I 婚約破棄する側令嬢の事情
「まあ、ジークったら。」
侯爵令嬢フラヴィア・ローゼンタールは舞踏会の席で1人の男にしなだれかかった。
「フラヴィア様がまたオースティン様といらっしゃるわ。」
「婚約者が別にいると言うのに、節操ありませんのね。」
着飾った女性たちがヒソヒソと噂話をするのを聞いて、フラヴィアは首尾良く進んでいる事に満足した。
フラディアは輝くばかりの金色の髪を指に絡めて遊びながら、肩から胸にかけて大きく開いているドレスの胸元を更に開けて強調した。
その様子に紳士達は目を見開き、淑女達は眉を顰める。
「フラヴィア、今日は一段と美しいね。」
フラヴィアより少しくすんだ金色の髪をした男が軟派な口調で言った。同時に腰を手を当て、自然に引き寄せた。
「フラヴィア、よろしければ一曲?」
「ええ。もちろんよ。ジーク」
ダンスの曲調が変わった。2人はまるで愛し合う2人のように見つめ合いながらダンスを始める。
ジークハルト・オースティン子爵令息は端正なかんばせをフラヴィアの耳元に寄せて囁いた。
「これで満足ですか??」
「ええ。ありがとうございます。これで私は愛欲に溺れた、哀れな令嬢でしょうね。」
「…貴女には申し訳ない事をした。」
「あら。貴方と私は一連托生でしょう?」
フラヴィアは目を逸らしたジークハルトの横顔を見つめた。煌めくシャンデリアの輝きがジークハルトを美しく照らす。オースティン子爵家嫡男のジークハルトは眉目秀麗だ。婚約者のいない数多の貴族令嬢から是非にと望まれているが、得意の軟派な態度でのらりくらりと躱しているらしい。けれど、幼い頃からジークハルトを知っているフラヴィアは本当は真面目な男だと知っている。
フラヴィアとジークハルトは再従兄妹同士だった。父親が従兄弟同士であり、ローゼンタール侯爵家が本家、オースティン子爵家が分家の関係である。
家の序列の関係はありながらも、父達は仲の良い従兄弟だった。共にこの王国を繁栄させ、民の生活を良くしたらんと夜遅くまで理想を語り合った仲だったらしい。
だからだろう。今のこの国の現状を憂いている。
(本当は豪奢な舞踏会を開催する余裕は、この国にはもうないはずなのに…)
フラヴィアは小さくため息をついた。今日は国王派筆頭公爵家主催の舞踏会だ。豪奢な邸宅には国内有数の貴族達が美しく着飾り集まっている。
自分たちが着ているドレス一着で、身につける宝石一つでどれだけの民の暮らしを変えられるだろうか、とついつい考えてしまう。
「ローレンスが来ました。」
そのため息がジークハルトに気付かれたかどうかはフラヴィアには分からない。
「…そう。どんな顔をしていますか?」
「頭を鈍器で殴られたみたいだ。」
一曲踊り終えると再びジークハルトと腕を組み、彼の思いの外逞しい肩に頭を乗せるようにして媚びる。甘えるように見つめるとジークハルトも同じように返してくれた。
ジークハルト狙いの令嬢達から視線が突き刺さる。
(いいわ。みんなもっと注目してちょうだい。)
「フラヴィア、ジークハルト…今日は2人で来ていたのか。」
「やあ。ローレンス良い夜だね。」
ローレンス・エジャートン伯爵令息が眉を寄せて近づいてくる。
さして目立たない黒髪に紺青の瞳を持ったこの優男は伯爵家の三男だ。故に伯爵家の継承権はない。
「ご機嫌よう。ローレンス様。」
「フラヴィア、是非とも私がエスコートしたかったのだが…。」
「ごめんなさい。ローレンス様は癒官のお仕事でお忙しいんですもの。」
ローレンスは強い魔力の持ち主であり、その力は人を癒す事に特化している。病気や怪我に癒しの効果を与える癒官はそもそもの絶対数が少ないが、その中でもローレンスは大変優秀な癒官であり、前途有望だ。
「でも、私は貴女の婚約者だ。」
…そう、そしてフラヴィアの婚約者でもある。
その優秀さを見込んだ父たっての願いで継承権の与えられない娘の婿養子としてローゼンタール侯爵家に入る事が、7年も前から決まっていたのだった。当時、ローレンスは11歳、フラヴィア9歳の幼いうちからの婚約で、フラヴィアが学校を卒業する17歳を待って結婚をする運びとなっているはずなのだ。
「ええ。そうですわね。今日までは。」
「一体どういう意味なんだ?」
フラヴィアは良く通る声を響かせ、ジークハルトに更に腕を絡めて頬を寄せる。
「ローレンス様、申し訳ありません。私は運命の恋を見つけてしまいましたの。貴方様と婚約致しましたが、幼い頃からの恋心に蓋をする事は出来ませんでした。私はここにいるジークハルト・オースティン様に恋焦がれているのです。ですから、ローレンス様との婚約はここに破棄致します。」
「えっ…フラヴィア?」
紺青の瞳に浮かぶ困惑がフラヴィアの心を抉る。
(…そんな目で見ないで。どうか、こんな元婚約者の事はすぐに捨ておいてちょうだい。)
舞踏会での令嬢からの一方的な婚約破棄という大事件に周囲の貴族たちは衝撃を受けているようだ。細波のように動揺が広がる。
ローゼンタール家は建国以来の旧家で王族に諫言さえ出来る数少ない一族だ。その令嬢が舞踏会で瑕疵のない婚約者を派手に袖にするなどかつてない大スキャンダルだった。
「フラヴィア、冗談だろう?急に婚約破棄だなんて、私たちの婚約は7年も前から両家によって結ばれていたものではないか。」
「仰る通りですけど、運命の恋をみつけてしまったのですもの。ローレンス様には申し訳ない事を致しましたわ。どうぞ当家に慰謝料でもなんでも請求なさって。」
フラヴィアはプイとローレンスから顔を背ける。
「ねえ、ジークもう帰りましょう?私、言いたい事はもう言えたわ。」
フラヴィアはジークハルトに蕩けるような笑みを向けて甘える。ジークハルトも頷き、出口に向かって歩き出す。
「それではごきげんよう。」
フラヴィアは背筋を伸ばし、優雅に上品に歩いた。色恋でスキャンダルを起そうとも侯爵家の矜持はなるべく損なわないように。
貴族たちの耳目を集めていることは嫌でも分かる。出口までの道筋は誰とも言わず自然と作られている。
「待って。」
焦ったようなローレンスが出口近くまで追いかけてきて、そしてフラヴィアの腕をとった。
「フラヴィア、親同士の決めた婚約だったけれど、私は貴女が妻になってくれる日の事を心から待ち望んでいたんだ。どうしても私ではダメなのか?」
フラヴィアは振り返るとにべもなく答える。
「ごめんなさい。気持ちに応えられなくて。」
「多忙で貴女と会う機会が少なかった事は申し訳ない。けれど、私は貴女を好いている。」
「…私の心はジークに。」
ジークハルトに寄り添い、微笑みあった。ジークハルトがローレンスに見せつけるように腰に手を回し、手で髪を梳く。
その時紺青の瞳から、ようやく光が消えた。
「そうか…。」
ローレンスはがっくりと俯き呟いた。
「わたしは…。いいや。何を言っても未練がましいか。…ならばフラヴィア、どうか幸せになって。」
ローレンスの手がフラヴィアの腕から離れた。
これで終わりなのだと、フラヴィアに伝えるかのように。
「ありがとう。ローレンス様にも運命の人が現れますように。」
声が震えないように、涙を溢さないように。
にっこりと大輪の花のように微笑んでから、フラヴィアはジークハルトと共に馬車に乗り込んだのだった。
その日、王都の貴族達の間では愚かな悪役令嬢が貴族の義務を放棄して理不尽で不誠実に婚約者に婚約破棄を叩きつけた話が話題となったのだった。