第三章 赤銅の鉤爪
パリンッ、という乾いた音が耳に届いた。その音で、僕は薄く目を開ける。
異様な空気が、薄暗い病室に漂っていた。
張りつめた、殺気のような気配。
どこか懐かしい感覚の中、聞こえたのは、荒い息遣い。――血に飢えた獣の声。
体を起こさず、視線だけ右に傾ける。視界の端で、窓が開いているのか、白いカーテンが揺れる。
――そこにいたモノに、僕の目は釘付けになった。
姿形は人のようだ。しかし、同時に全く違うものだと気が付く。
まず、背丈が異常に高い。横になっているせいでわかりにくいが、軽く二メートルは超えているだろう。
次に、燃えるような紅い瞳。それは最早、人間のものとは思えない。全てを飲み込む狂気を孕んだ色だ。
そのこげ茶色の髪は、まるで鋼鉄のような光沢を帯び、鋭く尖っている。顔全体を覆っているそれは、髪というより獣の体毛のようだった。
ぞっとするほど紅い瞳が、ギロリと僕を射る。逃げられないと、直感的に感じた。
短剣のような鉤爪が振り上げられる。僕はきつく目を閉じ、反射的に左腕を上げた。
響くはずのない、甲高い金属音。
驚いて目を開けると、赤銅色の何かが見えた。ちょうど眼前の怪物の鉤爪のような、金属質な何か。
「うわあああああっ!?」
思わず情けない悲鳴を上げる。それも仕方ないだろう。左腕が赤銅色に染まり、巨大な鉤爪のようなものに変化していたのだから。
全く状況が理解できない。ただ、左腕がズキズキと痛んでいる。これは夢ではなく、紛れもない現実のようだ。
グルル、と怪物が呻き声を漏らした。紅の目を細め、心電図モニターを薙ぎ倒しながら後退する。
僕は動きにくい体を素早く起こし、肩で大きく息を吐いた。正直、まだ心臓が早鐘を打っている。何が起きているのかは分からないが、とにかく目の前の怪物をどうにかしなければやられてしまうということは理解できた。
――どうにかって、どうするんだ?
そんな当たり前の問いの答えすら分からない。唯一使えそうなのは、この変形した腕だろうか。そう思っても、もちろん使い方など分かるはずがない。
「グガアアアァァァァ――――――――ッ!!!」
野太い咆哮を響かせ、怪物が突っ込んでくる。迷っている暇はどう考えてもなかった。
「わあああああ!!」
ただ闇雲に左腕を振り回す。甲高い金属が耳をつんざき、僕はきつく目を閉じた。
……どのくらい、時間が経ったのだろう。
はっと我に返り、静寂に包まれた病室を見回す。それと同時に、背筋に悪寒が走った。
辺りは、白かったはずの病室は、得体の知れない青い液体がぶちまけられていた。その中心に横たわっているのは、こげ茶だった髪を青に染めた怪物だ。
ぴちゃり、と水が滴るような音が手元から聞こえ、僕は恐る恐る自分の左腕に目を向けた。
元の大きさと形に戻っていた腕には、青い液体がべっとりとついている。それはまだ乾いておらず、病室の青い水たまりに雫を注いでいた。
呼吸が荒い、息が上手く吸えない。大きく目を見開き、過呼吸のように空気を貪る。
目を離したいのに、体は石にでもなったかのように言うことを聞かなかった。左腕に痛みはなく、気味の悪い感触だけがやけに鮮明だった。
怪物はピクリとも動かない。青い液体と一体化して、壮大なオブジェのようだ。
理解できない。いや、理解したくなかった。それでも、脳は勝手に状況を分析し、僕は理解してしまった。
――僕が、殺した。
証拠は十分過ぎるほどある。否定する方が難しい。
吐き気を催す、むせ返るようなにおいをようやく知覚し、僕は堪えきれず胃の中のものを全てぶちまけた。それすらも青色に染められていき、その光景が再度吐き気を誘う。
どうして、こんなことになったのだろう。僕は普通に生きてきたはずなのに。
訳が分からず、涙がボロボロとこぼれ落ちた。脳の奥が焼けるように痛み、滲む視界が白に塗り潰されていく。
処理能力を遥かに凌駕した状況のせいか、遂に脳が役割を放棄した。頭が割れそうな痛みに襲われながら、僕はそっと意識を手放した。