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Last Run  作者: 広川ナオ
第四部
56/65

55 追憶

 休日、僕は長岡市にある報徳山の稲荷大社を訪れた。


 自宅から電車を使って1時間もかかる土地にわざわざ赴いた目的は、大学の合格祈願——ではなく、恋歌が無事に病から回復することを祈るためだった。


 恋歌の右脚を蝕む腫瘍は、もはや手術による切除以外に取り除く方法はない。1ミリも医学をかじったことのない僕にできることといえば、もはや神に祈るくらいしかなかった。


 この稲荷大社は県内でも病気平癒のご利益で知られる神社だった。


 もちろん、ただお賽銭を投げて拍手に礼だけで済ませるような中途半端なお祈りはしない。正当な参拝手順に則り、まずは名物の5色ローソクを灯し、それから正式な御祈願を受けてお札とお供物を頂く。


 恋歌の病が少しでも安らかに癒えてくれますように……


 一連の祈祷を施してもらう間、僕は胸の内で一心に祈っていた。




 参拝が終わると、もうひとつの目的を果たすべく構内を練り歩いた。

 その目的とは、先日バースデーパーティのため恋歌の家を訪ねた時に見つけた、彼女の赤ん坊時代の写真が撮られた場所を探すことである。


 あの写真に映っていた背景がこの神社のものであることは尊が証言してくれた。僕も後からインターネットで稲荷大社の画像を検索したところ、たしかに例の写真と似たような風景がヒットした。あれが17年前にこの地のどこかで撮影されたものであることに間違いはないだろう。


 別に写真の場所を探し当てて、それで何かしようと考えていたわけではない。


 ただひとつだけ、確かめておきたいことがあったのだ。


 あの日、恋歌の家で例の写真を見た時、僕は得体の知れない既視感に捉われた。それは眠りから覚めた後で夢の内容を思い出そうとする時のような濁ったイメージでしかなかったが、僕の記憶にはたしかにそれを体験したという感覚が残っていた。


 そのことがどうにも解せなかった。僕は自分の足でこの場所を訪れたことはないはずだし、そもそも物心ついてから神社という土地に立ち入った覚えはない。


 だとしたら、この既視感の正体は何なのだろう……


 それを確かめることが、僕が今日わざわざこの場所に赴いたもうひとつの目的だった。


 さすがに17年前の写真と比べると、現在の神社の景観はかなり変わっていた。あの写真は古くて全体的に色褪せていたし、実物のほうも場所によってはあの写真が撮られた後で壁や柱を塗り直した部分もあるのかもしれない。


 しかし大まかな建物の配置や風貌は変わってないだろう。そのあたりを手がかりに探せば、きっと見つかるはずだ。


 例の写真はたしか朱色の大きな鳥居の柱の前で撮影されていた。

 構内には大きな鳥居がいくつかあったので、ひとつずつこの目で確かめていくことにした。


 すると、すぐにそれらしき鳥居の光景に出くわした。


 頭の中にある例の写真のイメージと目の前の景色を照らし合わせてみる。

 うん、間違いない。細かい風景や色合いは多少変わっている部分もあるが、背後の建物や通路の形状などはほぼ一致している。ここが17年前、当時まだ1歳の恋歌が撮影された場所なのだ。


 17年前の彼女と、時を経て同じ場所に立っていると思うと、なんだか感慨深い気持ちになる。


 しかし、肝心の既視感の正体については手応えがまるで感じられなかった。


 おかしい……明らかに同じ景色を見ているはずなのに。

 彼女の家で写真を見た時は、僕の記憶のどこかに仕舞ってあるイメージと合致する感覚があった。だが実物を見てもその感覚は訪れない。ただ普通に初めて見る景色という印象だ。


 どういうわけだろう——


 その場で頭を悩ませていると、しばらくして疑問の答えを見つけた。


 そうか、新しすぎるのだ。いま目の前にある光景は。

 僕が見覚えがあったのは、同じ場所でもずっと古い景色だった。それこそ、恋歌の家で見た17年前の写真と同じくらい。


 もちろん彼女の写真を以前にも見たことがあるはずはない。恋歌とは高校生になって初めて出会ったのだし、彼女の家を訪れたのはあの時が初めてだ。では、それ以前はどうだろう。物心つく前にこの神社を訪れたことがあるとか——いや、そんな幼少期のことを断片的にも覚えているとは考えにくい。

 となると、パンフレットや資料か何かで昔の稲荷大社の写真を見たことがあるとか——


 ——写真……?


 そこまで考えた時に、僕はある仮説に至った。


 だがその仮説は、僕自身もにわかに信じがたいものだった。


 まさか、そんなことがあるだろうか——?


 確証はない。

 だけど、調べてみる価値は十分にある。


 僕はすぐに神社を発った。



===============

 


 その夜、僕は父さんと母さんが2階の寝室に上がったタイミングを見計らって、1階に降りた。


 灯りの消えたリビングを抜き足差し足で通り抜け、奥にある小さな洋間の電気をつける。その部屋は我が家の物置みたいな場所で、使わなくなった机や座椅子といった家具や、読み古した昔の雑誌などが所狭しと収納されている。子どもの僕が普段から出入りするような場所ではなかった。


 僕は部屋の奥の押入れを開けるため、手前に置いてあった座椅子を横にどかし、重くなった引き戸を引いた。当然ながら押入れの中も来客用の布団や使わなくなった古着、あとは子どもが見てはいけなさそうな金庫やケースなどで埋め尽くされていた。


 この中に、たしかアレがあったはず——


 もう何年も見ていなかったものだ。

 探し出すのに10分も費やしてしまったが、やがてそれは見つかった。


 分厚い冊子にこびりついた塵を吐息で吹き払い、カバーを取り外して床の上で開く。

 すると、その中には幼かりし頃の自分を写した写真が並んでいた。


 自分のアルバムを最後に見たのなんて、それこそ小学校に上がる以前のことではなかろうか。

 現在ほどではないが、僕の家は昔からドライな感じで、誕生日にケーキを食べたり、家族で旅行に出掛けたりする習慣がなかった。そのため思い出を写真に残すことにも頓着がなかったので、僕もあまり自らの幼き日の思い出を掘り返そうと思ったことがなかったのだ。


 でも、だからこそ遠い過去の記憶を呼び起こす手掛かりがここに眠っているかもしれない——


 アルバムに納められていた写真は、幼稚園の入園式から始まり、お遊戯会、運動会、卒園式、そして小学校の入学式と、やはり重要なイベント時のものに限られている。自宅での日常的な風景を撮影したものはないし、出先で撮影したようなものも見当たらない。


 後半になると、もっぱら陸上大会の写真ばかりだった。

 スタートラインに立っている時の写真。トップでフィニッシュラインを駆け抜けた瞬間の写真。どれもプロのカメラマンが撮影したものだろうか、その時々の顔つきや躍動感がバッチリと切り抜かれている。そして県大会の表彰式で、表彰台の一番高い場所に立って笑顔を浮かべる写真——これがアルバムに収められていた最後の1枚だった。


 気づいたら日付が変わっていたが、僕はその後もしばらくアルバムの中の写真を一枚一枚注意深く調べた。

 しかし何度ページをめくっても、やはり思い当たるような写真は見つからない。写真の時系列を読み取る限り、我が家に存在するアルバムはこれ1冊だけだろう。


 ひょっとしたら幼少期のアルバムの中に例の神社を映した写真があるかもしれないと思っていたのだが、残念ながら当ては外れてしまったようだ。


 仕方なく諦めて、冊子をアルバムケースに戻そうとした。


 しかしその時、持ち上げたケースの中からハガキサイズの古い封筒が滑り落ちてきた。

 とても重厚感のある厚紙の封筒だ。


 これはもしやと思い、恐る恐る封筒を拾い上げ、開封してみる。


 すると中には、期待していたとおり1枚の写真が入っていた。


 そして、ビンゴだった。

 その写真を見て、長らく僕の中でモヤモヤとしていた気持ちがようやく晴れた。


 いや、それどころか、その青天に霹靂が落ちるかのような凄まじいショックが、僕の全神経を駆け巡るようだった。

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