来た。当たり前のように菫色のドレスを似合うと褒めてくれて、手土産の砂糖菓子を渡してくれた。
「ローレンス様が来てくださって良かったです。」
「本当に?」
紺青の瞳を見つめるとすっ、と力が抜ける気がした。見慣れた瞳がフラヴィアを落ち着かせてくれる。
「はい。」
ローレンスは派手な見た目ではないけれど、顔立ち整っている。華やかな雰囲気を纏う再従兄弟のジークハルトと比べれば令嬢たちからの評価は劣るかもしれない。けれど、穏やかで朗らかで安らぎを与えてくれる人だった。
「フラヴィア、言い訳のようになって申し訳ないが、最近少し立て込んでいて。」
「ええ、存じております。」
前途有望な慰官として国内外を飛び回っていると父からもよく聞きていた。
「なかなか伺えなくて申し訳ない。」
「それだけローレンス様が優秀だと言う事ですわ。」
「その…これは貴女に似合うと思って、海に浮かぶ街で買ったんだ。プレゼントで帳消しにしようとしている訳では決してないんだが、これをつけた貴女が隣で笑っていてくれたら、と。」
金色のリボンのついた小さな箱を手渡された。いつだって誠実であろうとしてくれる婚約者にフラヴィアは胸を締め付けられるような思いがした。
「…開けてみても?」
「勿論。」
フラヴィアの髪色に似たリボンを解くと静かに箱を開けた。中には真珠をあしらった髪飾りが入っていた。
「素敵、とても綺麗ですね。」
「貴女の金色の髪に映えると思って。」
フラヴィアは侍女を呼び、髪に付けるのを手伝って貰った。手鏡を渡され覗いてみると、乳白色の球体に輝く金色の髪が反射して柔らかな光を放っていた。
「どうでしょう?」
「思った通りだ。とても良く似合っている。」
「ありがとうございます。大切にします。」
フラヴィアは髪飾りに優しく触れた。ローレンスと微笑み合える穏やかな時間が、なんて事ないただの日常が続く事を心から願った。
「海に浮かぶ街なんて素敵ですね。本で読んだ事しかありませんわ。いつか、行ってみたい。」
「行こう。新婚旅行で。」
その言葉にフラヴィアは僅かに吹き出した。
日常の続く未来への想いを馳せながら、過去を思い起こす。
ーーーローレンスに初めて会ったのはその人柄の様な穏やかな春の日だった。
「フラヴィア、お前の婚約者になるローレンス・エジャートン伯爵令息だよ。」
「初めまして。娘のフラヴィアです。」
「ご紹介に預かりました、ローレンス・エジャートンです。こちらこそ幾久しくよろしくお願いします。」
エジャートン家の邸宅で父に促されて挨拶を交わした。フラヴィアの拙い挨拶にも柔らかな笑みで答えてくれたローレンスをフラヴィアは不躾にも凝視していた。中肉中背、艶のある黒髪。知性を感じさせる紺色の瞳のせいか11歳にしては少し大人びて見える人だった。
大人達にあとは若い2人でなどとありきたりな台詞をかけられて庭園に出された。
「ローレンス、お庭を案内して差し上げなさい。」
「はい、父上。」
エスコートのために差し出された腕に手をかけて、2人でゆっくり歩く。
エジャートン家の庭園はよく手入れされて、色とりどりの花が植えられていた。一通り庭園を回り、一角にあるポーチに案内された。テーブルと椅子が置かれている。椅子を勧められて、2人で隣同士に腰掛けた。
「フラヴィア嬢、疲れていませんか?大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。とても素敵なお庭ですわね。」
「母が花が好きで、庭師に色々植えさせているのです。」
ローレンスはジャケットのポケットに手を入れてなにやら出そうとしている。
「フラヴィア嬢は甘いものはお好きですか?」
「はい、勿論。」
フラヴィアが答えると、ローレンスはニヤッと悪戯っぽく笑って甘味をフラヴィアに差し出した。
「先程、キッチンから貰って来ました。私たちを庭に追い出して大人達はティータイムの歓談を楽しんでいるはずですから、私たちもこっそり食べましょう。」
柑橘類の乾果と小さな焼き菓子だった。どうぞ、と差し出されてフラヴィアは喜んで口にした。
「とっても美味しいです。ありがとうございます。」
それから2人でたくさんの話をした。友人の話や最近読んだ本について、ローレンスの学んでいる魔術の話やフラヴィアのマナーレッスンの教師の話。フラヴィアには2歳年上で優秀なローレンスの話が自分より少し大人びていてとても興味深かった。魔術の話ともあると彼の紺青の瞳はキラキラと輝いて見えて、フラヴィアはふと呟きを漏らした。
「…綺麗ですね。」
「綺麗?」
「ご興味のある事の話をするとローレンス様は瞳をキラキラとされて、まるで宵に星が瞬くようで。」
ローレンスはフラヴィアの言葉を聞いて一瞬驚いたように目を見張り、頬を僅かに赤らめ、頭をかいた。
「それを言うなら貴女の瞳の色はまるで…」
「え?」
「いや…。」
ローレンスはおもむろに立ち上がると目の前の花壇の前に腰を下ろした。そして菫の花を一輪手にする。
「親の決めた結婚ですが、貴女と話をしているととても楽しかったです。私は貴女と是非結婚したいと思いました。」
そう言って頬を赤らめ、照れながらもフラヴィアの瞳の色と同じ花を差し出した。フラヴィアは菫の花を受け取り、そして嬉しくて大きく頷いたのだった。
ーーーフラヴィアは幼き日を思い出しながらお皿に盛られた檸檬の乾果に手を伸ばした。
「ふふふ。」
「どうしたんだい?なにか面白いことでも?」
「いいえ。少し昔の事を思い出しておりました。」
後にローレンスは柑橘類の乾果が好物だと知った。だからローゼンタール家でお茶をする時は必ず用意して貰っている。
ローレンスの好みを理解するには十分な月日を共に過ごしてきた。パスタを使った料理が好きで魚料理がちょっと苦手、乗馬と魔法学の勉強が得意で、動物が好き。優しくていつでも悠然としていてフラヴィアを受け止めてくれる。恋を知る前に決まった婚約ではあったけれど、フラヴィアはローレンスの事が大好きになっていた。
だからこそ、今は感情が揺れ動く。
ローレンスは3時間程滞在した。いつもなら笑顔で手を振り合うのだが、今日は少し離れがたい。
「そういえば。」
「はい?」
ローレンスが不意に思い出したかのように言った。
「貴女の再従兄弟のジークハルトに先日会ったけれど。」
ローレンスとジークハルトは同じ歳だ。貴族学校の同輩として親しくしていたと聞く。だから、再従兄弟のフラヴィアとの話題に上がる事はおかしな事ではない。しかし先程の事を思い出してフラヴィアに緊張が走った。
「ジークハルト様がどうかされました?」
「なんだかとても顔色が悪かった。」
「まあ。」
状況は察するに余りある。恐らく、書斎での出来事が大きく関係しているのだ。
「もしもどこか悪いようなら癒しの魔法で治療する事も出来るから言って欲しいと貴女からも伝えて貰えるかな?」
「ええ。伝えておきますわ。」
「それじゃあフラヴィア、また。」
「はい。ローレンス様、お身体に気を付けください。」
ローレンスは微笑むとエジャートン伯爵家の家紋の入った馬車に足をかけた。
去り行くローレンスの背中を見送るしかなかった。フラヴィアは何故か堪らなくなって、ローレンスの手を取った。
「…ローレンス様。」
馬車に乗り掛かっていたローレンスは驚いた様にフラヴィアを見た。そして幼子にかける様な優しい声色で尋ねた。
「どうしたんだい?」
「………。」
フラヴィアは何も言わずに、ただただ頭を横に振った。ローレンスはフラヴィアの金色の髪を一房手に取ると口付けをして、頭を胸に抱く。少しの時間、互いの熱を確かめあった。
フラヴィアにはそれで充分だった。見た目よりも逞しいローレンスの胸を押した。
「ごめんなさい。何でもないの。少し甘えたくなってしまって。」
ローレンスはフラヴィアを眉を寄せて見つめた。
(また困らせてしまったわね。)
「今のですっかり元気になりました!」
フラヴィアは戯けて笑ってみせたのだった。
ーーーゆっくりとローゼンタール邸を発つエジャートン伯爵家の馬車を見送りながらフラヴィアはため息をついた。
ローレンスは気遣わしげにフラヴィアを見ながらも馬車に乗り込んだ。恐らく、このまままた職場に戻り仕事をするのだろう。
「フラヴィア。」
名前を呼ぶ声に振り返ると父が立っていた。
「お父様。」
2人は何を言うでもなく、エジャートン家の馬車を見つめた。フラヴィアは分かっていた。父はフラヴィアの話を聞くために隣に立っていてくれていると。
「お父様?」
「何だ?」
「もしも、もしも失敗した際にはローゼンタール一門の者はどうなるお考えですか?」
「私とお前の命の保障はないと思え。」
父は一瞬の淀みもなく、はっきりと答えた。
「それに我が家門はお取り潰し、連なる一族の者も大小はあれ、処罰を受ける。」
「それは、まだ婚約者であっても?」
「それは処罰する側が判断する事だ。だが、関与を疑われる事は間違いないだろう。」
「…承知致しました。」
父は何も言わず、フラヴィアの金色の頭を撫で屋敷に入って行った。
フラヴィアは先程貰ったばかりの髪飾りに触れて、書斎での父の言葉を反芻した。
【我々とて、ただ手をこまねいているだけではない。どうにか戦争は回避しようとしている。しかし、どうしても回避できなくなった、その時には………。王弟殿下に立って頂き、国王陛下に譲位を迫るクーデターを起こす。】
ローゼンタール家は国の為、国民の為、王家を敵に回す決意をしていたのだった。