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Last Run  作者: 広川ナオ
第一部
11/65

10 デビュー戦

 On(オン ) your(ユア) mark (マーク)……Set(セット)……


 バンッと鼓膜に響く号砲が、夏の晴空の下で鳴り響いた。


 クラウチングの姿勢を取っていた選手たちが横一線になってスタートラインを飛び出し、同時にスタンドの観客席や周囲の応援席からドッと声援が沸き起こる。色とりどりのユニフォームを着た8つの背中が瞬く間に遠ざかっていき、約10秒後、100m先にあるフィニッシュラインを駆け抜けていく。ゴールの横に設置されたタイマーが1着の選手のタイムを速報し、直後にレース結果を告げるアナウンスが場内に響く——


 その一連の光景を、僕はスタートラインの手前に立って眺めていた。

 そして、考えていた。


 どうして僕はこの場に立っているのだろう——と。



===============



 7月上旬——僕が高城高校陸上部の門を叩いてから約1ヶ月が経過した。


 ここ新潟県では、毎年この時期に《県一年生大会》という陸上競技会が行われる。

 一年生大会とはその名のとおり、県内の高校1年生だけが参加できる競技会である。今年の4月に高校に入学したばかりでまだレギュラー経験のない新入生にとっては、この大会がデビュー戦になるケースが多いらしい。他ならぬ僕もその一人だ。


 試合当日、僕は朝6時過ぎに自宅を出発し、電車で2時間ほどかけてこの《長岡市陸上競技場》にやって来た。


 レース前の行動パターンは昔とほとんど同じだった。

 会場に到着してからは、しばし応援テントの設営や大会プログラムの確認などに時間を使い、競技開始の90分前を目安にスパイクやユニフォームなどの荷物を持って場外のウォームアップエリアへと移動する。ウォームアップの内容はジョギングや動的ストレッチなどいつも部活でやっていることに加え、短い距離のダッシュなど出力の高い動作も取り入れる。

 競技開始20分前にウォームアップが終わり、それからスタート地点後方にある招集エリアへと移動する。多くの陸上競技の大会では、レースに参加する選手はスタート前に一度招集エリアに集まり、点呼を受けることになっている。役員に名前を呼ばれたら返事をし、ユニフォームの前後に取り付けたナンバーカードと腰につけたレーンナンバーを提示する。それが済んだらスタート地点へと移動し、あとはスパイクなどの準備をしながら競技開始を待つ。

 

 そして午前10時20分、いよいよ男子100mの予選が始まった。

 予選レースは全部で9組行われる。

 そのうちの第3組に出場する僕は、スタート地点のすぐ後ろでレースの準備をしていた。


 しかし事ここに至って、僕はいま自分がこの場所(スタート地点)にいることを猛烈に後悔していた。


「どうだ? 久しぶりのレースに出場する気分は」


 僕と同じ100mにエントリーしている尊が、隣に座って呑気に尋ねてきた。

 僕は先日買ったばかりの白い競技用スパイクの紐を結ぶために、視線を足元に落としながら答えた。


「別になんとも……」


 済ました態度で答えたつもりだったが、口元が硬直しているせいで呂律がうまく回らなかった。案の定、尊にも緊張していることを見抜かれてしまう。


「そんなに気張っていると体が動かなくなっちまうぜ? リラックスだよ、リラックス」

「そう言われてもね……」


 もうやせ我慢をしても仕方がないので、素直に弱気をさらけ出した。


 入部してまだ間もない僕が、なぜ早くも実戦のレースに出場することになったのか。

 事のあらましを簡潔に説明するならばこうだ。


 いまからおよそ1ヶ月前に入部したあの日、僕は同期から一年生大会のことを教えてもらった。ちょうどその頃が大会エントリーの締め切りだったのだ。

 同期の1年はみんな出場すると聞いたので、僕もなんとなく流れに任せてエントリーを決めた。種目はもちろん100m。自己ベストを記入する欄には、とりあえず小学生時代のタイムを書いておいた。

 

 まあレースは1ヶ月後だし。

 そこいらでいまの自分の力を試してみるのも良いだろう——


 そんな軽い気持ちでエントリー用紙を提出してしまったのだ。


 そのときは考えもしなかった。実際にこうしてスタートラインに立つ時の心境なんて。


「やっぱり時期尚早だったよ。練習を始めてまだ1ヶ月も経ってないのに、いきなり大会に出るなんて」


 しかも入部したてのこの1ヶ月間は芝生走と筋力トレーニングばかりで、全力で走る練習などほとんどしていない。練習不足は明らかだ。


「こんな状態で走ったって、まともな結果なんて出るわけない……」


 随分と長い時間をかけて、ようやく片方のスパイクを履き終えた。このスパイクもまだ一度しか履いたことがないせいか、うまく足に馴染まない。


「別にいいじゃねーか、結果なんて出さなくても」


 尊はそう言いながら、自分のシューズ袋からオレンジ色の競技用スパイクを取り出した。僕と違い、とても慣れた手つきでアップシューズからスパイクに履き替えていく。緊張など微塵も感じてないみたいだ。


「負けたところで何か失うわけでもあるまいし。練習と思って走りゃいいんだよ。どうせ後ろで走ってるやつなんて誰も見てねえんだから」

「そうだけどさ……」


 尊の言ったことは正論だ。今日のレースに参加する目的はいまの自分の力を試すことであって、試合に勝つではない。ならば他人の目など気にする必要はないだろう。仮に最下位でも、目も当てられないくらいひどいタイムでも、尊の言うとおり誰も見てやしないのだ。皆が注目するのは、常にトップを争うランナーだけなのだから。


 僕もそう考えていた。

 今日という日を迎えるまでは。


 しかし、今朝になってこの会場に到着してからは状況が変わった。

 ウォーミングアップに向かう前、他校の部員らが大会プログラムを見ながら僕の名前を口に出しているのを聞いた。そして先ほど招集所で待機していた時、年配の役員に身バレしたうえ、「期待しているよ」と声まで掛けられてしまった。


 どうやら会場内には僕の過去を知っている人間が少なからずいるらしいのだ。


 彼らはおそらく4年ぶりに復活した元天才スプリンターの走りにさぞかし期待していることだろう。


 そんな彼らを、僕はこれから確実に失望させることになる。

 レース後、トラックを去る自分に向けられる冷めた視線を想像すると、実に憂鬱だ。特に僕をファンだからと言って部活に誘ってくれた彼女は、すっかり見る影もなくなった僕の走りを見てどう思うだろうか……


 そんな不安に苛まれている間にも、時間は刻々と過ぎていく。


「ほら、もうすぐナグの組だぜ。早く準備しろよ」


 尊に言われて気がつけば、予選2組目のレースがもうすぐ始まろうとしていた。この組が終わると、次は第3組目。僕の出番となる。


 慌ててTシャツとハーフパンツを脱いだ。そんなに慌てなくてもいいと尊に諭されたが、準備が遅れると不安で仕方がなくなるのが僕の性分だ。


 シャツとパンツの下には、あらかじめレース用のユニフォームを着込んでいる。高城高校のユニフォームは、上下とも黒地に緑色のラインが入ったストレッチ性のデザインで、胸元にはイタリック体で『TAKASHIRO』とプリントされたものだ。母校の名を背負っていることを意識すると、さらに身が引き締まる思いがする。


 やがて前の組のレースがスタートすると、大会役員から3組目の選手にスタートの準備をするよう声が掛かった。


「それじゃあ、行ってくるよ」

「ああ、もし12秒切れなかったら爆笑してやるよ」

「そうだね、そのほうがスッキリするかも」


 後の組に出る親友と軽口を叩き合ってから、スタートラインへ小走りで向かった。


 『4』と記されたレーンのスターティングブロックをセットし、一度だけ練習スタートをする。30mほど走り、再びスタートラインに戻って来たところで、すべての準備が完了。あとは号砲の瞬間を静かに待つだけだ。


 ところがこうしてスタートラインに立つと、先ほどよりもいっそう張り詰めた場内の空気に全身の筋細胞が圧迫されるようだった。


 無論、僕がレースに出場するのは今日が初めてではない。小学生の頃には何十回と大会に出場しているし、もっと遥かにプレッシャーのかかる大きな試合も経験している。


 それなのに、場内の雰囲気も、周囲にいる他校の選手たちの姿も、スタンド席にいる観客の視線も、会場内のすべてが小学生の頃の記憶にあるものと違って感じられる。

 実際には陸上大会の景色など昔とそう変わるものではないので、変わってしまったのは僕のほうだと考えるのが妥当だろう。そして、その変化の正体にも何となく気づいている。それは〝自信〟だ。


 かつての僕は自分自身の実力と、それを支えていた膨大な練習量に絶対の自信を持っていた。だからどんなに大きな舞台にも臆することなく挑むことができた。


 翻って、いまの僕には自信を持てる要素など一つもない。

 以前のように走れない。練習量もまったく足りない。

 そんな不安から生まれる緊張感、恐怖、そして孤独感といった負の感情が、僕の心身を雁字搦めに縛り上げようとしてくる。


 ふと視線を上げると、スタンド席にいるすべての観客の視線が僕に向けられているような気がした。


 ああ、どうして僕はこの場に立っているのだろう……

 いまからでも何かしら理由をつけて、この場所から逃げ去りたい……


 いつもの臆病な気持ちに心が流されそうになる。


 だが一度選手としてスタートラインに立った以上、弱気な理由で試合を投げ出すことなど許されない。ここまで来たからにはもう腹をくくって走るほかないのだ。


 僕が自分自身の心と格闘している間に、全選手のスタート準備が整っていた。


『続いては第3組。プログラムの記載から8レーンを除く、7名でのスタートです』


 競技開始のアナウンスに、声援の飛び交っていた場内が一気に静まり返る。空間から音が消えて無くなる。まるで世界がこの一瞬にかける勝負を見届けようとしているみたいだ。


 ゆっくりと台に上がったスターター役の男性から、低い声の合図が送られる。


 ——On your mark……


 僕はこれから走る100mの直走路に一礼をしてから、スタートポジションについた。


 くそ……もうどうにでもなれ。

 どうせ十数秒後にはすべて終わっているんだ。

 何も考えず、ただいつものように走ればいい。


 頭を空っぽにし、大きく深呼吸をして脳ミソのエネルギーを全身の神経へと行き渡らせる。


 ——Set……

 

 ゆっくりと腰を浮かせ、号砲が鳴るまでの2秒間を無心で待つ。


 イチ…………ニ…………


 この世で最も長い2秒間が過ぎ去り、そして——


 ——バンッ!


 大気を引き裂くような鋭い号砲が、澄み渡る青空の下で鳴り響いた。

 同時に僕は両足で勢いよくブロックを蹴り、低い姿勢でスタートラインを飛び出した。

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