これをタダの抱擁と思ったのかよ!
七瀬淳一は言葉を続ける。
「正直。おかしな点はいくつか存在していた。
前、お前が教室で明良の奴に顔を近づけていた時、絢華さんは驚きを浮かべ、教室の中に来た。
おかしいよな。告白して振った相手が口付けしているのを見ても『ああ、新しい恋を見つけたのね、頑張って』と応援こそすれ、わざわざ近づく理由もない。
明良の奴、人を見る目はある。無意味に人を傷つける毒悪な性根の人を好く趣味はもってはいないだろうし、今回の護衛の話も妙だった。
だが……西園寺さんが明良の奴に好意を持ってるなら全てすんなりと説明が付く」
「ううっ……」
薫は旧来の友人の言葉に誤魔化す言葉など一言も出てこなかった。
そしてその三秒後に誤魔化す必要もないし、別にいいか、とあっさり友人の恥ずかしい秘密を明かす方向に決める。
明良本人に明かすのは駄目だが、その周りの友人に明かすならば別に良いかと考え直すことにした。
そんな二人を背景にしながら、明良は昔と同じように頭を撫でてやる。今や明良のほうが背丈が低くなったけど、美千穂の心は前と変わらず甘えたがりなのか、撫でられて怒る様子もなく、嬉しげに微笑んでいる。
「でも、急だったな。もっと早く知っていたら、ちゃんと歓迎できたんだが」
「その気持ちだけで十分っす、明良兄ちゃん」
祖父の修行を一時中断してこちらに来た久しぶりの幼馴染に明良は相好を綻ばせる。
そのままぎゅーっと抱きつく美千穂。
彼女は、でれーっとだらしない顔を浮かべていたが、明良は気付いた様子もなく、慈父の笑顔で、髪を撫でてやっていた。
「……」
面白くない。
天羽薫は全く面白くなかった。
妹分の特権といわんばかりに遠慮なくくっ付いて甘える美千穂に嫉妬しつつ、薫はスマホを取り出した。
自作した『読心アプリ』を起動させ、明良と美千穂の顔を画面に納めてボタンを押す。
ぱしゃり、と撮影の音が鳴り響き、早速アプリが二人の思考を表示する。
明良のほうは『家族愛。相手の事を大事な兄弟、姉妹のように思っています』と表示された。
妥当な反応である。
薫は安堵した。明良が美千穂に向ける感情はあくまで庇護欲に似たものなのだろう。
だが油断はすまい。美千穂のあの熟れすぎた肢体を思うと、そのうちちょっとエッチな気持ちが混ざらないとは限らない。
だが、次が不味かった。
薫はそのまま視線を横にやって、美千穂が明良に向ける感情を確かめる。
恐ろしいことに美千穂のほうの診察結果は『性愛。たいへんエッチな事を考えています。警察を呼びましょう』と表示されたのだ。
薫が視線を向ければ、美千穂は、えへへ、と笑いながら、ぎゅうぎゅうと身を摺り寄せている。明良が困ったように声を掛けた。
「こら、くすぐったい」
なんだか美千穂の眼がとろんとして、熱っぽく潤ませたまま見つめている。
明良はその目に浮かぶ欲情の色に気づきもせず困ったようにしていた。
「……どうしよう」
「……それを……それを俺に聞くな」
薫の独白に、後ろからスマホの内容を覗き見していた淳一が答えつつ……がっくりと膝をついた。
彼は確かに親友である明良が妹を貰ってくれればいいなぁ、とは思っていた。
しかし妹が親友に対して性欲を持っている証拠を突きつけられたのである。
しりたくなかった!
妹が警察の出動が必要なレベルの性欲を親友に向けていただなんて!
しかもなまじ祖父に鍛えこまれているため、その気になった美千穂を止める手段は皆無!
そんな風に恐れおののく淳一であったが、考えるより行動と、薫は一歩進んで声を掛けた。
「み、美千穂。いくら仲が良いといっても、年頃の男女が引っ付き続けるのはよくない。少し離れるべき」
「む、それもそうだ。ほら、美千穂ちゃん。離れて?」
「ううぅ。了解っす」
ほんのちょっと不満そうにしていたけども、元々素直で良い子な美千穂は唇を尖らせながら身を離した。ごめん、ありがとうと言いたげな視線が明良から薫に向く。
けれども……美千穂はなんだか悩ましげに唇をきゅっと結び、くなくなと形良く引き締まった太ももを擦りあわせる。熱っぽい眼差しを明良に向けた後、口を開いた、
「ううん……ごめんなさい、ちょっと失礼するんすよ」
美千穂はそういうと、年上の兄ちゃん姉ちゃんである三人にぺこりと頭を下げて駆け出した。
向かう先は女子トイレ。
そして出てきた美千穂はなにやら欲求の解消されたような爽やかな表情で女子トイレから出てきた。
薫は超嫌な予感のまま、再びカメラを美千穂に向けて、読心アプリを使った。ぱしゃり、と撮影の音がする。
『欲求が解消された事により、すっきりしています』
薫は、相変わらずのクールな表情のまま……首から下を驚愕に振るわせた。
ちょっと待って欲しい。
先ほどまで明良に対して性欲の視線を向けていた美千穂が、このほんのちょっとの時間の間にどうして欲求が解消された事によりすっきりした顔をしているのだ?!
明良に抱きついて興奮して、そして辛抱ならずにトイレに行って……何があったのだ?!
いや、そんな訳がない!
薫は首をぶんぶんと振った。
美千穂はきっと、もよおしたのでトイレに行っただけであり、むにゃむにゃな事をしてすっきりしたわけではないのだ!
「なんだ、薫。いきなり人の妹の写真を取って。……ぐわー!!」
後ろから覗き見た淳一が撮影で出てきた分析結果を見て驚愕の悲鳴を上げる。無理もないが。
「なんだ二人とも。美千穂ちゃんの顔を写真にとって何で奇声をあげるんだよ」
「そうっすよ、淳一兄ちゃん。久しぶりに妹に会ったのに薫姉ちゃんと一緒に変なことして。
写真ぐらいとって良いんすけども……何があったんすか?」
明良と美千穂は二人仲良く幼馴染二人の奇声に首を傾げて疑問符を浮かべる。
可愛らしく小首を傾げて進み出て、写真を見せてもらおうとした美千穂に淳一が前に進み出る。両手を広げて行く手を阻んだ。
「待て美千穂、見てはいけない! 俺は兄貴として可愛い妹を守らなきゃならないんだ!」
「なんで自分の顔を撮った写真で、そんなに必死な顔をするんすか淳一兄ちゃん!?」
「理由は言えん、言えんのだ!」
「逆に興味が沸いたっす! きっと撮影したお顔に面白いデコレーションするへんてこなアプリとかっすね?!」
薫は命に代えても分析結果を知らせる訳にはいかなかった。
世の中には知らないほうが幸せな事もあるのだ。知るべきではない人の心があるのだ。
兄である淳一にフェイントを絡め、動きに緩急をつけて進路妨害を突破しようとする。元より膂力では天凛のある美千穂、業を煮やして力で突破しようとすればそれを阻めまい。
明良のほうも、何が何だかよく分かってないので見守る以上の事は期待できない。
薫は叫んだ。
「ち、違うっ! 何も面白いことなんか撮影してない!
これは単に相手の表情から思考を推測するだけのアプリ!」
思わず本当の事を言うけれどもそこから先が続かない。
しかし美千穂はその言葉の意味を別な意味と取ったのか、狼狽したように顔を赤らめる。
「な、なんすか?! すると自分の……気持ちとかそういうのも分かるんすか?! 自分が明良兄ちゃんの事好きなのも全部?!」
「妹よ……自分で暴露してどうする」
「あううっ」
淳一の言葉に美千穂は顔を真っ赤にして……そんな彼女の肩を、明良は軽く叩いた。
「別に隠す事じゃあるまい。俺も美千穂ちゃんの事は好きだよ」
その言葉に美千穂は照れくさそうに俯いた。
淳一は美千穂に近づき、耳元に囁くように語りかける。
「安心しろ。美千穂。……お前の本心は分かってる。明良の奴は……見たところまだ妹分に対する好意だが、まだまだ目はあるぞ?」
「じゅ、淳一兄ちゃん……」
焦ったような上ずった声の妹に淳一は笑った。
子供の頃、生まれ持った膂力のせいで他人に触れ合うのが怖くて仕方なかった妹。誰かに遠慮していた彼女が人を好きになった事は、その幸せを願う兄にとってはとても喜ばしかった。
苦笑を含めて言う。
「ただ……さっきみたいに明良に抱きついた時のあのだらしない表情は、二人きりの時にしておけ。デレデレしすぎて見ちゃいられなかったぞ」
「じゅ……淳一兄ちゃん(照れ)」
薫の読心アプリが正しければ、その時の美千穂の頭は性欲で一杯だったはず。
それを思い出して恥らうような声が呻きのようにこぼれた。
淳一は、優しく笑いながら言った。
「お前が明良に抱きついて興奮して、さっきトイレでバキューンしていたのも、安心しろ、黙っといてやるよ」
「……淳一兄ちゃん(殺)」
美千穂は能面のような無表情を浮かべてから兄の背に両手を回し、そっと殺意を込めて抱き締めた。
淳一は殺意に気づかず照れくさそうに笑いながら答えた。
「お? どうしたんだ、美千穂。いきなり俺の胴に手を巻きつけて。兄妹同士のスキンシップのハグでもちょっと照れくさいなぁああああぁぁぁって妹とのスキンシップが胸が当たるのと締め付けられるのとで痛気持ちいいいいぃぃいややっぱり痛てええええぇぇぇぇぇぇぇっぇぇぇ!!」
めきめきめきめき。
抱き締められ、両腕が背中に食い込むと共に骨が軋むような音が鳴り響く。
デリカシーのない兄の発言に怒った妹の、親愛のハグの皮を被った殺人ベアハッグに淳一は、ぎゃあああぁぁぁぁぁと臆面もなく悲鳴を上げて。
薫は、自分もデリカシーのない発言をしたら、へし折られたかも知れぬと顔を青褪めさせ、人の心を読むのはやはり駄目だと再確認し。
……美千穂がやってきてその日のうちに、親愛の感情たっぷりのハグの皮を被ったベアバックを受けた明良は、今度はお前が犠牲になる番だったか、と新たな犠牲者の誕生に微笑んだ。
「二人は仲良いなぁ」
「うん……うん?」
薫は盛大に首を捻った。どう見ても肋骨をへし折られる加害者と犠牲者の図にしか見えない。
仲良きことは美しきかな、と締めるには淳一の悲鳴が多少やかましいけれども、明良は思う。
美千穂が抱きつけるのは、その人が絶対に自分を嫌わないと確信しているからだ。
「薫も、さっき美千穂ちゃんに抱き締められていたし」
「巨乳に窒息させられるかと思った」
薫は顔を顰めて呟く。
男にとっては天国のような状況だったかも知れないが、女性であり、そのうえ自分には存在しない豊満さを押し付けられれば、持たざるものとしてなんだかムッとせざるを得ない。
そういいつつも、薫は先ほど撮影した画像の全てを削除する。
スマホの電源を落とし、明良と共に肋骨から骨の軋む音を響かせる兄と妹の親愛なる姿を見つめ、そして妹分を呼んだ。
「美千穂。こっちにおいで」
「うわぁん、薫お姉ちゃんっ! 淳一兄ちゃんがセクハラっす!」
飛びつく大型犬のように甘えたがりの美千穂は、〆ていた兄を解放し、そのまま薫の胸元へ抱きつく。
薫としては良心から淳一を庇った。
何せ彼が妹にささやいたであろう一言は、すべて自分の開発した発明品による解析結果だからだ。申し訳ない! と美千穂は淳一に頭を下げれば……妹のベアハッグから解放された淳一は、苦痛に歪む顔に無理に笑顔を浮かべて親指立てて笑って見せた。
男前である。あとで何か奢ろうと薫は思った。
そして妹分の大きな外見とは裏腹な幼い振る舞いに薫は、僅かに微笑んで、抱き締めるのだった。