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Last Run  作者: 広川ナオ
第二部
31/65

30 冬季

 ここ高城の町は国内でも有数の豪雪地帯として知られており、2月に入って積雪量がピークを迎えたこの頃、外の世界はどこもかしこも真っ白になっていた。


 この季節になると当然ながら競技場を利用することはできず、春になって雪が解けるまで部活は体育館や校舎の廊下を使って練習することになる。


 今日も屋内での練習を終えた僕は、いつもならしばらく部室で帰り支度をしながら皆と駄弁っているところを、一足先に帰り道の校門をくぐった。


 しとしとと雪の降る夜道を歩いて向かった先は高城駅ではなく、そこから徒歩5分ほどの距離にある、下町の一軒の古い民家のような建物だ。


 その建物の軒先には《あぜがみスポーツクリニック》と書かれた無機質な表札が飾られている。

 名前から分かる通り、ここは我室さんの叔母である早苗先生が経営しているスポーツマン向けの整体である。


 予約時刻ほぼぴったりに到着すると、すぐに助手の若い女性から待合室の奥にある診療室へと通してもらった。前時代を思わせるような古い外観と違い、内装はあまり広くはないもののとても現代的で清潔感がある。2つあるベッドの周囲には最新の低周波治療器や温熱治療器などが備えられている。


 そんな診療室に入るなり院長の早苗先生から四十路とは思えないほど元気な挨拶と抱擁寸前のスキンシップを受けた僕は、さっそく上着を脱いでTシャツ・ハーフパンツの姿になってベッドで横になった。


 うつ伏せ状態の僕の足を、早苗先生はいつもどおり許諾を得ることなくグリグリと指圧してきた。


「うーん……右足のほうが全体的に少し凝ってるわね」


 先生は両手を使って僕の両足の腿裏を掴みながら言った。


「右足……ですか」


 毎度のことだが、早苗先生のいう()()の差ってやつが僕にはよく分からない。自分の体とは24時間ずっと付き合い続けているがゆえに、その微かな異変に気付くのはなかなか難しいのだ。

 だがそんな気にもならないような微細な異変であっても、それが積もり積もればやがて肉離れや疲労骨折といった大きなケガを引き起こす原因ともなり得る。それを防ぐために、僕は去年の冬から定期的にこうして早苗先生の身体チェックを受けるようにしているのだ。


「冬場は全力で走ることがないからって、油断しちゃダメだからね? 冬の間に溜まった疲労が原因で、春になってトラックで走り始めた途端にケガする子が毎年必ずいるんだから」

「はい、気をつけます」


 それから先生は下肢を中心に10分ほどかけてマッサージをしてくれた後、いつものように両方の足首の筋力テストを行い、そして言った。


「うん、すごく良くなってきた!」


 僕は小学生の頃の事故で右足首の靭帯を切断してしまったため、右足首を固定する力が左足に比べて弱いという欠点を抱えており、そのせいでなかなか思うように走れない時期が長く続いていた。そのことを早苗先生に気づかされた僕は、去年の夏から足首周辺の筋力を強化するエクササイズを地道に続けてきた。


「足首の力も強くなってるし、左右の筋力のバランスも見違えるほど良くなってる! これは来シーズンが楽しみね」

「ホントですか?」


 早苗先生は「もちろん!」と頷きながら親指を立てた。自分ではそれほど変化しているという認識はなかったが、先生に太鼓判を押してもらえるとすごく自信になる。


「上杉くんも言ってたわよ? この冬になってから聖士くんの走りが目に見えて変わってきたって」


 上杉くんとはずばり、うちの部の顧問である上杉先生のことである。早苗先生に出会ってしばらくしてから、僕はこの人がうちの顧問の高校時代の先輩であったことを知った。


「何か大きな心境の変化でもあったの?」


 僕は少しだけ自問する時間をとってから答えた。


「いえ、そんなことは……ただ以前よりも真剣に練習に取り組めるようになったんだと思います」


 昨年まで、僕は冬季の練習が大嫌いだった。如何せん、つまらないのだ。積雪のせいで屋外での練習ができず、校舎の短い廊下や階段を何十回も往復したり、部活の時間ひたすら筋力トレーニングをするだけだったりと、とにかく単調で飽きやすいメニューばかり。狭くてじめじめした空間でのトレーニングは、肉体的にだけなく精神的にもしんどいものだ。それゆえいつも億劫な冬場などさっさと過ぎ去って、早くまたトラックで練習できる季節が来てくれないかと思っていた。


 しかし今年は違った。以前まで退屈だとしか思えなかった冬季トレーニングにも、今年は真剣に取り組めるようになった。

 その理由は、大きく2つある。


「そっか……最後のシーズンだものね」


 1つは早苗先生の言った通り、これが高校での最後のシーズンになるからだ。

 シーズンインまでは残り2ヶ月、そしてインターハイの最終予選まではもう残り4ヶ月しかない。残り少ない貴重な練習時間を、退屈だなどと無為に浪費している余裕などあるはずがない。

 だから僕は以前にも増して、一つ一つの練習メニューに対して真剣に取り組むように心がけた。すると不思議なことに、それまで退屈だと感じていた冬場の練習がとても充実していると感じられるようになった。世の中にやっていて退屈なことなど無く、要はやる本人の心の持ち様ひとつなのだということを学んだ。


 そしてもう1つの理由というのは、陸上部の仲間たちの存在だ。

 特に同じ短距離パートである尊とはとても良いライバル関係になっており、練習中も事あるごとにバチバチと競い合っている。持久力勝負なら大抵僕が勝つのだが、筋力や瞬発力の勝負ではいつも負けている。やはりあいつのスプリンターとしての潜在的な身体能力は凄まじいと言わざるを得ない。


 しかし、その差も去年と比べればかなり縮まっている。

 そしてこの冬の間にも、僕は少しずつだが尊に近づけていると感じている。来年も同じ種目で勝負することはないかもしれないが、それでも尊には負けたくないと、僕のアスリート魂は闘争心に燃えていた。


 それともう一人。

 ()()の存在が、なによりも僕に努力し続けるための力を与えてくれていた。


「はい、今日はこれでおしまいね」


 早苗先生に背中をポンと叩かれた僕は「ありがとうございます」と言ってベッドを降り、帰り支度に取り掛かった。

 しかしその時、先生が窓の外に視線を送りながら言った。


「あら、いつの間にか大降りになってるわね」


 コートを羽織りながら窓を見てみると、たしかに外はここへ来たときよりも明らかに激しいブリザードになっていた。


「電車、大丈夫かしら」


 先生が不安げに呟いたので、帰り支度を整えてからスマホで電車の運行情報を調べてみる。すると懸念したとおり、帰りの電車は現在豪雪のため運行を見合わせているという記載が目に止まった。


「あー……ダメっぽいですね」

「マジかー、どうしよう」


 先生は電車通勤ではないはずなのに、まるで自分のことのように状況を案じてくれた。


「あたしはまだ仕事があるから送ってあげられないし、タクシーでも呼ぼうか?」

「いいえ、大丈夫です。少し待てば動くかもしれませんし、無理なら親に迎えに来てもらえるので」


 親に迎えを頼むつもりは毛頭なかったが、まあ何とかなるだろうというくらいの気持ちで答えた。


「そう、分かったわ。気をつけて帰りなさい」


 まるで母親のような先生の気遣いに感謝しつつ、帰り支度を済ませて診療室を後にした。待合室に誰もいないことを確認してか、先生は玄関まで僕を見送りに来てくれた。


「では、今日もありがとうございました」


 スノトレを履いてから改めて礼を言うと、


「これからも頑張りなさい。陸上は冬場を制した者が、次のシーズンを制するんだから」


 腰に手を当てて胸を張る先生のポーズが強気な女将さんみたいで似合っていたので、思わず笑ってしまった。


「それ、うちの部の顧問も言ってました」

「ふふ、高校時代の恩師の言葉だものね」


 笑顔を浮かべる早苗先生に僕は改めて深く一礼し、治療院を後にした。


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