08 決意
尊の家を出て、同じ町内にある自宅に帰ってきた頃、時刻は夜の8時を回っていた。
「ただいま」
リビングのドアを開けると、真っ先に食卓の椅子に座りながらテレビでニュース番組を見ていた父さんと目が合った。
「ああ、おかえり」
それだけ言ってすぐにテレビの画面へと視線を戻した父さんと入れ違うように、奥の台所から夕飯の片付け中だった母さんが顔を覗かせた。
「あら聖士、お帰りなさい。今日は遅かったね」
いつもは僕の帰りが少しくらい遅くなっても何も言わない母さんだが、今日はいつにもまして遅かったから声をかけてきたのだろう。慣れない問いかけに、僕もつい正直に答えてしまった。
「うん、ちょっと部活に顔を出してきたから」
部活という単語に、母さんの顔色がわずかに変化したことを僕は敏感に感じ取った。
「部活って、何の?」
気のせいだろうが、おたまを持っている母さんの姿が猛烈に恐ろしく見えた。
どうしよう、本当のことを言うべきだろうか。
父さんも先ほどからずっとテレビの方へ顔を向けているが、僕たちの会話はしっかり耳に入っているはずだ。僕が今さら性懲りもなく陸上部に入ろうとしていると知ったらどんな反応をするだろう。
怖い……
中学に入ってすぐに部活を辞めてしまった時の記憶が脳裏にちらつく。ともすれば、またあの時のように大声でどやされるかもしれない。
この場は適当なことを言って誤魔化そうかな……そんな弱気な思考が本能の領域から侵食してくる。昨日までの僕は、こうしていつも弱い気持ちへと無抵抗に流されていた。
しかし、いつまでも逃げ隠れしているわけにはいかない。結局それでは停滞したままだ。伝えなければ、自分の足で一歩前に進まなければ、自分だけの時間は動き出さないのだ。
内心で覚悟を決めつつ、あたかも他愛ないことを言い出すような態度を繕って母さんに言った。
「陸上」
「へえ、そうなの……」
僕の態度に合わせてか、母さんも静かに相槌を打った。
だがその応答の裏には露骨に「やっぱりか」というニュアンスが隠れていた。
父さんは……相変わらずこっちを見ていなかった。
よし、伝えるべきことはもう伝えた。
何か言われる前に自室へ逃げてしまおう……
そう思って体を反転させようとした時、
「もう入ると決めたのかい?」
テレビに視線を向けたままの父さんが、平素の穏やかな口調で尋ねてきた。
その優しい声に、全身が金縛りにあったみたいに強張った。
「うん……8割くらい」
絶対にという意思を通すのが怖くて、少し控えめな数字で答える。
「そうか……」
そう言って父さんは椅子から立ち上がった。
思わず身構えそうになったが、父さんが向かったのは僕とは反対側にあるサイドボードだった。
父さんはその引き出しに仕舞っていた封筒から何かを取り出し、それを僕に差し出した。
「部活に入るなら必要な物がたくさんあるだろう。
足りなかったらまた言いなさい」
父さんから手渡されたのは、3人の諭吉だった。
つまり3万円。
子どもの僕からすれば、そうそうすんなりとは受け取れない大金だ。
どうしよう。これほど大金を貰わずとも、必要品一式を揃えられるくらいの貯金はある。
でもここで受け取らなければ、父さんの親切をこちらから突っぱねてしまうことになる。それで事が荒立ってしまっては本末転倒だ。
瞬時にそう判断し、ここは大人しく父の親切を受けることにした。
「ありがとう、父さん」
お礼を言い、裸の万札をポケットに入れ、急いで手洗いを済ませて2階に逃げた。
自分の部屋に荷物を置いたところで、ようやく重圧から解放された気分になれた。
半ば勢い任せだったとはいえ、ひとまず父さんたちに部活のことは伝えられた。何も後ろ髪を引かれるようなことを言われずに、穏便に話が済んだのは幸いだった。
しかし一方で、最初からこうなるような気もしていた。
父さんも母さんも、とても優しい人だ。僕の考えや行動を否定することはないし、僕が生きる上で必要なものは惜しみなく与えてくれる。
だがその優しさは愛情によるものではなく、単なる保護者としての義務によるものだと、僕には感じられてならない。
実際に父さんも母さんも、僕のことにはまるで無関心だ。いまの部活の話だって、ダメとは言わなかったものの、その先のことは勝手にしろといった感じで、応援するような言葉はついぞかけてはくれなかった。
つまるところ、二人とも僕にはもう期待してないということなのだろう。
そう感じるようになったからこそ、僕も自分から両親に近づくことをしなくなった。
こうなってしまった発端は、僕が両親の意向に反して陸上をやめてしまったことにある。あの一件で両親との間に深い溝が生まれ、そこから中学3年間、僕が実家を離れて暮らしているうちに、現在のようなすっかり冷え切った関係になってしまった。
いまでは家で同じ空間にいることは珍しく、一緒になっても必要最低限の会話しか生まれない。向かいの圭子の家から響いてくるような家族団欒の賑わいとは、我が家はもう長らく縁がなくなってしまった。
別に両親のことは嫌いではないし、人間として大いに尊敬している。
しかし、もう昔みたいに家族として心を許すことができなくなっていた。
もっとも、そのことを嘆くつもりは毛頭ない。元はといえば先に両親の期待を裏切ったのは僕のほうだし、むしろ以前のような大きな期待をかけられないだけ気楽でいられるようになった。
だから、いまはこれでいいのだ。
もうつまらないことを考えるのはやめにしよう。
気分を入れ替えるつもりで、普段はほとんど触ることのない押入れの奥底を漁った。そこにはもう二度と光を浴びることがないと思っていた小学生時代の陸上用品がたんまりと眠っていた。
それらを懐かしみながらしばらく押入れの中を探っていると、やがて目的の物を発見した。
タンスの奥の角に無造作に捨てられていたそれは、古く黄ばんだ一枚のサイン色紙だ。
色紙には太いマジックペンである人物の名前が書かれている。独特な字体のせいで何と書かれているのか読めないが、僕はこのサインを残した人物のことをよく知っている。
サインの送り主の名は、黒鉄守彦。
僕が初めて憧れを抱いた陸上選手だ。
黒鉄選手は僕が生まれるよりも昔に活躍していた地元出身のスプリンターで、世界大会のリレー代表にも選ばれたことがあるほどの名ランナーだった。若い頃の両親が黒鉄選手のファンだったそうで、このサインは20年前に本人から直々に頂戴したものらしい。
残念ながら、その黒鉄選手はこのサインを残した数年後に病気でこの世を去ってしまったそうだ。
僕が幼かった頃、父さんに黒鉄選手のレース映像を見せてもらったことがある。力強さと軽やかさを兼ね揃えた、非常にダイナミックな走りがいまも強く印象に残っている。もちろん当時まだ陸上の世界に足を踏み入れてなかった僕はそこまで精緻な分析をしたわけでなく、幼心に黒鉄選手の走りをただただカッコいいと思っていた。
なぜ物心つく頃にはすでに亡くなっていた過去の人物にそんなにも心惹かれたのか、理由は自分でもよく分からない。同郷の英雄だから、誰よりも速くトラックを駆け抜けていく姿がカッコよかったから。そんな単純な動機もあるとは思うが、それ以上の何かがまだ幼かった僕の魂を揺さぶったのだ。
ともあれ、あの頃の僕は黒鉄選手に対し、幼児期に見ていた戦隊モノのヒーロー以上にリアルな憧れを抱いていた。黒鉄選手のように走りたくて、黒鉄選手のようなスターになりたくて、僕は陸上競技の世界に飛び込んだ。
その当時、僕はこのサイン色紙を勉強机の目立つところに飾っていた。まるで守護神でも祀るみたいに。
それほど大切にしていた物なのに、ここ4年ほどは使わなくなった衣服と一緒に無造作に押入れの奥底に放り捨てられていた。どうやらあの頃の僕はよほど走ることに嫌気が差していたらしい。
あれから長い歳月を経て、僕はもう一度、憧れたスプリンターの形見をかつてと同じ場所に飾った。こうしておけば、あの頃抱いていた走ることへの情熱を少しでも思い出せそうな気がするのだ。
よし、もう一度。
もう一度だけ、夢を追いかけてみよう。
そう心の中で宣誓した僕は、始業式の日以来ずっと机の中で眠っていた部活動の入部届を引っ張り出した。