25 パートナー
400mの決勝が終わった10分後。
優勝の歓喜に浸るのもそこそこに、僕は再びトラックへと意識を向けた。
場内ではこれから女子100m決勝が始まる。
すでに出場する8人の選手がスタート地点に姿を表し、スターティングブロックの準備に取り掛かっていた。
僕は急いで荷物を置いていた控えのテントで着替えを済ませ、入場ゲートのすぐ横に立った。メインストレートを正面から眺めることができる位置だ。
僕はフィニッシュラインの向こう側から我室さんのレースを見守ることにした。
我室さんが走るのは6レーン。短距離種目ではトラックの中央寄りのレーンがいわゆる〝シードレーン〟と呼ばれるコースで、前のラウンドを上位で通過した選手が優先的に入れられる。おそらく4〜7レーンあたりを走る選手たちが彼女のライバルとなるだろう。
スタート練習を終え、改めてスタートラインに立った彼女は、自分の胸に手を当てながら視線をまっすぐに向けている。こっちを視ているようにも見えるが、たぶん彼女は100m先にいる僕のことには気づいてないだろう。
だが、それでいい。いまはとにかく自分のレースに集中してほしい。
選手全員が再びスタートラインに一列に並ぶと、選手紹介が始まった。
『6レーン、我室恋歌さん、高城高校』
応援席から「れんかー、ファイトー!」という応援団の声援が飛ぶ。
頼れる仲間たちからのエールに、我室さんは静かに手を挙げてお辞儀をした。
選手紹介が終わり、静寂の時間。
スターターが台の上に立ち、『On your mark』のコールが掛かる。
コースに一礼し、ブロックに足をかけ、スタートラインに手を添える――そんな彼女の一挙手一投足にかかる緊張感が、先ほどレースを終えたばかりの僕にまで伝わってくるようだった。
そして再び場内が無音の空気に満たされる。
選手全員がクラウチングの姿勢でピタリと静止すると、スターターがピストルを高く上げた。
――Set……
会場にいる誰もが固唾を飲んで見守るなか、横一線に並ぶ8人の選手が一斉に動き出した。少し遅れて号砲の音が100m先にいる僕の耳に届いた。
我室さんは鋭い角度でブロックから飛び出した。相変わらず左右の振れが少ない、安定した走りだ。正面からのアングルで他の選手たちと比べて見ても、軸の安定感が際立っている。
ただざっと見た限りでも、我室さんは左右の選手よりも体ひとつ分ほど遅れていた。やはり決勝まで勝ち進んできただけあって、周りの選手たちも相当な強豪揃いだ。それに彼女はまだ復帰したばかりで本調子とは言えない。さすがにまだ決勝で勝負するのは厳しいかと思われた。
しかし、それでも彼女は得意の中間疾走で追い上げてきた。50mを過ぎたあたりで端のレーンを走る選手らを抜き去り、終盤になって中央レーンを走る選手たちにも追いついた。
いけッ! がんばれッ!
祈りを捧げる僕の拳にも自然と力が入り、体が前のめりになる。
徐々に姿が大きくなってくる我室さんに向けて、心の中で夢中になって叫んだ。
あと少し……もう少しだ!
残り10m、シードレーンを走る4人の選手が横一線に並んだ。皆、自分が一番にゴールするのだと力を振り絞り、最後はほぼ同時にフィニッシュラインを駆け抜けた。
あまりに接戦だったせいで、正面のアングルから見ていた僕には誰が勝ったのか分からなかった。
だがフィニッシュした直後、我室さんがパッと表情を輝かせた。その弾けるような笑顔を見て、僕も悟った。
我室さん、勝ったんだ――!
速報では【12秒73】と表示されていたタイムが、やがて【12秒72】と再表示され、その横に我室さんが走ったレーンナンバーである【6】の数字が加えられた。
『只今のレース、1着は高城高校の我室さん、記録は【12秒72】。風は向かい風0・5mでした』
正式な結果がアナウンスされてから、我室さんはしばらくトラックの上で一緒に走った選手らと健闘を讃えあったり、歓声をあげるチームメイトにちょっぴり恥ずかしそうに手を振ったりしていた。
さすがだ。本格的に練習を再開してからまだ3ヶ月しか経ってないのに、2年ぶりに出場した大会でいきなり優勝してしまうなんて。
でも彼女ならきっとやり遂げると僕は信じていた。
勝負とはその1日だけの戦いではない。普段は怠けている者が当日だけいくら本気を出したところで、普段から精一杯の努力をしてきた者には絶対に勝てない。スポーツでも、受験でも。
これまでの日々で積み重ねてきたもの――それが結果となって現れるのが勝負というものだ。
今日まで僕は我室さんの頑張りをずっと見てきた。
重い病に侵されながらも、彼女は再び走れるようになる日が来た時のために自分ができる最大の努力をしてきた。そんな毎日は、彼女にとってまさに自分自身との〝勝負〟だった。
そして彼女はその勝負に勝ち続けてきた。
その弛まぬ努力の成果が、今日ようやく形となって現れたのだ。
最高の笑顔を浮かべる我室さんを遠巻きに眺めながら心の中で「おめでとう」と賛辞を送っていると、やがてトラックから出ようとする彼女が、退場口の傍にいる僕の存在に気づいて小走りで近寄ってきた。
いざ面と向かうとなんて言葉をかければ良いのか迷っていた僕に、彼女がいきなり右の手のひらを顔の高さで差し伸べてきた。
「やったね、南雲くん!」
それがハイタッチを求める仕草だと気づくのに3秒ほど掛かってしまった。
意外だった。我室さんがこういう青春くさい行動をとるなんて。普段の彼女のイメージとは随分とギャップがある。いつも物静かでお淑やかな彼女だが、気持ちが昂った時にはこのように感情を惜しみなく表に出すタイプのようだ。
「うん……我室さんも!」
もっとも、興奮ゆえにいささか大胆になっていたのは僕も同じらしい。彼女から差し出された右手に、僕は喜んで自分の右手を合わせた。普段の奥手な僕なら絶対にできない行動だ。
「すごかったよ、あのラストの走り! わたし、見ていて感動しちゃった」
そっか、そういえば僕も優勝してたんだった。
「我室さんこそ、さすがだね。2年ぶりの大会でいきなり優勝しちゃうなんて」
「へへ……南雲くんが練習に付き合ってくれたおかげだよ。本当にありがとう」
火照った顔に爽やかな微笑みを浮かべる彼女に、僕は思わず見惚れてしまった。
彼女の笑顔を見ることができて本当に嬉しい。自分が優勝した時も最高に嬉しかったが、それに負けずとも劣らないほど、彼女の優勝は僕にとっても歓喜すべき出来事だった。
他人事を自分のことのように喜ぶなど、数年前の僕ならば考えられなかった。あの頃の僕は周囲の人間のことにいつも無関心で、他人の喜びや悲しみといった気持ちに共感することができなかった。だからなのか、陸上のことを個人スポーツだと割り切り、練習でも試合でもいつも一人きりで走っていた。
しかし部活に入ってたくさんの仲間たちと苦楽を共にしているうちに、僕の考え方は少しずつ変わっていった。
つらい練習でも仲間たちがいるから頑張ろうと思える。大会でいい結果が出た時や自己ベストを更新した時も、そばで一緒に喜んでくれる仲間がいると嬉しさも倍増する。陸上競技のような個人スポーツにもチームが存在する理由とは、きっとそういうことなのだろう。
そして、そのことに気づけたのは我室さんのおかげだ。彼女が僕を部活に誘い、一緒に目標を立て、〝練習パートナー〟として苦しい時も支え合ってくれたこそ、僕は今日まで走る続けることができ、いまここで至福の瞬間を分かち合うことができている。
だからこそ僕は真心をもって彼女に伝えた。
僕のほうこそ、ありがとう――