44 満たしてくれるもの
気がつけば、僕と尊は30分ものあいだ夜の公園で話し込んでいた。
「もうこんな時間か……僕はそろそろ帰るよ」
スマホで時刻を確かめてから、僕はブランコから立ち上がろうとした。
しかし左脚が痛むせいでスムーズに歩き出せないのを見兼ねてか、
「歩きづらそうだな。家までおんぶして行ってやろうか?」
人を食ったような笑みを向けてくる尊に、僕は苦笑で答える。
「いいよ。うち、すぐそこだから」
「そっか、気をつけろよ」
尊も自分のスマホをアームポーチに戻してベンチから立ち上がると、僕とは反対方向に体を向けた。あいつの家だって公園を出るところまでは僕と同じ方角のはずなのに。
「尊も帰るんじゃないの?」
「いンや、俺はもうひとっ走りしてくるよ」
「まだ走る気なの?」
「ああ、なんか無性に走りたくてな」
走りたい、という言葉を尊の口から聞けたことに僕はホッとした。ここ最近は競技場にもめっきり姿を現さなくなっていたから、ひょっとしたらもう陸上なんて辞めるつもりでいたのかと心配していたのだ。
「尊はこれからも陸上は続けていくつもりなんだよね?」
「そうだなぁ。せっかくここまで走り続けてきたんだし、簡単にはやめたくねーよな」
尊が迷わずにそう答えてくれたのが、僕には嬉しかった。
僕に走ることの楽しさを思い出させてくれたのは、半分は尊のおかげだ。身近なライバルの存在に、僕は何度も心を滾らせることができた。
だから尊とはこれからもずっと走って、競い合いたい。
思えば少し前までは尊が走ろうというのに嫌々付き合わされていただけだったのに、時が経つのは早いものだ。
「それなら、最後に僕と勝負しない?」
「ナグと?」
突然の僕からの提案に、尊は調子よく食い付いてきた。
「8月の下旬に国体予選がある。そこで尊と勝負がしたい」
もちろん100でと付け加えると、僕から送る初めての宣戦布告に、尊は迷うことなく乗ってきた。
「おお! いいな、それ。やろうぜやろうぜ!」
声が弾んでいる。もう完全にいつもの調子を取り戻したようだ。
受験勉強との兼ね合いは大丈夫かという心配もあったが、その辺りは尊なら要領よくやっていけるだろう。
「よし、そうと決まればいまから坂ダッシュだな!」
俄然モチベーションが高まったのか、意気揚々と走り出そうとする尊の背中に僕は声をかけた。
「明日からちゃんと競技場に来なよ」
「分かってるさ、お前こそさっさとその足治せよ?」
いくつになっても変わらないイタズラっ子のような笑みを浮かべながら、僕の親友は夜の住宅地を颯爽と駆け出していった。
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翌日、僕と圭子は学校帰りに駅で待ち合わせ、同じ電車に乗った。
「結局、圭子は最初から全部知っていたんだね」
座席の隣に座る圭子に、僕は嫌味ったらしく言ってやった。全部というのは、僕側の事情だけでなく、尊がずっと僕に対して負い目を感じていたことも含めてだ。
まあね、と澄まし顔で答える幼馴染に、僕は苦情をつけた。
「それなら教えてくれれば良かったのに」
「だーめ! こういうのはちゃんと当事者が話し合って解決しなくちゃ」
たしかに圭子の言ったことは正論だ。むしろお膳立てをしてくれた圭子に、僕は感謝しなければならない立場にある。
だが今回の件は最初から圭子の掌の上で踊らされていたみたいで、どうにも面白くなかったのだ。
「それにしても意外だったよ。まさか圭子が尊にね……」
こうなったら何度も人の恋愛事情に踏み入ってきた積年の恨みを晴らしてやろう。
当時のシチュエーションとか、告白のセリフとか、色々とほじくり返してやる……
「なによ?」
「いや、なんでも。ただ僕だけ蚊帳の外みたいで寂しいなあと」
しかし圭子の威圧的な一言に一蹴されてしまった。やはり僕には他人をからかうような気立てはなかった。
そんな僕の心の挙動を知らない圭子は、対面の車窓から覗く景色を見ながらあっけらかんとした口調で言った。
「まあまあ、ナッくんは別にひとり身でも平気でしょ?」
「人をぼっち気質みたいに言わないでくれる?」
横目で睨んでやると、圭子は「そういう意味じゃないよ」と笑いながら答えた。
「ナッくんはさ、自分で自分を幸せにできるタイプじゃん」
「そうかな……」
「そうだよ。あたしやタケルとは違う。
あたしたちは自分だけで幸せにはなれないの。だから自分のことを幸せにしてくれる誰かを求めちゃうちゃうんだよ、きっと」
相変わらず圭子は恋愛沙汰になると妙に哲学的だった。
「自分で自分を幸せに、ね……」
圭子がそう思っているのは、きっと昔の僕だろう。
いまの僕ならば圭子の意味不明——否、奥深い恋愛論も少しは理解できる。自分を満たしてくれる人間、自分を幸せにしてくれる人間の存在とは、何ものにも変え難く、尊いものだ。それはすべての人間に共通して言えることだと、僕は断言したい。もっとも、その存在が恋人である必要はないと考えているところに、僕と圭子の違いはあるのかもしれないが。
「まあナッくんもカノジョ作る気がないわけじゃなさそうだし、気になる相手が見つかったなら教えてよ。その時はまた力になってあげるからさ」
「僕にそんな恋人マウントは効かない……って、いま〝また力になる〟って言った?」
隣に座る圭子からギクリという音が聞こえたような気がした。
「いや、これはその……」
「そういえば1年の頃から圭子はよく僕と恋歌を近づかせようとしていたよね」
「えー、どうだったかなぁ……」
「ほら、一昨年のお見舞いの時とか、去年のコンサートの時とか。あれってまさか、お邪魔虫の僕をさっさと他の女子にくっつけて、自分は尊と——なんて魂胆だったんじゃ……」
「はいはいストーップ! 無粋なことを言うんじゃありません! あたしはただ二人がお似合いだと思ったから協力しようと思っただけなの!」
そんな強引に誤魔化すような言い方をされてもこちらは少しも釈然としないのだが、ちょうどそこで電車が高田野駅に到着したため、会話は強制的に中断させられることになった。
電車を降りてからの帰り道、ケガでうまく歩けない僕のペースに合わせてくれていた圭子が突然言った。
「そういえばナッくん、この頃すっごく焼けたね?」
「そうかな?」
「だって、ほら」
圭子が伸ばしてきた左腕に、僕の右腕を並べて比べてみると、たしかに色が全然違う。
僕はもともと日焼けしにくい体質だし、尊なんかと比べると全然焼けてないほうだと思っていたが、ほとんど真っ白な圭子の腕と比べると明らかに色黒だ。
「ほんとだ、いつの間に……」
たぶん先日の北信越総体のせいだろう。あんな猛暑の中を3日間も屋外に出ていたのだから。
なんてことを考えると、圭子がまたしても唐突に言った。
「それだけナッくんが陸上を頑張ってきたんだと思う。ほんと、すごいよ」
この焼けた肌が、圭子には勲章のように見えたのだろうか。
「そういう圭子だって、保育園の頃からずっとピアノ続けてきたでしょ」
「ピアノは続けられるよ。だって楽しいんだもん。ハマってる時なんかは夢中になって、気がついたら何時間も経ってることだってある」
「そういうものかな……たしかに上手く弾けるようになれば楽しいけど、なかなか上達しない時は辛くない?」
僕もピアノ経験者だから分かるが、練習している曲が何日かけても上手くならない時は心が折れそうになるものだ。
それに対し、圭子は「まあねー」と頷いてから言った。
「だけどそうなるのって、大抵は身の丈に合わないことをしようとしてるからなんだよ。ちゃんと目の前の課題を一つひとつクリアしていけば、少しずつでも必ず上達できる」
圭子の言葉は、高校で陸上を始めたばかりの頃の僕にぴったりと当てはまる。あの頃の僕は小学生時代の栄光を忘れられず、身の丈に合わない理想に取り憑かれていたせいで、現実の無力な自分にいつも失望していた。そこから這い上がることができたのは、自分の弱さを認め、今の自分に必要なことを一つずつ身につけていったからに他ならない。
「まったくその通りだね」
掛け値なしの評価と共に賛同してやると、圭子は「アリガト」と澄ました口調で答えてから言った。
「でもさ、走るのはどうしたってツラいじゃん? 疲れるし、苦しいし。どんなに好きでも、どれほど順調にタイムを更新できても、生理的にきついのはどうにもならないでしょ?」
「まあ、そうだね」
「ひょっとして、ナッくんってドM?」
圭子は往々にして僕に不本意な疑いを吹っかけてくる。
「僕はドMじゃないし……同じだよ。僕も夢中だったから、今日まで続けて来られたんだ」
「でも途中でもうやめたいって思ったことない? キツい走り込みの時とかさ」
「当然あるよ。終わった直後はもう二度と走りたくないって、いつも思ってる」
特に僕のようなロングスプリンターは肉体を限界まで追い込むようなトレーニングが多い。300mとか、500mとか。無論そういった練習はメチャクチャしんどい。マジで死にそうだと感じることもある。一刻も早く解放されたいという一心でひたすら走り続けてきた。
「でもしばらくすると、不思議とまたやってやろうって気になるんだよね」
自分でもこの感性はうまく説明できない。話していると、なんだか〝夢中〟とも違うなという気がしてくる。
より正確に言うなら、病みつき? だろうか……
ちょっと待て、それだとまさしくドMみたいじゃないか。
もっと自分でも納得できるような表現はないものかと思案していたら、隣を歩く圭子が、
「アスリートだね」
と、大変しっくり来る言葉でまとめてくれた。
アスリートか……人から呼ばれるといい響きだな。
「まあ、そんなとこかな」
謎の冗談から生まれた笑いを、僕らはしばし二人で堪能した。
そして、それが終わると——、
「ねえ、あたしたちでレンちゃんのインターハイ応援に行かない?」
近所の住宅地に差し掛かったところで、またまた圭子が唐突に言った。
「インターハイって……今年は大阪だよ?」
「知ってる。そんなこと言って、ナッくんはどうせ行く気だったんでしょ」
……バレていた。それはそうか。僕が恋歌の出場するインターハイを観に行かないわけがないのだから。
「いいじゃん、尊も誘ってさ。昔みたいにまた3人で新幹線に乗ろうよ」
そういえば小学生の頃、圭子と尊と一緒に子ども会のイベントで軽井沢に行ったことがある。あの時は新幹線ではなく普通列車だった気がするが、それも思い返せば懐かしい記憶だ。
「あまり大人数で押しかけて、プレッシャーになったりしないかな?」
「大人数って、たったの3人じゃん! それに応援するってことはなにもプレッシャーを与えることじゃないでしょ。むしろレンちゃんが感じているプレッシャーを、あたし達が一緒に背負ってあげられるんだよ」
「一緒に背負う、か……」
たしかにその通りだ。僕も自分が北信越総体の決勝のスタートラインに立った時、仲間たちの存在には大いに救われた。仲間たちのエールが、弱った心に攻め込んでくるプレッシャーという敵を跳ね除けてくれた。だからこそ僕は臆することなくレースに臨むことができた。
応援はただの期待ではない。
仲間に群がる不安や重圧といった敵と、共に立ち向かうための戦力なのだ。
「ね、一緒に行こうよ! レンちゃんもきっと喜ぶよ」
西日の前に立って威勢よく話す圭子に、僕もはりきって頷き返した。
「そうだね。行こうか、みんなで」
そしてみんなで恋歌と一緒に戦おう。
戦力は多いに越したことはないのだから。
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それからというもの、僕はケガをした足でも毎日欠かさずグラウンドに足を運び、インターハイに向けてトレーニングに励む恋歌のそばに居続けた。
共にインターハイに出場するという夢を叶えることはできなかったが、それでも最後までパートナーとして彼女の隣にいることは僕の使命だ。もちろんただ見ているだけではなく、彼女の走りをスマホで撮影して見せてあげたり、その映像を分析するのに協力したり、メニュー後の補強を一緒にやったりと、できる範囲のことで彼女をサポートした。
尊もあれからちゃんと競技場に姿を現すようになり、国体予選に向けて本格的なトレーニングを再開している。それだけでなく、一人でインターハイに臨む恋歌のために、一緒にスタートダッシュをしたり、タイムトライアルで牽引役を務めたりと、練習パートナーとしての役目も買って出てくれた。尊という実力者と共に練習することは、恋歌にとってもすごく刺激になるはずだ。
そして、なぜか圭子までもが練習着姿で毎日のようにグラウンドに通い詰めるようになり、激しいトレーニングに打ち込む恋歌を応援したり、練習後のクールダウン時には一緒に芝生でジョギングしたりした。
彼女がインターハイに向けて新たに立てた目標は、決勝に進出すること。
その目標に向かって頑張り続ける恋歌を支えるために、僕たちもできる限りのことを尽くした。
そして、練習後はいつも同じ道を歩き、同じ電車に乗って帰途についた。
そんな辛く、楽しく、充実した1ヶ月間はあっという間に過ぎ去り——
ついに高校生アスリートにとって夢の舞台である、インターハイが幕を開けた。