お前はわたしの運命の敵だ!
陽世明良は洗濯同好会の部員である。
彼は昔から思っていた、洗い物はいい。
ごうんごうんと荒々しい音と共に衣類と水と洗剤が攪拌され、プラズマクラスターというなんだか強そうな効果を持つ洗濯機が水流の渦の中で力を発揮する。
陽世明良にとって石水花蓮という四六時中メイド服を着ている一つ年上の先輩は、七瀬一徹老人と並ぶ師匠とも言うべき偉大な人であった。
明良はこれまで洗濯というものは、単純に衣類を洗濯機の中にぶち込んで水と適量の洗剤を入れてスイッチを押せばいいと思っていた。
浅慮であった。
一度『メイド服の先輩が一人で切り盛りする同好会』という事で、冗談半分に足を運んだ明良は、そこで石水花蓮に心の底から敬服したのである。
材質に気を使い、洗い物を選別する。
衣服を干し、乾かし、アイロンをかけてしわを伸ばす。
そうしてからりとお日様のように乾き、パリッと糊の効いたカッターシャツを身にまとうことのなんと快感な事か。
綺麗に洗浄したバスタオルに顔を突っ込みブレイクダンスをしたくなるほどの選択の腕前の持ち主である花蓮。そんな彼女に弟子入りするのも当然だろう。
当然、一緒に見学に来た親友の淳一は、入部する事はなかった。ただ生ぬるい視線で明良を見つめるのみであった。
放課後。
太陽が輝き、グラウンドでは白球を追いかける野球部が快音を響かせている。
そんな光景を見つめながら、明良は今日も頼まれもしないのに勝手に運動部の洗濯物を干しながら呟いた。
「本日も花蓮先輩は休みかぁ」
まぁいつものことである。
彼女の本業はあくまで西園寺絢華に仕えるメイドであり、洗濯同好会の活動はメイド業が暇な時の手遊びとして行っている事だ。
しかし彼女の洗濯したユニフォームを着た生徒からは、あまりの着心地の良さに中毒者が続出。
彼らは是非毎日続けてくれと花蓮に懇願したが、彼女に『暇潰しだから無償で行ったのです。仕事として受注するならお金取りますよ?』と言われれば諦めるしかなかった。
だから今では洗濯同好会の活動は明良が担っている。
今だ師匠の高みには至らないが、それでも好評はいただいていた。いつか花蓮先輩の領域に達することが目下の目標だ。
「明良」
そこにやってきた天羽薫は、ちょこなんと椅子に座り、風にたなびく洗濯物を見つめる明良の隣に座った。
「薫? うん。こっちに来るなんて珍しい。あとで淳一も来るって言ってたから、また昔みたいに三人で帰ろうか」
「ん」
できれば淳一には遅れてきてほしいと薫は思った。
しばらくは傍でじっと座っていたけども、薫は意を決して話題を切り出す。
「明良。少し実験に協力を求める」
「ん? いいけど」
しかしさすがに絢華の写真を見せられると傷ついたような顔を見せた。
「明良。その写真を見てどう思う?」
その顔を、こっそり薫は撮影する。
明良は、少し寂しそうに微笑んだ。終わった恋を懐かしむような静かな笑顔だった。
「……ああ。そりゃ胸が痛いし、なんだか苦しくもなる。けども……まぁ悪くないんだ。こういう気持ちになったのもな」
薫はじっと耳を傾ける。
「そりゃ……絢華さんと俺が釣り合うなんて思っちゃいないけどね。でも言わないで後悔するより、言ってフられる方がいい」
「そう…………絢華とは大違い」
薫の小さな呟きは聞こえなかったのだろう。明良は首を傾げた。
「明良は――どうして絢華の事を好きになったの?」
「聞き難い事も普通に聞くよね。ホントなんの実験? まぁ隠すほどのこっちゃないけどさ」
明良は懐かしむように笑った。
「別に、大した話じゃないよ。
この洗濯同好会、花蓮先輩が立ち上げたんだが。あの人、職場の――つまり西園寺のお屋敷で出た洗濯物の入った籠をこっちに持ってきて洗濯したんだよ。
それで、絢華さんに籠を持って帰ってくれって言ったらしくてね。やってきたあの人に応対したのが自分なんだよ」
薫はちょっと呆れたように笑った。
「……花蓮さん、仕える主人を使い走りにする?」
「普通のメイドさんはそんな事しなさそうだけどね。でも花蓮先輩って割りと絢華さんにそういう事言いそうじゃないか」
薫は、さもありなん、と頷いた。
主に対するあのぞんざいな扱いを思い出せば、確かに絢華に洗濯籠を持って帰ってこさせるぐらいはしそうだ。その事が容易に想像できたので、くすりと笑う。
「でも、まさかあの時は全校生徒の憧れの西園寺さんがやってくるとは思わなかった」
「それがはじめての出会い? ……じゃあ、どうして好きになったの?」
明良は、ちょっと考え込む。
記憶を探りながらゆっくりと自分の気持ちを確かめるように答えた。
「洗濯ものを渡して、ありがとう、と微笑む顔が綺麗だった。
荷物を受け取る指先が綺麗な形をしているな、と思った。
傍に寄るとなんだかいいにおいがした。
洗濯籠の中にあった自分のパンティを見つけて『あなたが洗ったんじゃないですわよね?!』と真っ赤になりながらこっちを睨みつけるのが可愛かった」
明良はそこまで言い募ってから、がしがしと頭を掻いた。
「いや……多分全部違うな。
さっきのは好きになった事を自覚してからの後付の理由さ。
いつ好きになったのかなんて全然分からない。
でもあの人の笑顔が頭から離れなくなって……それで……」
明良はそこで言葉を詰まらせた。目元を押さえる。
笑顔が頭から離れなくなって。
それで我慢できなくなって告白して――もうその恋が終わっていることに思い至り、言葉を失ったのだった。
かわいそう。薫はそう思った。
傍に擦り寄り、頭を明良に寄せる。
不思議な気持ちだった。
恋のきっかけを話し始める明良の言葉に、薫はぐるぐるする胸のうちを自覚した。
なんだろう、これ。
友達の恋の始まりを聞いているだけでこんなに嫌な気持ちになるのだろう。
何気ないきっかけで恋に落ちたのは分かる。
けど自分だって長いあいだ一緒に暮らしてきたはずだ。
薫は思い起こす。
『いや、俺は薫の事好きだよ?』という言葉。
それを聞いた時のふわふわするような多幸感。
そして絢華の祖父から彼女が明良の事を好いていると聞かされた時の激しい危機感。
本当は信じ込みたかった。
あの時明良が言った、『好きだよ』という言葉は本物であったのだと。
けれども、間近で明良が絢華に対する気持ちを語るときの顔は、恋心の全てを吹っ切ったものではない。
アプリケーションで確かめるまでもない。明良はまだ絢華の事が好きだった。
だから、薫は自分の幸せな勘違いを葬るために言う。
「でも安心して、明良」
「ん?」
「恋人として、慰めてあげよう」
「……えっ? いつ俺たちそういう関係になったっけ」
薫は俯いて唇を噛み締めた。声にならない嘆息を噛み殺し、心の中で呟く。
……ああ、やっぱり。
胸の中の心臓がしわくちゃに折りたたまれたようなくるおしさ。
「……薫?」
「……明良のいじわるっ!」
「なんだと?!」
明良は愕然とした様子で叫んだ。
なんの実験だろうかと思いつつ、失恋した相手との思い出を話してどうして責められなければならないのだろう、と。
だけども、薫は明良を睨む。
いつもの綺麗な薫の眼差しが、耐え難い悲しみをたたえていることに気づき、明良は言葉を失った。
自分は何も悪いことはしていないはずである。
けれども、自分が何か彼女を傷つけたのではないかと、言いようのない不安に駆られる。
「薫…………お前にいじわるをしたつもりはなかったんだ。
お前を傷つけるようなことをしたかったんじゃないんだ」
薫はぶんぶんと首を横に振った。
自分の勘違いで、明良は自分の事を好きだと勝手に思い込んで。
その勘違いに気づいて、甘い夢が本物であったと信じ込みたくて。
そして、今夢から醒めただけなのだ。
だから誰も悪くはない。
「……違う、明良は悪くない。……悪いのはわたし。
ありがとう、参考になった」
「え? ああ……これって結局なんの実験だったのさ」
薫は言葉を詰まらせる。そういえば実験に付き合ってもらうという意味で会話をもちかけたのだった。
上手い誤魔化しの言葉、それらしいもっともな嘘。
彼女の本来の英明な知性ならいくらでもごまかしの言葉が沸いてでたはずだったけど。
この胸の苦しさや悲しみを、別な言葉で誤魔化すのがなんだかもったいなくて。
「……失……恋の確認実験」
「え?」
明良が聞き返す言葉は薫の耳に入ることはなかった。
そのまま足早に駆け出し、薫は気づくと荒々しく呼吸を繰り返してへたり込んでいた。
はぁ、はぁ、と息を吸ってはいて。気づけば彼女は、自分のスマホを取り出して、アプリを起動させる。
さっき撮影した明良の顔を解析させる。
そして映し出された結果に、やっぱり、と呟いた。
『失意。失恋した悲しみから立ち直ろうとしています』
「……へぇ、良くできてるな、それ」
「はひぃ?!」
いきなり頭上から聞こえてくる、聞き覚えのある声に思わず薫は裏返った悲鳴を上げた。
「い、いつから?!」
「俺の名は七瀬淳一。空気読んで会話に絡まず、適当にぶらぶらその辺をうろついていた男だ!」
なんだか妙に格好いい名乗りを上げる淳一に、薫は目を白黒させた。
という事は、彼は割と最初のほうから明良と薫の二人に気を利かせて話しかけなかったのだろうか。
どうしてこれで彼女が出来ないのだろうと思えるイケメンである。
「で、結局目的はなんだったのよ」
「……読心アプリの実験」
ぷい、と頬を膨らませてそっぽをむく薫。
言葉や立ち振る舞いの全てから、これ以上の会話を拒絶する気持ちを滲ませる。
だが、そんな彼女の気持ちを無視して淳一は言う。
「お前、その写真に写った明良と同じ顔をしてるぞ」
「……ッ……」
薫は思わず自分のスマホのはじきだした分析結果を見直す。
『失意。失恋した悲しみから立ち直ろうとしています』と表示されている文字を見つめた。
「……わたし、この明良と同じ感じの顔してる?」
淳一はこくりと頷いた。
「俺としちゃ……お前がいつ明良の奴に告白するのかと横でじっと見守っていたんだがなぁ」
「あ、明良にっ?! で、でも明良は……!!」
「今アイツ、フラレタ直後だから、口説けばすぐに落ちるぞ?」
そうだ。
重要な事を忘れていた。物語やらなにやらでも、失恋した直後の人は誰かの優しさにころりと参ってしまうという。
だけれども、一瞬心の中に禁忌が湧き上がった。
淳一がそう言うのは無理もない。彼もまた明良は絢華に振られたと思っているからだ。
けど薫は、絢華が明良に一目惚れしたことを知っている。
どうしよう、と思った。
絢華は確かに思わぬところでヘタレでちょっとイラッとするところだってあるけど、根はとてもいい奴だ。
そんな彼女の好きになった子を横合いから奪い取る?
けれども、と胸の中で理性ではない激しい反発が湧き上がる。
好きになった順番で恋を諦めていいのだろうか?
先ほど明良の見せていた慕情の向かう先が自分であった場合を想像して、身もだえするような喜びが心に溢れかえる。
薫はスマホで自撮りし、アプリで分析にかける。
ちょっとの時間のあと、答えが出た。
『解析結果:恋をしています』
「〜〜〜〜〜〜!!」
薫は、耳まで真っ赤になって、思わず口から溢れ出そうになる羞恥の悲鳴を押し殺した。
その恋愛百面相と言うべき彼女の表情の変化を見守っていた淳一であったが、彼女の反応と診察結果を交互に見つめて、呆れたように言う。
「……まさか、薫。お前今まで自分自身の気持ちにさえ気付いていなかったのか」
淳一は何か疲れたような顔をする。
好き、これがすき。その気持ちなのか。
自分の作ったプログラムに恋心を断定され、羞恥と歓喜と様々な感情にもだえた。
「笑えない……わ、わたし、絢華のこと笑えない!」
「……どういう事なの?」
淳一の声など聞こえない。
絢華の事をヘタレなどと言って悪かった、と薫は思った。
言葉にはし難い喜び。そして恋を失うことに対する耐え難い怯え。
世の男女が恋愛に臆病になるのは当たり前だ。
そんな様子を横で見ていた淳一は、薫が何か大切な宝物に気づいたと悟ったのだろう。
「言わないさ。明良には絶対にな」
「……ん、言わないで。知られたらはずかしくてしんじゃう……」
淳一は、幼馴染の少女の蚊のなくような囁き声に慈父の眼差しを向けると、がんばれよ、と一言を添えてその場を立ち去った。
一人、自分の心を見つめなおす。
どきどき、どきどき。
まるで心臓が耳の隣に引っ越してきたかのように激しい鼓動を感じる。
「明良が好き」
自分の気持ちを口にしてみると、例えようもない甘みが広がるようだった。
だけど、同時に心に広がる危機感。
「そして、絢華も明良が好き」
胸の中にムカムカと敵愾心が積乱雲の如く湧き上がる。
あの優しい眼差しを独り占めしたいけども、それを妨げる絢華は友達であったが、同時に敵でもあった。
幸い絢華は自分が明良の事を好きだという確証は持っていない。
この立場を利用すれば、ずるく立ち回ることができるだろう。
けども、それはイヤだ。
そうしてずるく立ち回り、恋を叶えたとしても、それは輝かない。
薫は恋に疎かったけど、ここでずるく立ち回ったらずっと後悔することを少女の本能で悟っていた。
だから堂々と宣戦布告するべく、絢華の待つ敷地内のお屋敷の扉を勢いよくあける。
部屋に戻れば、薫の到来に絢華が目を輝かせて立ち上がった。
「ああ! 薫、待っていましたわ! それで結果はどうだったんですのっ?!」
「絢華」
「ええ、わたくしの親友の薫っ!」
「ちがう、絢華は親友ではない」
「えええええぇぇ?! ちょっと本気でショックですわよそれ!!」
「私は絢華の敵、恋敵、明良は私が貰う」
突然のライバル宣言に、絢華お嬢様は膝から崩れ落ちた。
「え? ……あれ? なんでそうなるんですのよー!!」
「お嬢様……だから、さっさと告白するべきだと」
薫は、ほんの少し申し訳なさそうな顔をしたが、発言を取り消すことはなかった。
つかつかと部屋から出ていく。
その背中をショックを受けた様子で見送る絢華お嬢様。
薫の眼に灯る本気の色に、ライバルが増えてしまったことを悟るのみである。
「おかしいですわ……恋の架け橋を頼んだら、恋の架け橋の所有権を取られた気分ですわ」
「致し方ない事かと。やはり恋愛は巧遅ではなく拙速です」
花蓮の言葉は相変わらずクールで容赦がありませんわ……と項垂れる絢華であったけど、スマホの着信音に気づき、首を傾げる。
送信者は今しがた去っていった薫本人から。
恋敵になった直後になんですのよ……と思いながらメールを開けば、中身は画像。
絢華は、小さく苦笑を浮かべた。
「……でも、こういうところは律儀なんですのよねぇ」
写っているのは、明良の写真。
思えば初めて手に入れる、思い人の写真。
あの時頼んだ、明良が絢華の事をどう思っているのかという答えは得られなかったけど、彼の写真が手に入ったのは嬉しい。
画像にキスを落とし、だらしない笑顔になる絢華。
こうして絢華お嬢様はスマホの待ちうけ写真を更新したのであった。