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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その生け贄、引き受けます! ~供物になりたい悪役令嬢~

贄を捧げよ。


 ついに死神がやってきたのだと、そう思った。

 満月の夜に立つその姿は、とても美しかった。



「こんばんは、お嬢さん。今夜は良い夜ね。月が綺麗だわ」



 少し濁って見える瞳。灰色の目を細めて唇に指をあてがい、囁くような声で、美しい死神はそう言った。


 村外れですらない。人里からは遠く離れた小高い丘の環状列石群、生け贄の祭祀場に現れた彼女は、白を基調としたドレスを纏っていた。

 夜風がその裾と、そして緩やかにウェーブする彼女の金色の髪を軽く揺らしている。陶器のように白い肌は、月光に透き通って見えた。



「風が草木を揺らすざわめきがあるのに、虫の声も動物の鳴き声もない。こんな夜には、とても危険なものが現れるわ」



 ああ、人外だと、供物のわたしは考える。

 捧げられてしまったのだ。わたしは。この人外に。


 生け贄だった。決して逃れることができぬよう手足を伸ばされた状態で、冷たく四角い岩の祭壇に四肢を縛りつけられていたのだ。くつわを噛まされ、声もろくに出せない。出せたところで救いはない。


 捧げられたのだから。神託を承けた聖女様に。ともに生きてきた村の民に。愛する家族にすら。捧げられたのだから。


 だから、怯えた瞳で見上げることしかできない。

 わたしはくつわを噛みしめた。あまりに恐ろしくて、涙が流れた。


 岩の祭壇には、甘い香りのする多くの献花や果実がある。皮を剥がれ、内臓を取り除かれた羊もだ。わたしへの手向けか、あるいはこれらも供物の一つなのか。

 けれども死神はそれらには一瞥もくれず、背負っていた剣を引き抜いた。刃が鞘で擦れる金属音ではなく、不思議と砂が流れるような音がした。


 そうして死神は、祭壇で怯えるわたしへと、その切っ先を向ける。抵抗さえできないわたしは、首を左右に振って泣いた。一層激しく涙がこぼれ落ちた。



「~~ッ!?」



 胸の中央へと突きつけられた刃は、いかにも死の臭いのするものだった。

 月光を反射しない。金属ではないのか光沢は一切なく、白く、白く、その表面はざらついて濁って見えた。


 刃が振り上げられる。

 死神の口角が微かに上がった。


 ひゅん。



「~~ッ」



 びくり、全身が震えた。縮こまろうとしても、四肢を縛られた状態ではそれすらままならない。


 けれども。


 次の瞬間、左腕に自由が戻っていた。次に右腕に、そして両足に。風斬り音がするたびに、肉体に自由が戻っていく。



「――っ!?」



 斬ったのだ。わたしを喰らいにやってきたと思っていた死神が、わたしを束縛していた縄を。背負っていた光沢一つない真っ白な、不気味な刃の剣で。


 なぜ……?


 それでもわたしは怯えていた。正気ではいられなかった。助けられただなどと微塵も思わなかった。

 それほどまでに死神は美しかったのだ。まるでこの世ならざる存在であるかのように。


 逃げようにも下半身に力は入らず、ただずるずると腰を背後へと滑らせて、ついには祭壇から地面へと転がり落ちる。



「あうっ」



 痛みなど感じない。死ぬ。殺される。喰らわれる。わたしはこの死神に捧げられた生け贄なのだから。

 全身、震えて。着せられた真っ白な装束が砂にまみれた。


 死神が、腰砕けとなったわたしの前に立つ。ゆっくり歩いて、前へと回り込んで。


 ああ、いよいよだ。喰われる。わたしが喰われて、そして村は助かる。

 父も母も助かる。わたしを殺そうとした全ての人たちは、次の生け贄の時期まで生きることを許される。


 だから、このまま。わたしがこのままでいさえすれば。



「……い、や……ぁ……」



 口から本音が漏れた。また涙が溢れた。

 死にたくない。得体の知れない死神なんかに食べられたくない。生きたまま食べられたくなんてない。剣で貫かれたくなんてない。怖い。痛いのは嫌だ。


 あまりの恐怖に、ガチガチと歯が鳴った。


 死神が剣を背中の鞘へと戻した。また金属音ではなく、さららと砂が流れるような音が響いた。



「ねえ、あなた。少し隠れていてくれるかしら。ああ、まだ村に戻ってはだめよ。きっとまたここに連れ戻されてしまうわ。あるいは生け贄からの脱走だと、殺されてしまう場合も少なくはないのだから」

「……は……え……?」



 死神、あるいは怪物は。

 彼女は白いドレスを指先で摘まむと、ふわりと祭壇に跳び乗った。ウェーブがかった長い金色の髪が、真っ白な肩で落ち着く。



「そうねえ。せめて明日の朝までは姿を隠していなさいな。そうすれば、生きたままお家に帰れるわ」



 薄く、死神が嗤う。



「もっとも、それでいままでのように家族と暮らせるかまでは、わたしの知ったことではないけれど」

「え……え……?」



 この美しい死神は、いったい何を言っているというのか。


 死神は薄桃色の唇で人差し指を立て、静かに微笑む。



「わからない? 代わってあげると言っているの。生け贄を。ふふ、ナイショよ?」

「な……んで……?」

「疑問に答えている時間はないわ。ほら、何をしているの。早く隠れて。列石群の裏でもいいから身を隠すの。でなければ、贄を求める怖ぁ~い存在に見られてしまうわ」



 そう言って、死神は自ら祭壇へと仰向けに寝転んだ。


 本当に。本当に生け贄になるつもりなのだ。わたしに代わって。どうして。意味がわからない。あなたが怪物ではなく人間なのだとしたら、殺されてしまうのよ。


 けれど彼女はすぐに居心地悪そうに一度起き上がると、背中の剣を外してから無造作に祭壇下へと落とした。武器さえ捨ててしまったのだ。自分から。

 そうして彼女は地面に落ちた剣に向かって指を指し、こうつぶやいた。



「――うるさいわね。邪魔よ。あなたも少しそこにいなさい。へし折られたいの?」



 無論、剣は何も語ってなどいない。けれど彼女は剣がまるで生きているかのようにそう語りかけた。それから再び祭壇上で仰向けとなり、両手を胸で交差して姿勢を正しながら瞼をそっと下ろした。


 それはまるで、極上の生け贄のように。

 これから神や魔に捧げられる、哀れなる供物のように。


 丸く大きな月を背負って。


 わたしは混乱した頭で、彼女に言われた通りに列石群の裏へと身を潜めた。

 静かに風が吹いている。そこで気づいた。ああ、たしかに彼女の言った通り、虫の声も動物の鳴き声もない。生き物はみな、声を潜めているのだ。


 供物を喰らいにやってくる、邪悪を恐れて――……。


 ざわっ、全身が泡立った。風の臭いが変わったのだ。

 空から黒い鳥の一団がやってくる。鴉ではない。蝙蝠だ。それらが数十羽、無秩序に群れを成して列石群の中心、すなわち死神の眠る祭壇近くへと舞い降りてきて、そして――。



「~~っ!?」



 姿を変えた。数十羽の蝙蝠が一つの影のように合わさったと思った瞬間、それは闇を纏った人影へと変異していた。


 額から後方一直線に流れる白色の髪に、不気味な真っ赤な瞳、口から覗く牙。

 男だ。


 わたしは列石の裏で息を呑む。


 男が腕を一振りした。

 次の瞬間にはもう、王都の上級貴族が着るような黒色の宮廷衣装に、裏地の赤い黒色のマントを羽織っていた。肌は青ざめて見えるほどに白く、顔は人智を超越するほどに整っていて、妖艶な青年であるかのように見える。


 人外。この上なく。

 死が、夜に漂う。


 わたしはすでに息すらできない。恐怖で肉体が強ばり、さりとて目を閉ざすこともできずにその光景を見守る。


 男は真っ赤な瞳で祭壇を見下ろした。そこには美しい死神が眠っている。

 やがて男は鋭い牙を持つ口で、満足げな笑みを浮かべた。



「クク、今宵の贄は極上よ。瑞々しき肉体からは、かぐわしき生娘の血の薫りが漂っておるわ。これぞ我が死徒()に相応しき娘よ」

「……どうでもいいことを声に出して言わないでくれるかしら」



 死神が瞼を上げた。

 濁った灰色の視線と、見開かれた真っ赤な視線が交わる。



「ほう、縛られても眠らされてもおらぬか。ならば何故逃げ出さぬ、供物の娘よ」



 死神は身を起こして、少し乱れた金色の髪に手櫛を通した。



「リュリア」



 男が大仰に右腕を上げてから、すぅっと左胸に添えて辞儀をする。



「おお、それは失礼した。リュリア。()き名だ。私は吸血種、不死なる真祖のバレンティン伯である。以後、見知りおくがよい。ところで先の質問だが――」

「必要性を感じないから」



 事も無げに死神少女――リュリアは言い放つ。



「ふむ? その言葉、すでに死徒となる覚悟はできておると取るが?」

「ええ。吸血行為に痛みはあまり伴わないのでしょう?」



 リュリアがバレンティンを挑発するかのように、少し首を傾けて真っ白な首筋を見せつけた。ほんの一瞬、目を丸くしたバレンティンだったが、すぐに細められた。



「もちろんだとも。私に吸血される際には、快楽しか伴わぬ。おおよそ、人の身では生涯を通して味わえぬほどのな」

「そう。ふふ」



 バレンティンが片膝を立てるようにしゃがみ込み、リュリアの顎を指先で持ち上げる。



「甘美なる死への誘い、失望はさせぬよ。リュリア」

「期待しているわ。バレンティン伯」



 リュリアがそう言った瞬間、バレンティンが細い頸部へと牙を突き立てた。突然齧りついたのだ。

 鋭い牙が皮膚を貫き、肉に分け入り、その奥の血管を食い破る。バレンティンの唇が真っ赤に染まり、リュリアの頸部からは血が大量に滴り始めた。



「――ッ!?」



 列石の裏に隠れていたわたしは、その異様な光景に息を呑む。

 視線の先では、リュリアの首に喰らいついたバレンティン伯なるバケモノが、何度も喉を嚥下させていた。


 血を啜っている……。


 バレンティンはさらに血を嚥下する。美味そうに、狂気と驚喜に満ちた瞳で。何度も。


 吸血鬼伝承など、この地にはいくらでも残っている。吸血鬼の王、真祖に噛まれた者はこの世のものとは思えぬほどの快楽の中で死に至る。だが、必ず目覚めるのだ。死者の肉体のまま、真祖の意のままに動く傀儡、死徒として。


 だが。

 だが、しかし。


 されるがままに虚空を見つめていたリュリアは、ふぅと息を吐いた。



「たしかに痛くはないわね。けれども、件の快楽とやらはわたしにはないみたい。とても残念だわ」



 バレンティンが眉根を潜めて、リュリアの頸部から口を離した。そうして、またしても大仰な仕草で両腕を広げる。



「これは驚いた。人間の娘ごときが、私に吸血されてまだ意識が残っているとは。素晴らしい。その類い稀なる生命力のすべてを、私のものにしたくなった。死徒として百年は生き長らえる器であろうよ」

「いいえ。もう結構。よぉ~くわかったから」

「……?」



 戸惑い、口を閉ざしたバレンティンの喉元を、リュリアの掌が無造作につかむ。



「なッ、ぐッ!?」

「わからない? わたしはあなたのものにはなれないみたい。だって、死んで生き返って死徒になるどころか、最初の死にすら至れないもの」



 メリ、メリ……。バレンティンの首が軋む。

 リュリアは薄く嘲笑する。そしてバレンティンの頭部を強引に自らの唇近くまで引き寄せて、吐息の声で囁いた。



「あなたはハズレ。残念だわ。思っていたよりもずっと小物で」



 そうしてリュリアを名乗る死神は、吸血鬼バレンティン伯の首をつかんだ細い腕を振り上げ、無造作に投げ捨てた。


 だが、その威力たるや。

 祭壇から地面へと投げ飛ばされたバレンティンは背中で跳ね上がり、轟音とともに環状列石群の一つを突き崩して転がっていた。


 身を隠しているわたしは、先ほどまでとは別の意味で息を呑む。


 目の前で何が起こっているのかがさっぱり理解できない。

 自身と年端も変わらぬ娘のリュリアが、細腕一本で生き血を啜る危険な怪物を投げ飛ばしたのだ。それも、平然とした顔で。


 リュリアが自らの血に濡れたドレスを見て、眉をしかめた。血液の止まらない首筋の傷など、意にも介した様子はない。



「ああ、まったく。汚れてしまったわ」



 だが、バレンティンもまた平然と立ち上がる。折れ曲がり、ねじれた首を自らの手で正位置へと戻しながらだ。

 グギ、ゴギ、不気味な骨の音が響いた。



「ふむ。この力、人間のものとは思えぬな」



 裏地の赤い黒色のマントを翻し、ゆっくりと歩きながら祭壇へと戻ってくる。

 祭壇から下りたリュリアが地面に両足をつけて立ち上がり、それを待つ。


 両者の瞳には、恐怖も怯えもない。笑みすら浮かぶ、怪物同士の邂逅である。


 バレンティンが一歩の距離まで詰め、立ち止まった。

 まるで紳士と淑女が舞踏会で出会ったかのように、微笑みさえ浮かべながら視線を絡ませて。



「吸血毒を大量に流し込んだはずだが、なにゆえ快楽に溺れながら死なぬのだ? 人間であるならば死して蘇り、我が死徒となるはずだ。貴女は本当に人間か?」

「ええ。人間よ。ただし、曰くつきのね。毒は効かないみたい。以前に、あなたと同じ真祖と呼ばれる吸血鬼に噛まれたことがあるからかしら」

「……」



 リュリアが掌を頬に静かにあてて、淑やかにつぶやいた。



「あのときは苦しんだわ。三日三晩、快楽の中で苦しんだ。ひどい夜だったわ」

「……二度も真祖に噛まれ、なぜまだ死徒にもならずに生きている。そのような生物は聞いたこともない」

「ふふ、死なないのではないの。死ねないだけ」



 死神少女は嗤う。口元に手を当て、初めて声音を下げた吸血鬼を嘲るように。

 そうして風に立ち消えそうな囁き声で、静かに語り出した。


 かつて古竜と呼ばれる存在と喰らい合った、哀れな生け贄少女の物語を。



     ※



 その日、神託が下された。

 承けたのは神権国家フィリアードの王都に次ぐ第二都市ケルンハイムにある、中央大教会の聖女だった。


  

 “邪ナル竜ニ生ケ贄ヲ捧ゲヨ。供物ノ名ハ――”。



 都市ケルンハイムは騒然となった。

 なぜならば神託に指名された者の名が、都市を統治する領主一族の長女の名であったからだ。

 長女はさめざめと泣いた。近く訪れる贄ノ日までを毎日のように泣き暮らした。


 長女には双子の妹がいた。服装や髪型を除けば、実母ですら見分けがつかないほどによく似ている妹だった。

 事実、姉妹は幼い頃、何度もそうやって入れ替わりながら乳母を困らせて遊んでいた。


 妹は贄に選ばれた姉の助命を、領主である父に何度も懇願した。しかし国教の神託は教王アルマイドからの勅令にも等しく、領主は首を横に振るしかなかった。


 そこで妹は、他国の貴族であった自身の婚約者に相談を持ちかける。神権国家フィリアードの法の及ばぬ国であれば、と考えたからだ。



 ――姉を救うため、どうぞお力をお貸しくださいませ。



 暮らしのすべてを失ってもいい。贄ノ日が訪れる前に婚約者の力を借り、哀れな姉をさらって逃げようと計画を立てた。


 馬車を用意した。最低限の食料と衣服を積んだ。手綱は婚約者が握ってくれる。

 ケルンハイムを去り、婚約者の下に二人、身を隠す計画だった。


 贄ノ日の前日深夜、計画は実行に移されるはずだった。


 しかし夕刻に早寝をした妹が約束の刻に目を覚ましたとき、彼女は暗い樽の中で縛られていた。外で姉と婚約者が親しげに語らう声がしていた。

 それはまるで古くからの恋人同士のように睦まじかった。妹はそのときの両者の会話で初めて知った。自身の婚約者が、姉と不義密通の仲であったことに。


 ならば自身の置かれた立場は……?


 双子ゆえに、誰にも気づかれない。姉は婚約者と結託して妹に成り代わったのだ。それだけに留まらず、妹は姉にすげ替えられて、姉の名で生け贄へと送り出されようとしていたのだ。



 ――わたしはあなたを助けようとしたのに、あなたはわたしを裏切って愛する婚約者を奪った上に、自身がなるべきだった邪竜への生け贄へとわたしを差し出すというのか。



 騙されていたのだ。最初から。愛する姉と、愛する婚約者に。


 呪詛の言葉を吐いた。あらん限りの声で叫んだ。自身が妹であると。

 だが、誰も聞く耳を持たない。双子であるがゆえに、命惜しさに喚いているだけだと取られて。


 ぞわり、胸の内で黒い何かが蠢いた。


 どうすることもできず、身動き取れぬままにその身は馬車で揺られ、ついには邪竜へと差し出されてしまった。


 それでも思考は澄み渡っていた。怒りや憎しみが恐怖を上回っていたおかげで、絶望に陥ることなく考えることができた。


 哀れな娘に、邪竜は容赦なく喰らいつく。


 だが娘は一瞬早く、自らその口内へと飛び込んだ。牙に挟まれた脹ら脛から下が、竜の口外で千切れ落ちるのがわかった。


 激痛が少女を襲う。


 しかしそれでも。竜の口へと滑り込んだ彼女は、鱗に覆われた表皮ではなく、柔らかな舌に齧り付いた。齧り付き、喰い破り、肉片をちぎり取って、嚥下したのだ。


 激痛に邪竜は藻掻き、炎を吐く。


 口内にあった娘の全身は焦げついた。肌は黒く炭化し、絹糸のようだった髪も燃え尽きて、瞳は光を失って濁った。

 それでも娘は邪竜の傷口に歯を突き立て、その肉を囓り取り、流れ出す血を啜ることをやめなかった。

 涙も血も蒸発し、呼吸をするたび肺を灼かれ、痛みと苦痛の中、抗い続けた。邪竜が感じている以上の怒りだけが、彼女の原動力だった。



 ――憎い、憎い、憎い。贄を求める存在も、贄を決める神も、贄を差し出す人間も。だから喰らってやる。喰らってやる。



 娘は知っていたのだ。思い出したのだ。幼少期、乳母に読み聞かせられたお伽噺を。

 旧き神話の中で竜の血を浴び、不死となった勇者の物語を。


 呼吸ができずに意識を失うまで肉を喰らい、血を啜った。視界を失っても、嚥下することだけはやめなかった。

 やがて彼女は賭けに勝利したことを知る。

 邪竜の口内で、炭化し、砕かれた肉体が再生を始めたのだ。彼女はいっそう、邪竜を喰らい続けた。


 もっと! もっと! もっと! もっと!

 喰らってやる、この世界のすべてを! 生け贄を求める邪悪を! 生け贄を選定する神を! 生け贄を差し出し安穏と生きる人間どもを!


 喰らってやる――ッ!!


 竜と人が、互いの肉体を貪り合った。

 灼かれ、そして噛み砕かれる激痛に堪えながら、少女は竜を無我夢中で喰らった。竜は何度も少女を噛み砕き、灼き尽くし、抵抗した。それでも不死となった少女は朽ちない。腹が破られ喰らった血肉をそこからこぼそうとも、その行為をやめない。


 最初の再生には数日かかったが、次は一日もかからなかった。

 彼女が最初に喰われてからちょうど十日が過ぎる頃、内臓のおよそ半分近くまでを喰い破られた邪竜は、ついに断末魔の叫びを残して動かぬ肉塊と化した。


 巨大な竜の口蓋を片手で持ち上げ、少女は一糸まとわぬ生まれたままの姿で再び地に降り立つ。もはや火傷はおろか、傷一つない珠の肌。陶器のように白く、滑らかで。

 朽ち行く竜とは対照的に、少女は完全再生を果たしていた。髪も、瞳も。

 否、それ以上。肉体の奥底より溢れてくる力。竜の力。



 ――ふふ、アハハ。



 口元から流れる竜の血を裸の腕で拭き取って、彼女は嗤った。

 勝った。人が竜に。喰らってやった。人が竜を。生け贄を求める邪悪な存在を、喰い破ってやった。


 嗤った。嗤った。

 嗤って、泣きながら嗤って、竜を憎み、神を憎み、魔を憎み、人を憎み、そして最後には獣のように叫んだ。

 それは魂から出た、世界に対する怒りの絶叫だった。




     ※




「そしてわたしは不死となった」

「竜を喰らっただと? 人間ごときがよくもまあ盛大に吹いたものだ。もういい。長話に興味が失せた。吸血毒が効かぬのであれば、直接殺せばよいだけのこと。然る後に我が死徒となるがいい。逆らう気も失せるだろうよ」



 吸血鬼バレンティン伯が人差し指を、不死を名乗るリュリアへと向けた。

 パキリ、小さな音がした直後に指先が割れ、赤黒い雫が一条の槍となってリュリアの眉間を貫き、後頭部から脳漿や頭蓋の破片とともに抜ける。


 静かに。ただ静かに。

 魔法ではない。血液を飛ばしたのだ。血を操る吸血鬼ならではの技だった。


 リュリアの顎が上がり、上体が背後に揺らぐ。穏やかな夜の風に押され、背中からゆっくり、ゆっくりと、けれども、その揺らぎは途中で止まった。



「……?」



 踏みとどまったのだ。即死であるはずの彼女が。

 そうしてリュリアは上がった顎を、自らの意志で下げる。額に小さな穴を空けたまま濁った瞳を細め、歪に嗤って。



「ああ、痛い」



 バレンティンの目が見開かれた。混乱、困惑が表情から見て取れる。

 即死のはずだった。人間が脳天に風穴を空けられて生きられるわけがない。にもかかわらず、彼女は平然と。


 リュリアが眉間から滴る自らの血を、ぺろりと赤い舌で舐めとった。やがてその傷口は、肉に埋もれて消滅する。もはや影も形もない。



「ふふ」

「バカな……! まさか本当に竜を喰らい、不死になったとでも言うのかッ! たかが人間の小娘風情が!」



 竜と言えば、神にも等しき力を持つと言われる生態系最上位の生物だ。

 人間族はもちろん、類い稀なる魔法の名手のエルフ族や、稀少金属で武具を加工して怪力を存分に振るうドワーフ族、あるいは魔族であったとしても。


 竜の鱗はあらゆる刃を弾き、その吐息は比類なき業火となって、生けるすべてを灼き尽くしてしまう。そこに例外はない。たとえこの男のように、上位魔族たる吸血種であったとしてもだ。



「ええ。そう言ったはずよ。竜と人の間に産まれた子をドラゴンメイドと呼ぶらしいけれど、それとも違う。ドラゴンメイドは不死ではないのだから。そうね、あえて呼ぶならドラゴンブラッドかしら。わたしは不死。吸血鬼であるあなたと同じ、不死なの」



 嘲るリュリアを前に、吸血鬼が気圧されたように一歩後ずさる。

 微笑みながら、不死のリュリアは無防備に一歩近づく。



「ああ、正確には吸血種も不死ではないのだったかしら? 心臓に杭を打たれたり、頭を完全に潰されたりしたら、()()()()()()()()()()()()?」

「……く……っ、ケルンハイムは生け贄を拒んだ結果、二百年も前に邪竜の怒りに触れて滅ぼされた都市の名! 事実、ケルンハイムはもうない! 人間の寿命を考えれば、あり得ないはずだ! おまえの話はすべて出鱈目だ!」

「あはっ、あっははははははっ。その反論は矛盾しているわ。わたしは不死だと言ったでしょう、()()()?」



 リュリアが目を剥く。目を剥いて嘲った。



「ふふ、嘘だと思うなら、ケルンハイムを苦しめていた邪竜の棲まうリグオンガルド山脈に向かい、好きなだけ探すといいわ。都市ケルンハイムと同じように、そこに邪竜ラギアグイユはもういないのだから」

「ラギアグ――!? バカな! その名は、ただの竜ではないぞ! 神々と戦ったと伝承すら残る古の竜の名だ!」

「そう。二百年前、この神権国家フィリアードから、人知れず忽然と姿を消した邪悪な古竜の名よ。そりゃあ、姿も見せなくなるわ。だってその頃にはもう、ラギアグイユの肉体は滅んでいたのだから。――でも、残念ね」



 リュリアの笑みが、すぅっと消滅する。



「――あなたにラギアグイユの存在をたしかめる機会は、もう訪れない」



 吸血鬼が顔をしかめてつぶやいた。



「貴様の話が真実だとして、貴様は故郷に復讐したのか? 自らを生け贄に差し出した都市に。ケルンハイムを滅ぼしたのは竜ではなく、自身だとでも言うつもりか? 肉親だっていたはずだ。人間は関係性を重んじる生き物であろう?」



 リュリアは少し思考する素振りを見せたあと、事も無げに言い放つ。



「ああ。いたわね。わたしを贄に差し出した卑怯で薄汚い血縁たちが。ふふ、うふふ。けれど、それがどうかして? わたしは不死のドラゴンブラッド。この身体に流れる血はもう、あの人間たちのものと同じではないわ」



 リュリアが目を剥いて囁いた。



「だって、あの人たちの死に対して、何とも思わないのだから」



 列石群に身を隠し、一連の会話を盗み聞きしていたわたしは、再び怖気をおぼえていた。


 ケルンハイムは三十余万の人口を抱える大都市だ。兵士の数は王都に続いて多い。否、多かった。現在はただの広大な廃墟に過ぎない。

 やったのは竜であると、王都にある国立図書館の書物には記されている。


 けれど、実際には――。


 バレンティンが眉をひそめた。



「あり得んな。あの都市をたった一人で滅ぼせる生物など、それこそ空の支配者、炎の王たる竜族だけのはずだ。あんなもの、我々上位魔族でさえ単身では――」



 その先に続くべき言葉を呑んだ吸血鬼に対し、不死の少女は肩をすくめて見せる。



「わたしが都市ケルンハイムを滅ぼしたかどうかなんてどうでもいい。もう忘れてしまったわ。けれど事実――」



 口角を高く上げて唇の前で人差し指を立て、吐息の声で早口に。



「――ケルンハイムは()()()()



 邪悪な笑みが浮かんだ。

 見つめ合う。会話が途切れた。


 先ほどまで穏やかだった風が、不意にリュリアの髪とスカートを揺らした。前髪が崩れるのを嫌うように手を当てた瞬間、バレンティンは地を蹴っていた。

 真っ赤な瞳で牙を剥き、鋭い爪を伸ばして。


 リュリアは完全に虚を衝かれていた。

 顔前から手を下ろした瞬間、細剣ほどにも伸ばされた鋭い五本の爪が、彼女の頭部に突き刺さる。



「カアァァ!」



 バレンティンは貫いた爪をそのままに、上半身を半回転させるように腕を振り切った。気味の悪い破裂音とともに、リュリアの肉体が吹っ飛んだ。

 血と肉と、頭蓋の骨片と眼球を四散させながら――リュリアの肉体がパタリと大地に倒れ伏す。ざぁと流れ出す血液が血だまりとなり、彼女のドレスをさらに赤く染めた。


 わたしは悲鳴を上げそうになって、かろうじてそれを呑み込んだ。

 殺された。生け贄であるわたしの代わりに、リュリアが。

 頭が真っ白になった。



「やはりまがい物の類であったか。口先で難を逃れようとは片腹痛い。小賢しい小娘め。死徒とする前に壊してしまったではないか。口車にのせられたとは言え、これほどまでの美貌を無駄にするとは、愚かな」



 バレンティンが独り言ちて、動かぬリュリアの腹を蹴った。

 頭の欠けたリュリアが勢いよく転がって、列石にあたって止まる。わたしが隠れていた列石にあたって。


 ごろり……。


 手の届きそうな位置に、頭部の半分近くまで破壊されたリュリアの死体があった。その変わり果てたリュリアの凄惨さに、わたしは思わず息を呑んだ。



「ひ……ッ」



 しまった……!


 そう思い、慌てて自らの両手で口を塞いだときにはもう遅かった。



「ん?」



 バレンティンはマントを翻しながら一息に列石近くにまで跳躍し、腰を抜かしたわたしを発見する。一瞬の後にはもう、逃げ道を塞がれていて。

 そうしてわたしをつま先から頭までを睨めつけてから、舌なめずりをした。



「あ、ああ……ぁ……」

「リュリアに比すれば数段落ちるが、悪くはない」



 恐怖に強ばり、腰砕けで動けなくなった。吸血鬼の手が伸びてきて、わたしの髪をつかむ。



「あぅ!」

「もらうぞ、娘」



 そうして髪を引っ張られて強引に喉元を晒させられたわたしへと、吸血鬼が大口を開けた――瞬間、バレンティンの表情が凍った。真っ赤な瞳が驚愕に見開かれている。

 わたしじゃない。わたしの後ろを見ている。



「ああ、痛い。さっきよりもずっと痛かったわ」



 足音がした。わたしの背後から。

 じゃり、じゃり、砂を踏む音が。

 噛みつくことさえ忘れたのか、バレンティンはその光景に釘付けになっていた。


 髪をつかまれたまま、わたしは首を回して振り返る。

 そこには頭部の半分近くまでを失ったリュリアが立っていた。



「――ひッ!?」



 あり得ない。不死と称される吸血種でさえ、頭部の半分を失えば確実な死が訪れる。ならばあれはいったい何だと言うのか。


 むき出しの欠けた脳に、こぼれ続ける液体。

 月を背負って立つ、美しきバケモノ。吸血種という怪物から見てすら、おそらくはバケモノ。あまりに規格外の特異な存在。



 ドラゴンブラッド――……。



 リュリアは欠けた頭部を隠すように両手で覆った。乙女が裸身を隠すような、羞恥に満ちた表情で。



「あまり見ないで。恥ずかしいわ。……な~んてね。うふふ」



 だが、次の瞬間、リュリアは両腕を広げたときには。

 まるで奇術のように、そこには完全に再生された美しい死神の顔があった。緩やかなウェーブのかかる金色の髪や、失われたはずの眼球でさえも。


 幻覚か。悪夢か。いいえ、違う。リュリアのドレスは赤く染まっている。バレンティンもまた見たはずだ。だからわたしを噛むことさえ忘れて、呆然としているのだから。

 再生したのだ。吸血種ですら死に至る致命傷から、いとも容易く。それも戯けながら。


 リュリアは後ろ手を組んで、軽やかな足取りでバレンティンに近づく。鼻歌交じりに散歩でもしているかのように。


 バレンティンの手から、わたしの髪がするりと滑り落ちた。拘束から逃れられたわたしだったけれど、そのあまりに埒外な光景に、逃げるのも忘れてその場にへたり込んでしまった。



「う……嘘だ……。そんなはずはないッ!!」



 バレンティンが地を蹴った。

 十数歩もの距離を一息に詰めて、再び爪を振るう。先ほどよりも素速くだ。今度は首から上を吹っ飛ばすように。


 けれども――。



「うふふ」



 先ほどは為す術もなく貫かれたリュリアだったけれど、今度は細い植物のように身体を揺らしてその爪をかいくぐった。

 絹糸のような髪の毛一本、皮膚一枚にすら、触れることを許さない。



「ガアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」



 バレンティンが何度も何度も両手の爪を振るう。

 薙ぎ払い、貫き、引き裂さかんとして振るい続けるも、そのすべてをリュリアは己の手すら使うことなく、ふわり、ふわりと、身体を揺らして回避する。



「こ、んなことが――ッ!!」



 十数度目。鋭い爪が虚空を斬った瞬間、バレンティンは己の脇腹にめり込んだ掌によって側方へと吹っ飛ばされていた。



「があっ!?」



 岩ですら砕くのではと、錯覚を引き起こすほどの轟音と衝撃波が夜に散る。

 両足で大地を掻いてどうにか止まり、バレンティンは視線をリュリアに戻すも、彼女の姿はそこにはもうない。



「こっちよ」



 耳元で囁かれた声に振り返った瞬間には、先ほどとは違う方の脇腹に彼女の足がめり込み、またしても吹っ飛ばされる。

 再び衝撃波が散った。草原の草を薙ぎ倒すほどの。



「ぐっ!?」



 今度は足で大地を掻くことすらできず、空中で藻掻きながら石の祭壇へと背中から叩きつけられた。

 ごぼり、吸血鬼が口から血を吐く。



「がはっ、ぐ、ぎ……っ、ご、ごんな……っ」

「うふ、あはは。あなたとっても滑稽。血を奪う吸血鬼が、供物に蹴られて血を無駄に流すだなんて。その祭壇にのせられるのは、わたしではなくあなたの方が相応しいのではなくて?」



 青ざめた。もともと蒼白だったバレンティンの顔が、より一層青ざめた。


 我に返ったわたしは、転げながら慌ててその場から離れた。

 リュリアの後ろにではない。リュリアからもバレンティンからも距離を取った。無我夢中で距離を取った。

 ここにいるのは一人の人間と、二体の怪物なのだから。


 ただ、怪物のうち一体は贄を求め、もう一体は贄を求めるものの命を求めている。それだけの違いに過ぎない。ううん、何が違うものか。何も違わない。どちらも贄を求める怪物なのだから。


 怪物たちの饗宴は続く。


 どうにか立ち上がったバレンティンは完全に後ずさり、それを追うリュリアは踊るように距離を詰める。やがて、両者の間から距離がなくなったとき、リュリアは己の指先でバレンティンの左胸をなぞっていた。



「杭ではなくても、心臓を潰せば滅ぼせるのかしら? 以前殺した真祖は杭だったの。絶叫しながらだったから、すごく味のある死に顔だったわ。思い出すと、いまでも笑えてくるくらいよ」



 リュリアが右腕を引く。

 引いた瞬間、バレンティンが闇に散った。数十羽もの蝙蝠となって空へと舞い上がり――かけて、引き戻された。引き戻され、そして再び人型の吸血鬼へと姿まで戻されてしまう。


 リュリアの掌の中には、蝙蝠一羽。



「心臓見~っけ」



 次の瞬間、リュリアにつかまれた蝙蝠が破裂した。蝙蝠はギィと一声鳴くと、黒い霧と赤い液体になって霧散する。



「ぐがああああああッ!?」



 バレンティンが左胸を両手で押さえて(うずくま)った。リュリアに屈したかのように(ひざまづ)く。

 蒼白の顔面からは、大量の汗が滴っていた。

 しかし滅んではいない。死臭漂う汗を滴らせ、怯えた目でリュリアを見上げているだけだ。



「へえ、やっぱり杭じゃないと殺せないのね。うふふ、おもしろいわ。銀の剣なら殺せるのに鉄の剣ではだめ。杭ならば殺せるのに拳ではだめ。不思議ね。どうしてかしら?」

「も、もう、やめてくれ! 贄など求めない! 私が悪かった!」

「吸血鬼が血を吸わないで生きていける? ムリよねえ? 口先だけで難を逃れようだなんて、あなたとっても小賢しいわ。うふふ」



 先ほど言われた言葉を、リュリアはそのまま返す。



「う、そ、それは……」



 顎に人差し指をあてて、リュリアは妖艶に微笑む。



「銀もない。杭もない。この場でできそうな処理だと、やっぱり頭部を破壊するしかないのかしら」

「~~ッ!!」



 リュリアの言葉が終わった瞬間、バレンティンは跳躍と同時に十爪を逆袈裟に振り上げた。リュリアの左胸部を狙ってだ。



「がああああッ!!」



 肉体を四つに分断すれば、あるいは逃げる隙くらいは得られるという算段だったのだろう。だが、バレンティンに絶望の表情が浮かぶ。

 リュリアの白く細い指が、必殺の十爪を軽く挟み込み、完全に受け止めていたからだ。どれだけ力を込めようとも、彼女の指を斬ることはおろか、動かすことさえできない。



「く、こんな……! なぜだ……! なぜ私より速く動ける……!」

「あなたがわたしの頭を半分ほど吹き飛ばしたときのことを言っているのかしら? あれならわざと受けてあげたのよ。身の程を知ってもらうためだったのだけれど、あまり意味がなかったみたいで残念だわ」

「う、ぐ!?」



 ぴきり、ぴきり。

 爪にヒビが入っていく。



「あ、ああ、バカな……! み、認めぬ……! 認めぬぞ! 私は高位魔族、吸血種が真祖バレンティン伯なのだぞッ!!」



 至近距離で見つめる濁った瞳が、微かに細められる。



「それがどうかして?」



 そうしてついには、挟み込んだリュリアの指が、バレンティンの十爪を砕き折った。バラバラと、十本の細剣にも似た爪が大地に転がった。


 竜の力の一端。何者も追随できぬ絶大なる力。


 逃げることも勝つこともできない哀れな吸血鬼は、それでも牙を剥く。



「ギイイイィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」



 剥かねば殺される。それがわかっていたからだろう。

 恐怖に歪んだ表情で大口を開けて、牙でリュリアの喉笛を食い千切――ろうとして、左手で喉を受け止められた。



「げあッ!? が、っぐ、は……なせ……ッ!」



 いとも容易くだ。

 絞まる。

 もはや逃れることもできない。蝙蝠に変じても、次は確実に脳をつかまれるだろう。



「だめだめ、だぁ~め」



 リュリアはバレンティンの喉笛をつかんだまま腕を伸ばし、彼を押し戻す。

 吸血鬼の牙が眼前でガチンガチンと打ち鳴らされるも、彼女の喉はおろか、つかまれた手にすら届かない。

 ギリギリと絞まりいく首に、バレンティンが藻掻く。しかしリュリアの左手指先はさらに吸血鬼の肉へと食い込む。



「……ゆ、ゆるじ……で……」

「命乞いだなんて、生け贄を求める存在に似つかわしい浅ましさね、吸血鬼バレンティン伯。真祖としての矜持もなくしたの? でも、それでこそ、わたしの贄となるに相応しいわ」

「……ぁ……か……っ……」



 そうしてリュリアは右の拳を強く握りしめ、口角を不自然なほどに高く上げて嘲笑を浮かべた。



「――贄など求めたことを悔いろ」



 その言葉を最後に、リュリアは右の拳を放った。

 鼻面から入った拳は一瞬たりともその場に留まることなく後頭部へと突き抜けたのち、バレンティンの頭部を轟音とともに木っ端微塵に破砕する。

 肉と血と骨片でできた赤い霧が、夜に四散した。


 あとに残るは首から上を失った吸血鬼の死骸のみ。つかんだ喉笛をリュリアが突き放すと、死骸はゆっくりと仰向けに倒れた。




     ※




 列石裏、いまやリュリアの視界の中にいるわたしは、満月を背負って立つ美しい死神をただ見上げていた。それは恐怖すら忘れるほどの、衝撃的な光景だった。まるで完成された絵画のように幻想的で。


 リュリアが掌を振って、穢れた血を払う。



「ねえ、あなた」

「……」



 わたしは最初、それが自身にかけられた言葉であることに気づかなかった。



「生け贄だったあなた。聞こえているかしら」

「……ぇ、あ……う……」

「この死骸を引きずって帰りなさいな。わたしは手伝わないけれど」

「え? え?」



 リュリアが両手を腰にあてて振り返る。

 優しい風が彼女の金色の髪を揺らしていた。



「生け贄を求めた吸血鬼は死んだ。村と神託の聖女にそう伝えればいい。それであなたの村からはもう、生け贄が選ばれることはなくなるのだから」

「あ……」



 灰色に濁った目が細められ、その指先はしなやかにわたしを指し示す。



「わ、わたし、は、助かった……の……? ほ、他の生け贄の子たちは……みんな殺されたのに……? 誰も、帰ってこなかったのに……?」



 リュリアはうなずかない。だが、首を横に振りもしない。

 ただ淡々と告げる。



「命はね。ただ心までは、わたしの知ったことではないわ」

「心……?」



 リュリアが口角を上げて目を細めた。それはわたしにしてみれば、恐怖すら感じられるほどの凄みのある笑みだった。



「ふふ、あは、もう忘れたの? なんて都合のいい子! なら思い出させてあげるわ。あなたの村の民も、崇高な国教の聖女も、あなたの家族でさえも、みんなみんな自分たちの安寧のためだけに、あなたを殺そうとした。違う?」



 ああ……。

 そう、そうなのだ。わたしは殺されかけたのだ。たったいま。あの村の民に。国教の聖女に。家族にも。あの村に、わたしの味方は誰もいなかった。


 その事実が、いまさら心に重くのしかかる。救われたいまだからこそ、のしかかってくる。



「……」

「あなたはそんな家に無邪気に帰れるほど白痴なのかしら? 生け贄を求める新たな怪物がこの地に棲み着けば、彼らはまた同じことをするでしょう。差し出されるのはあなたかもしれないし、他の誰かかもしれない。おろかな人間は繰り返すの」

「そんな……」



 けれどリュリアは続ける。あくまでも軽やかに、この世界のすべてを嘲るような笑みをうっすらと浮かべながら。



「助かりたければ、勝手に助かればいいわ。でも、あなたが不死の怪物であるわたしに、村の民全員を生け贄に捧げると言ってくれたなら、わたしは彼らを皆殺しにしてあげてもいい」



 いつの間にかわたしの至近距離にまで近づいていたリュリアは、その唇が触れあいそうな距離で静かに囁く。



「誰一人逃がさずに、そのすべてをこの国の地図から消し去ってあげる。気に病むことはないわ。あなたはそれだけのことをさせられたのだし、どうせ誰もがいつか死ぬために生きているのだから。さあ、選んで?」



 灰色の瞳がわたしの裡側を覗くかのように、見開かれていた。


 わたしは口ごもる。

 聞いていたから。先ほどのリュリアとバレンティンの会話を。古よりの竜と、都市ケルンハイムが滅亡した話を。


 だから――。


 わたしは湧き上がる恐怖心を隠し、意を決してつぶやく。



「……あなたを、不死のリュリアを、ほ、本物の怪物には、したくないから……」



 少し面食らったような表情で、リュリアが下がった。



「もう手遅れかもしてなくっても?」



 都市ケルンハイムを滅ぼしたのは、目の前の不死か、あるいは伝承の竜なのか、それはわからない。

 けれども、わたしはうなずいて見せる。彼女に。力強く。



「はい。それでも。それにわたしは、わたしを生け贄に送り出した他の人たちのようにはなりたくありません」



 濁った灰色の瞳と見つめ合ってしばらく――。

 リュリアが人差し指で頬を掻いて、苦い表情で笑った。とてもとても苦い表情で。



「はあ、まったく……」



 わたしにはその笑みが、初めてリュリアの見せた本心であったように感じられた。だからこのときになって初めて、わたしの中から彼女に対する恐怖が消えたのだと思う。

 だってそのときの彼女は、とっても人間らしい表情をしていたのだから。



「わかったわ。わかった。だからそのような目で見ないでちょうだい。けれどもし気が変わったなら、そこの祭壇のベッドに石でも並べて置いといてくれればいいわ。そうしたらすぐにでも――」

「変わりませんっ」



 また少しリュリアが笑う。それに釣られて、生け贄だったわたしも。

 リュリアが肩をすくめて瞼を閉じた。

 心なしか、嬉しそうに。



「ああ、残念だわ。生け贄をもらえないなら、ただ働きだったみたいね。ならせめて、あなた以外の供物から少しだけいただいても?」



 わたしが眠るはずだった祭壇の周囲には、輝く宝石類や皮を剥がれて内臓を除かれた羊、それに収穫されたばかりの野菜や果物と、そして鎮魂用の献花がある。



「それは、もちろん」

「ありがとう」



 リュリアは花を一輪を手に取って、わたしに背中を向けた。それだけだ。彼女は他のものには手をつけようともしなかった。


 そうして歩き出す。リュリアの背中に向けて、わたしは頭を下げた。

 しかし、いくらも歩かぬうちに。



『待たれよ、我が主』



 そんな声が聞こえた。正確には、耳を通さぬまま頭蓋の中に直接響いたように感じた。

 わたしは耳に手をあてて、垂れていた頭を上げる。



「え? え?」



 しかしリュリアには聞こえていないのか、彼女は立ち止まらない。花を一輪持った手を振りながら、遠ざかって。



『いやいやいやいや、待たれよって。我が主。我のことを忘れておらぬか? ……あ! 聞こえぬふりか?』



 わたしは視線を周囲に散らす。けれど、この場にはわたしとリュリア、そして首から上のない吸血鬼の死骸しかない。

 ならばこの声はいったいどこから聞こえてきたというのか。



『よくないぞ~、無視とかそういうのはよくない。よくないな~。あのな、やった方は忘れても、やられた方は深く傷ついて、いつまでもおぼえておるからな?』



 あるいは本当に聞こえていないのか、リュリアはそれでも立ち止まらない。どんどん遠ざかっていく。いや、むしろ先ほどまでよりも足早に。



『あれ? 本気っぽくない? もしかして我のこと、これを機会に捨てようとしてる?』

「……」

『いや待って!? 本気で! 後生だから! 我は自分で動けんし、このままじゃ土に還るだけになっちゃうから! ねえ! ねえってばあああ!』



 リュリアが額に手を置いて、ようやく立ち止まった。

 金色の髪を激しく振って腹立たしそうな顔で振り返ると、わたしへ……ううん、無人の祭壇に向けて怒鳴りつけた。



「ああああああぁぁぁぁ、うるっさいわね、もうっ!! せっかくヒトがキメッキメで去ろうとしているのに!」



 キメキメとか言い出した……。



「だいたい置き去りくらい、あなたが二百年前にわたしにしたことに比べれば些細なことでしょ!」

『あハイ……』



 先ほどまでの怜悧な彼女の雰囲気とは一転、リュリアはドスドスと足音を鳴らしながら祭壇まで戻ると、その足下に転がっていた剣を行儀悪く右足で蹴って空中に浮かせ、片手で受け止める。



「まったく! ガムの樹の樹液のようにわたしの身体をぐちゃぐちゃ噛み砕いてくれたくせに、ずいぶんと調子のいいこと!」

『……ええ~……そんな昔の話、持ち出す~……? ……これだから人間の雌は……』

「はあっ!?」



 ギシリ、凄まじい握力で握られた剣の鞘が悲鳴を上げた。



『そ、その節は本当に申し訳ございませんでした! あ~、だめだめだめだめ、折れちゃう! いまの我、か弱いから折れちゃう!』

「ふん」



 わたしはリュリアの剣を指さす。



「あの、えっと……?」

「これ? ラギアグイユの脊椎から削り出した剣だけど」

「ラギ……ア……、えっ!? そ、それ、リュリアさんが食べたっていう古竜の……!?」



 わたしは素っ頓狂な声を上げた。


 邪竜ラギアグイユ。その名を識らぬ者はいない。

 その羽ばたきは大風を巻き起こし、咆哮は人々の精神を瞬時に砕き、鋭き牙は鋼鉄の塊をも噛み砕き、吐き出される怒りの炎は数十万都市を一夜で灼き払った。


 そうして竜は、人々の信仰する主神フィリアをもあざ笑うがごとく、神権国家フィリアードの北方に位置するリグオンガルド山脈に棲み着いた。

 そもそもこの古竜は、伝承の中でも神々を相手に大立ち回りを演じて見せた世界屈指の邪竜なのだから。


 暴虐の限りを尽くす竜を退治せんと、多くの勇者が名乗りを上げた。だが、リグオンガルド山脈に立ち入って戻ってきたものはいない。比類なき剣術を扱う勇者も、如何なる大魔法を操る賢者も、国家より派兵されたフィリアードの数千もの聖堂騎士たちもだ。


 手に負えぬ存在に、神権国家フィリアードの教王アルマイドは頭を抱えた。派兵を繰り返すほどに国力は衰退するがゆえに、恵み多き森を有するリグオンガルド山脈を封鎖せざるを得なかった。


 そして山脈は無人となった。


 だがそれが原因でラギアグイユは再び飛び立つこととなる。

 邪竜は数年もの間、派兵された騎士や勇者らを喰らって生きてきた。彼の存在にしてみれば、食料となるべく人間たちが、わざわざあちらから出向いてきてくれていたのだ。それが絶たれたならば、再び狩りを始める必要があった。


 そして邪竜ラギアグイユは再び翼を広げた。


 その被害はフィリアードのみならず、周辺国家にまで及び始めた。各国から激しく糾弾を受けた教王アルマイドは、苦渋の中で一つの決断を下す。



 ――邪竜を山脈から飛び立たせぬため、彼の者に喰わせる人間が必要だ。



 すなわち生け贄の制度化である。

 国教の権力を利用し、聖なる巫女、すなわち聖女からの神託と(うそぶ)いて、季節の変わり目ごとに高貴な血筋の生娘を一人、邪竜に捧げ続けた。


 果たして彼の時代、主神フィリアをあざ笑ったのは、神々を意にも介さぬ暴虐の竜だったのか、あるいは信仰の源たるべき教王の方であったのか。


 何にせよ、伝説の古竜を喰らって不死となったリュリアの話は、すべて真実だったという証拠だ。それがわたしの目の前にある。



「わたしは生け贄にされた少女たちの一人だったというだけのお話」

「そう……だったんですね……」



 呆然と立ち尽くすわたしに、リュリアは淡々と続けた。



「だからね、悔しくって、逆にラギアグイユを食べてあげたというわけなの」

『ああ、喰われた喰われた。驚いたものよ。たかが人間の小娘ごときにこの我がな』



 話がぶっ飛んだ。むしろ知りたいのは、どうやって、だ。わたしには想像もつかない。

 当時のリュリアは不死ではなく、自身と年端も変わらぬ無力な少女だったはずだ。



「何かもう色々と意味がわかりません」

「そう? とにかくまあ、それでラギアグイユの脊椎を削って剣を作ってみたのよ。ところがある日を境に突然しゃべり出すんだもの。まったく、小うるさいったら」

「はあ……」

「地を素速く這う虫並にしつこい生命力ね、ラギア」



 リュリアが手にした剣から、再び声が響いた。



『よせやい。照れるではないか。そのようなことより我が主。そろそろ我にも喰わせてもらえんだろうか。ちょうどそこにうまそうな贄もあることだ。クック』

「えっ!?」



 わたしは後ずさる。



『安心するがよい、芳しき生娘よ。汝の柔らかにして甘美なる肉を貪り喰らいたいのはやまやまなれど、残念ながらそれはできぬ。ゆえに、一刺しのみ、そこで無様に転がっておる吸血鬼を分けてはもらえぬものであろうか。お願いっ、生娘さんっ』

「う……。き、生娘とか……大きな声で何度も言わないでくださ……」

『クック。違うとは言わせぬぞ~? 我の鼻を誤魔化すことはできぬ。貴様の股ぐらからは我が主と同じくして――イッぎっ!? 折れちゃう、強く握ったら折れちゃうってェェ、我が主!』 



 ギシリギシリと、剣の柄が鳴っていた。



「お黙り、ラギア」

『あハイ』

「贄を欲していたわね。けれどこの吸血鬼はこの子のもの。必要なの」

『ええ、そんなぁ~……。一口、ほんの一刺し、プスって刺すだけでもいいから』



 リュリアが顎をしゃくって舌打ちをした。



『舌打ちとか……』

「うざ。いまのおまえにはこっちで十分」



 そう言うとリュリアは剣を逆手に持ち替えて、祭壇横にあった供物の羊へと真っ白でざらつく刃をストンと突き刺した。



『おっほぉ~っ! こ、これはこれで、美味(しゅき)ぃ~!』



 直後、しゅうしゅうと音を立てて供物が塵と化していく。ついていた骨さえも塵となって消えると、リュリアは剣を一振りした。

 ざらつく白い刃の面には、もはや血脂の一滴もついてはいない。喰らったというのか、剣が。



『ゴチ』

「お粗末様」



 リュリアが事務的に返す。



『では眠りに入る。無用に起こすでないぞ、我が主よ』

「二度と起きなくて結構」

『そ、そんな哀しいこと、言うなよ……』



 蚊の鳴くような声だった。


 それっきり。

 リュリアは鞘に刃を差し込み、背中に剣をくくりつけた。そうして肩をすくめて見せ、困り顔で微笑む。



「これがいまの邪竜ラギアグイユ。いいのよ、別に笑っても。こいつが怒ったって、へし折ってやればいいのだから」

「あはっ、あははははっ」



 わたしは口に手をあてて笑った。心の底から笑った。

 恐ろしい邪竜のはずなのに、少し可愛らしくさえ思えた。


 ラギアグイユは肉体が縮んだことにより、欲する贄も微々たるものになったらしい。それでも時折、口甘い生娘を喰らいたいとほざくことはあるらしいのだけれど、リュリアが側にいる限り、それは決して満たされないだろう。



「もう行くわ。ではね」

「あ、はい。……あの、ありがとうございました……っ」



 背中を向けかけていたリュリアが、肩越しに振り返った。



「勘違いしないで。助けたつもりはないわ。そもそも、わたしはあなたが思うような存在ではないの。どちらかと言えば、眠っているこの駄竜や、そこで無様に転がっている首なし吸血鬼に近いのだから。ううん、もっとたちが悪いわ」



 意味がわからず、わたしは首を傾げる。

 だってわたしはリュリアに助けられたのだから。



「ふふ、わからない? わたしもまた生け贄を求めている邪悪ということ。生け贄を求める存在の命を贄に、わたしは不死として生きている。けれどそれは、彼らのように生きるために喰らうという意味ですらない」

「どういう……意味……?」



 リュリアが自身を抱きかかえるように、左手と右手を交差した。



「生きるために殺す吸血鬼バレンティンや邪竜ラギアグイユとは違う。手段と目的が逆なの。わたしは生け贄を求める存在を殺すために生きている」

「……あ」

「そうね、言い方を変えれば快楽のために殺しているの。うふふ、楽しくて、楽しくて、仕方がないわ。バレンティンの命乞いなんてゾクゾクしたもの。……わかる? だから彼らと比べてさえ、わたしは最低最悪の存在なの」



 贄を求める魔を殺す。贄を定める神を殺す。贄を伝え、贄を差し出すヒトをも殺す。

 関係するすべてを、一体残らず殺し尽くす。


 わたしは首を振る。



「それでもわたしは、あなたに救われ――」



 救われました、そう言いかけたわたしの言葉に、リュリアが言葉を重ねた。



「そうして最後残った贄を求める邪悪、不死の怪物(わたし)をこの手で引き裂いたときに、ようやくこの長い旅は終わりを迎える」

「――っ」



 ああ、わたしは気づいてしまった。


 彼女はそのために、邪竜ラギアグイユの脊椎を剣にしたのだと。

 自身を不死とした邪竜ラギアグイユの骨より削り出した竜骨剣であるならば、あるいはその不死を終わらせることができるかもしれないのだから。


 だけど、それはいまではない。生け贄制度は各地に点在し、未だなくなってはいない。叩けども叩けども、贄を求める邪悪は湧いて出る。だからリュリアは数百年にも及ぶ旅を未だに続けている。


 それは彼女にとって、どれほど過酷な旅なのだろう。旅の終わりがそんな結末で本当にいいのか。

 いくつも言葉が浮かぶけれど、わたしにはそのどれも吐き出すことはできなかった。生け贄という運命にすら抗えなかったわたしの言葉なんて、運命を蹴散らして進む彼女の心にはきっと届かないだろうから。


 やがて、リュリアは優しげな笑みで囁く。



「それではね」



 絶句したままのわたしに今度こそ背を向けて、彼女が遠ざかっていく。



『あ、我が主、眠る前に喉が渇いたゆえ、水気のあるものをプスっと刺し――』

「お黙り。あなたのせいで何を言っても格好がつかなかったわ」

『ええ、そんなん我のせいにされても~……。我が主の顔と性格と食事とスタイルと普段の行いが――イッッギィィィ!』



 悲鳴のあとに、盛大な舌打ちが聞こえた。



「地面の水たまりでも飲んでなさいな。ほら、ほぉ~ら」

『おっほぉ~! これはこれでぇ~ってさすがになるかぁ! おえっ、ぺぺっ、ぺっ!』



 贄を求める魔を、贄を選定する神を、贄を選択する聖女を、贄を差し出す民らを殲滅し尽くすまで、彼女の旅は続くのだろう。



「あらあら、口さえない剣の分際でお行儀の悪いこと。わたしの竜なのだから、わきまえなさいな」

『くっ、調子にのりおって! そもそも我にまだ口さえあれば、主ごとき小娘などもうとっくの昔に喰ろうておるわ! おぼえておくがいい! 我がかつての力を取り戻した暁には――ッ』



 邪竜と楽しそうに喧嘩なんかをしながら。



「ふふ、また喰らい合う? 懐かしいわね。楽しみだわ。わたしとラギア、今度はどちらのお腹が満たされるのかしらぁ?」

『ひぇ……っ!? その笑みは怖いんでやめてくだ……』



 たしかに彼女は生物的には最悪の存在なのかもしれない。

 けれど、わたしは思う。肩を揺らし、声を殺して笑いながら。



「ふふ、あはは、何あれ」



 何だか彼女、あんまり怖くないやって。


へし折った方がいい。



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[良い点] 鮮やかに目の前に浮かぶ情景描写は過不足なく、難しい言葉を乱用するわけではないのに語彙力があって。 文章に品性が感じられ、なおかつテンポもよくて。 ぐいぐいと読ませる物語運びは、急ぎすぎず、…
[気になる点] ドラゴンと喰らい合った時に、ドラゴンの血肉を喰らってもそのドラゴン以上の再生能力が身に付くとは思えないから、ドラゴンの血肉を喰らった時にその喰らった量に比例してその再生能力も奪ってたっ…
[良い点] 短編投稿ありがとうございました(*^▽^)/★*☆♪ 何時になくシリアスな雰囲気な女性キャラが!? 何時にない王道な展開が!? …………と思って読み進めれば、ラギア氏の登場で何時もの三等兵…
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