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唇を洗って待っていろ!

 その時だった。

 ドッダッダッダッと、筋骨逞しくしなやかな肉食獣の疾走めいた足音が廊下を走りぬけ、いきなり弾丸のような勢いで室内に飛び込んでくる。

 明良は一瞬躊躇した。

 確かに今は絢華さんの護衛を頼まれてここにいる。

 もしやすると敵がいるのかも知れないと心の中で覚悟はしていた。

 けれども、絢華さんを組み伏せているこの状況を思えば、自分が不埒モノとして認識されても仕方ないのではないか? と思ったのである。

 乱入者にとっては間合いをつめるにはそれで十分だった。

 

「だめっす~!!」


 元気一杯の女性の、制止の声に明良は驚きと懐かしみを覚えつつも――飛び込んできた乱入者によってベッドに倒される格好になる。


(きゃー! 近いですわ近いですわ明良くん近いですわきゃー!)


 これで嬉し恥ずかしな目にあったのは絢華である。

 彼女は興奮と慕情でもう明良の姿しか見えていなかったし、なんだか『いけない子だ? 可愛がってやる?』とさえ声を掛けてもらっていた。

 なんで疑問符が混ざっているのか、そんな考えは頭の中から一瞬で消え去り、過度の緊張と興奮でこわばってしまう。

 それを見た明良は唇を噛み締めた。

 相手が、恋が叶う喜びと緊張で身をこわばらせているのではなく、嫌悪から緊張しているのだと思ったのだ。

 だが、今はそっちの対応ではない。


「ちょ、こら、はなせっ!」

「ふぅふぅ……明良にいちゃん、夜這いとか駄目っす」


 顔が近い顔が近い凄く困る。

 想い人である絢華と密着していることも、明良の興奮を誘っていたが、それと同時に後ろからやってきた乱入者の手つきがどうにも艶かしくて困ったのだ。

 具体的に言うと、豊満だった。

 後ろから抱き着いて胸に手を回して自分の体をまさぐっている。

だが困ったことに後ろから密着しているために、打撃のための距離を稼げない。

 明良は密着状態でも間接を連動させて威力を発する技を習得していた。腹筋で人を殴る手段など普通の人は聞いた事もないだろうが、こういう事態にも備えて師である一徹老人から教えられている。

 が、相手もその密着の姿勢から放つ打撃の可能性を熟知しているのか、その知識を大いに生かしてセクハラにいそしんでいる。

 やけに柔らかい太ももを足に絡ませる相手に明良は思った。


(なんだよこの状況!

 なんで好きな人の前でどっかの女に抱きつかれてるシーンを見られなきゃならんのだ!)


 先ほどまでの夢うつつの状態はとても幸せだったのに、今ではわけが分からない。

 思わず苛立ち混じりに振り向き……月光が照らした潤んだ瞳に記憶が呼び起こされる。

 

「……美千穂ちゃん?」

「明良兄ちゃん……えへへ、明良兄ちゃん」

 

 ようやく話せる状態になったのか、彼女はがっちりと捕らえて離さなかった五指を緩めて身を引いた。

 相手は長身の美少女。

 ペタンとベッドの上に女の子すわりしているのに、はっきりと背が高いという事が分かる。

 明良は男性としては結構背が高いほうではあるけど、彼女はそんな明良よりもまだ頭ひとつ分ほど背が高い。

 服の上からでもはっきりと分かるスタイルの良さ。蜂のようにくびれた腰。

 その長身のモデルみたいな豊満な体の上に載っているのは――まだ幼さの残るあどけない顔で。薄暗い部屋の中でもはっきり分かるぐらい、明良のほうに好意の視線を向けていた。

 まるで主人の事が好きで好きでたまらない大型犬のようである。


「七瀬美千穂様。いきなり向かわれては困ります」

「はぅ、ごめんなさいっす、花蓮さん」


 メイドの花蓮の声と共に、室内灯のあかりが灯る。

 そしてしゅんと項垂れた大型犬のように申し訳なさそうにする――美千穂と呼ばれた彼女が頭を下げた。

 どうやらメイドの彼女が電話越しに応対していた相手は美千穂だったのだろう。

 流石にいきなり室内に押し入って明良を押し倒したのはまずいと思ったのか、しょんぼりする。


「美千穂ちゃん、美千穂ちゃんか、大きくなったな。最初はちょっと分からなかったよ」

「明良兄ちゃんもお久しぶりっすッ!」


 最初はそうにっこにことお日様のように満面の笑顔を見せていた彼女であったが、不意にいやな事を思い出したように眉をひそめる。


「それにしても到着した瞬間、いきなりこんな事になるなんて思わなかったっす。

 部屋の中から確かに聞こえたっす! 『いい子だ、優しくしてやるぜ、うへへへへ』って! 絢華さんの貞操の危機だと思って急いだっす!」

「そこまで積極的な台詞は言ってないし! うへへとか言ってない!」

「今こそ夜這いされる絢華さんの変わりに忍法身代わりの術を使うべきときかと!」

「変わり身の術じゃなくて身代わりの術かよ! それだと美千穂ちゃんが悪漢の毒牙にかかる展開だろうが、もっと自分を大切にしなさい!」

「護衛対象である絢華さんに降りかかる、ちょっとアダルトなイベントの全ては自分が変わりに受け止めるっす! これで雇い主さんも安心!」

「そんなイベントは起きてない!」


 明良は怒った。ここで黙っていたら性犯罪者扱いになるのでかなり必死な感じの叫びだった。

 次いで、電話越しに美千穂に誤解をさせた台詞を言わせた花蓮に視線を向ける。


「ま、まぁ……間一髪だったようですので不問にしましょうかそれよりもです」


 明良の何か問いたげなジト目に花蓮は目を背けて焦ったようなごまかしの台詞を飛ばす。

 自分の事を振った相手にどうしてこんな台詞を言わせるのだろうか。


「花蓮先輩に対する好感度が下がった」

「ううっ?!」


 明良からの電話を受けた時、花蓮はテンションアゲアゲであった。

 あのヘタレ主人が! 夜這いだと!

 やっと行動できるようになったのか、と花蓮はその時感動さえ覚えていた。

そのまま大人の階段を上ってしまえば、見ているだけでイライラする主人からようやく解放される。

 西園寺の総帥である絢華のジジイからは色々問い詰められそうな気もしたが、そもそも同年代の男女を同じ屋根の下に住まわせる時点で予測された不測の事態というやつだ。

 だからこそ……もしもの時の為にこっそりと絢華にはスゴいネグリジェを着せてやったし、電話越しに後押しだってした。

 予想外なのは……ベッドのへりに腰掛けて、あどけない子供のように首をかしげている美千穂の事だ。

 まさか……今から大人の階段を昇ろうとする二人の蜜月を邪魔するほど空気読めないとは。

 もちろん、花蓮のそんな考えなど八つ当たりに等しい。

 普通は、知り合いの不純異性交遊は止めるのが学生の良識である。


 もちろんそんな良識などどこか遠くに投げ捨てた石水花蓮は珍しく表情を歪めた。

 誤魔化さねば、花蓮は思う。

 パンツを洗わせたり、服を着せ替えたり、電話越しにけしかけたりと色々やりたい放題の悪辣メイドも、もしこの事が西園寺の偉い人にバレたらまずい。

 いや、正直このヘタレお嬢様である西園寺絢華の担当を外れるならそれはそれで歓迎すべきこと。

しかしお給料は下げられたくない!


 だから、花蓮は主人の絢華に説明しようとする。

 

「こちらの七瀬美千穂様は、陽世くんと同門の方で応援として駆けつけてくださったそうでして……あの、お嬢様?」


 と……そこまで言ってから……明良は、先ほどから絢華が一言も喋っていないことに気づいた。

 全員の視線が、ベッドの上で横になったままの絢華に集中する。

 見れば……絢華は目をつむり、ベッドのシーツをぎゅっと握り締めて緊張と興奮のままじっと待っていた。

 先ほど美千穂に後ろから押されて、吐息が触れるほどに接近した明良。

 その顔が余りにも近くに来たから、絢華はきっとこれからキスされるのだと思って待っていたのだ。

 目を閉じ、形良い唇を突き出すような姿勢。接吻を待つ眠り姫のようにじっと待っていた。


(キスですわ、キスされるんですわ、薫さんと同じように)


 目を閉じて意識するのは、教室で見た親友と明良の様子。

 思い出すだけで心がしわくちゃに折りたたまれたような無残な心情になる。

 けれど、今から口づけを受けるのだと思うと幸福感で胸が溢れそうになる。


 ……だが、じっと待っているのに……なかなか唇に幸せな感触が触れない。

 遅い。

 待っているのに、早くしてほしいのに、今だって頭の中が熱暴走気味なのに。これ以上焦らされたら心臓が爆発しそうなのに。


(……おかしいですわ、さっきから全然触れてくれる様子もないですわ)


 そう思ってちらり、とうっすら目を開くと。

 明良と、花蓮と、そして見知らぬ女の子が……唇を、んー♪ と突き出して口づけを待つ絢華に注目していた。


 あれ。


 絢華は全員に接吻を待つ恥ずかしい姿を見られたことに気づき。


 パンツを洗われた時と同じように、羞恥心が限界を突破してまた、気絶した。

 無理もないが。


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