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Last Run  作者: 広川ナオ
第一部
6/65

05 志

 あの頃の僕は、走ることが大好きだった――




 足が速くなりたい。

 そんな漠然とした夢を抱いたのはいつ頃だったろう。


 僕の両親は大の陸上好きだった。その影響で僕も幼い頃からオリンピックのレースをテレビで見たり、両親に連れられて地元の陸上大会を観に行ったりしていた。

 そんな環境で育った子どもが、自らも陸上競技の世界に足を踏み入れるのは当然の成り行きだった。


 小学4年生になって、僕は地域の陸上クラブに入った。最初のうちは体も小さくて同年代の相手にもよく負けていた。でも、その頃は勝ち負けなんてどうでもよかった。練習すればするほどタイムが縮んでいくのがとにかく楽しくてたまらなかった。


 5年生になって県の大会で入賞するほどにまで成長してからは、いよいよ本格的に走りの技術を磨き始めた。

 クラブの時間外はいつも父さんが僕のコーチになり、走り方を教えてくれた。普段は口うるさいことなど何ひとつ言わない穏やかな父親だが、走ることにおいてはクラブのコーチ以上の熱心な指導ぶりだった。腕の振り方から足の運び方まで、僕は父さんの指導に忠実に従い、めきめきと力をつけていった。


 そして気がつけば、僕は怪物になっていた。

 6年生になってから出場したすべての大会で、僕は2位以下に圧倒的な大差をつけて優勝した。特にその年の県大会の100mでは追い風参考ながら【11秒80】という小学生離れしたタイムを叩き出し、にわかに〝南雲聖士〟という名を全国に轟かせた。


 調子づいた僕は、夏に行われる全国大会で優勝し、日本小学生記録を更新することを最大の目標に掲げ、ますます練習に没頭するようになった。

 学校の授業が終わった後、友達が近所の公園で遊んでいる時間に僕は学校のグラウンドで走り込んでいた。そして友達が家に帰った後の暗い公園で僕は自主トレをしていた。来る日も来る日も、僕はひとりで走り続けた。そうすることで、自分は誰よりもたくさん練習しているのだという自信を養っていたのである。

 全国大会が近づくにつれて、父さんの指導にもますます熱が入った。聖士なら絶対にナンバーワンになれると、あの頃の父さんはよく言っていた。僕もその言葉を信じて疑わず、全国大会に向けて毎日のように猛練習に励んだ。


 だが無情にも、事件は起こった。

 ある日、僕がいつものように暗くなった無人の公園でトレーニングをしていた時のことである。練習終わりのジョギング中、暗がりに落ちていたゴムボールをうっかり踏んでしまい、その時の転倒が原因で右足首の靭帯を痛めてしまったのだ。


 後日、治療院では全治3ヶ月の診断を受けた。


 ショックだった。本当に悔しかった。

 全国大会に出場できないと言われた時はひどく泣いたし、公園に遊具を放置していたやつを恨んだりもした。


 幸いにも若い身体はケガの治りも早く、ケガから2ヶ月後には練習を再開できるようになっていた。

 全国大会優勝という夢は叶わなかったが、まだシーズンが終わっていたわけではなかった。雪辱を果たすべく、僕は秋のレースで日本小学生新記録を更新するために再びトレーニングの日々に身を投じた。


 しかし、練習を再開してすぐに違和感は訪れた。

 走っている時の感覚が、ケガをする以前とはまったく違っていたのだ。

 最初のうちは故障中のブランクで体が鈍ってしまっただけだと思っていた。しかし、どんなに走り込んでも、どんなに走り方を工夫しても、以前のようなスピード感は一向に戻って来なかった。まるで自分の体が、別人のものにすり替わってしまったかのようだった。


 正体不明の違和感を抱いたまま、最後のレースを迎えた。

 そしてそのレースで、僕は同じ市内の小学生相手に負けた。

 一時は〝日本最速の小学生〟とまで言われていた僕が、たかだか市内のレベルでも勝てなくなってしまったのだ。


 その時、僕は悟った。

 あの赤いトラックの上をぶっちぎりで輝いていた頃の自分には、もう戻れないのだと。


 その時から、僕は走ることが嫌いになった。

 自分の思い通りに走れないことが気持ち悪かった。

 勝てない自分がなにより惨めで腹立たしかった。


 せっかく陸上部の強い区外の中学校に進んだのに、僕は一度も大会に参加することなく、わずか1ヶ月で退部届けを提出した。

 勝手に陸上をやめてしまった僕に、父さんは激怒した。普段は僕がどんな過ちを犯しても声を荒げるようなことはしない人なのに、その時はまるで人が変わったみたいに理不尽に僕を怒鳴りつけた。


 それでも僕の心は変わらなかった。思い出すのも嫌だったから、Tシャツやスパイクといった陸上用品をまとめて押入れの奥底に沈めた。


 こうして僕は陸上の世界から完全に逃げ出した。


 だが、そうやって逃げ出した先に待っていたのは実に無意味な日々だった。

 走ることだけがすべてだった小さな世界の外側には、僕の居場所はどこにも無かった。何事にも興味を惹かれない、何をやっても夢中になれない。後悔と失望ばかりの3年間を過ごしてきた。


 だがそんな輝きを失った僕の世界に、昨日の放課後、とあるクラスメイトが一筋の光を与えようとしてくれたのである。


===============


「あんなに走るのが嫌いだとか言ってたくせして、なんで急に入部する気になったんだよ」


 校舎から近隣にある運動公園に向かう道中、横を歩く尊が訝しげに尋ねてきた。


「まだ入部すると決めたわけじゃないよ。今日は見学させてもらうだけだから」


 そこを勘違いしてもらっては困るので、ちゃんと訂正しておく。

 とはいえ尊が不審に思うのも無理はない。昨日まで僕は尊からの部活の誘いを何度もすげなくあしらってきたのに、今日になって急に「部活を見学させてほしい」などと言い出すのだから、何事かと疑われるのは当然だ。

 無論、その何事とは、昨日の放課後の出来事である。


「昨日、我室さんにも誘われたんだ。部活に入らないかって」

「あン? レンカちゃんに? なんでまた……」


 尊に食いつかれたことで、僕は我室さんの名前を出してしまったことを後悔した。そういえば彼女は尊のお気に入りだったのだ。


「あー……あの人、僕が昔陸上をやっていたことを知ってたみたい」

「ハーン、そゆこと」


 当たり障りのない事実だけで尊が納得してくれたことに、密かに胸をなで下ろす。

 如何せん、知られるわけにはいかないのだ。昨日の放課後に校門前で行われた、僕と彼女のやり取りを――




 昨日の放課後、僕は下校しようとしていたところをいきなり我室さんに呼び止められ、陸上部に入らないかと勧誘された。それに対してこちらから勧誘の目的を尋ねると、彼女の口から驚くべき台詞が飛び出した。


 なんと、彼女は僕のファンだというのだ。


 プロポーズに匹敵するほど衝撃的な告白に呆気にとられていると、彼女はすぐに事情を補足してくれた。

 

 4年前、当時小6だった僕は県大会の100mに出場し、ぶっちぎりのタイムで優勝を飾った。あの時のレースを、どうやら彼女は現地で観ていたらしい。そこで僕の走りを間近で観て、興味を持ってくれたのだという。


 尊や圭子以外に僕の過去を知っている人間が身近にいたことも驚きだったが、あの時の僕の脳内はそれどころではなくパニックだった。日頃ろくに女子と口を利かない奥手な男子が、同級生の可愛い女子からいきなり「ファンです」なんて言われたら、それはもう正気ではいられないというもの。


 その後どういう流れで会話が進んだのかは憶えてないが、部活の誘いに対してひとまず「考えておくね」とだけ返答し、逃げるようにその場を去った記憶だけが残っている。


 それから自宅に帰って約束どおり一晩考えた僕は、とりあえず部活を見学してみることに決めたのだった。


「――で、お前はクラスメイトの可愛い女子に誘われたから、鼻の下伸ばしてホイホイと釣られてきたってわけね」

「いや、そんなんじゃないって……」

「でも俺が何度誘っても『遠慮しとく』の一点張りだったのに、レンカちゃんの誘いには一発オーケーなんだろ? どう考えたって下心アリアリじゃねーか」


 尊の露骨な冷やかしを、僕はいつものように冷静にスルーすることができなかった。

 ぶっちゃけ、尊の推察は正しい。〝鼻の下ホイホイ〟は心外であるが、そういう類の下心があったことは認めざるを得なかった。


「そりゃあ尊の時と違って、我室さんの誘いなら無下に断れないし」

「オラオラ言い訳なんて見苦しいぞこのナンパ野郎ッ!」


 そう言いながら、尊は僕に思いきりヘッドロックをかましてきた。ナンパ野郎とか、こいつには冗談でも言われたくない言葉だ。

 だから違うのだと、絞め技に抵抗しながら弁解を試みる。


「別にあの人に誘われたからってだけじゃないから!」

「あン? なら他にどんな理由があるってんだ」


 話を聞く気になった尊がようやくヘッドロックを解放してくれたので、乱れた身なりを整えながら尋問に答える。


「……足が速くなりたいからだよ」


 なんだそれ、と自分でも突っ込みたくなるような肩透かしな返答。

 それでも黙って耳を傾けてくる尊に、僕はずっと溜め込んできた苦悩を吐露した。


「いつかまたあの頃みたいに走れる日が来ないかって、ずっと考えてた。

 だけど、ただ待ち続けていたって何も変わらないはずがなかった。走るのは嫌いだけど、立ち止まっているのはもっと辛いんだ」


 僕がこの虚しいだけの3年間でただひとつ学んだことがあるとすれば、それは〝本当の自分は裏切れない〟ということだ。


 僕は走るのが嫌いだ。

 しかし同時に、走ることは僕のすべてだ。

 そのことは昔もいまも変わらない。


 走りたくない。思うように走れない自分と向き合うのは苦しい。

 だけど、自分自身を押し殺し、停滞した時間の中で生き続けるのはもっと苦しい。


「だったら走るしかない。どんなにつらくたって、走り続けるしかない。

 きっと僕はそういう生き方しかできないんだと思う」


 こうやって自分の思いを言葉にするのは、やはり恥ずかしい。視線を背けるために、訳もなく運動公園を囲む蓮池を眺めてみる。

 少し間をおいて、沈黙していた尊が独り言をこぼすように柔らかな声で言った。


「さすが、生まれついての天才スプリンターだな」 

「揶揄わないでよ」


 いつもの調子で睨み返してやったが、実際に揶揄われたのかは分からない。本当はただ素直に感心してくれただけなのかも。何分お調子者にしては分かりにくい反応だった。


 とはいえ、本当は僕にも口で言ったほどご大層な決意があるわけではない。これまでは走りたくないという絶望が、走りたいという希望を上回っていた。それが、尊や我室さんに声をかけられたことで、ほんの少しだけプラス側に傾いたに過ぎない。本心はただ我室さんに「ファン」だと言われて舞い上がっているだけだとも言える。


 だがそれでも、4年ぶりに陸上競技場へと向かう僕の足取りは、ここ数年では感じられなかったくらい軽かった。


 長らく空っぽだった僕の胸が、久しぶりにワクワクで満たされているのは確かだった。


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