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モノクロ  作者: 月河聡音
少女の瞳に映るモノ
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第二章 加速する怪物

何かに呼ばれた気がして、僕はゆっくりと目を開けた。

辺りは既に明るい。今日は何も夢を見なかった。久しぶりに目覚めがいい。

恐る恐る体を起こすと、布団の上にポタポタと水滴が落ちた。驚いて目をこすってみると、涙で濡れている。泣いていたようだ。

叫んで目覚めるということは無かったものの、泣いて目覚めるのも大差が無い気がする。

涙を拭い、左の袖をそっと捲り上げた。

昨日と同じように、赤い痣はそこにあった。しかし、少し広がっている。赤い――紅い痣。

少し気味悪く思うと同時に、今は少し愛おしくも思える。

「……母さん」

顔も思い出せない母親のことを思う。

恋しいわけではない。同じだったというだけで、何か繋がっているように思えただけだ。

この痣が一体何なのか、どうしてできたのか――まだ何もわからない。

それに――あの少女のことも気になる。彼女は、一体何者なのだろう。僕のことを知っているような口ぶりだったが、僕には全く覚えがない。そもそも、彼女は本当に存在する人間なのだろうか。自分の思考が信じられなくなってきた。

再び白い布団の中に潜り込む。途端、焼きごてを押し付けられたように痣が痛み出した。

「……っ……!」

声を押し殺し、激痛に耐える。視界に赤い星がチカチカと瞬き、ぼやけていく。

「……がっ、ああああああ……!!」

耐えきれずに叫び声が迸った。痣の下で何か得体の知れないモノが動き回っているようだ。


「……――ですか!? イゼルさんっ!? 大丈夫ですかっ!? 返事をしてくださいっ!?」

――遠くで、若い女性の声がする。

「……ぁっ……」

かすれた、自分の声。視界が少しずつはっきりとしてくる。

必死な顔をした看護婦が、僕の顔を覗き込んでいた。呼吸はまだ苦しい。

左腕は、感覚がなかった。痛みも、もうない。

「……よかった……。一瞬、心臓が止まっていたんです。退院は延期になるかもしれません」

心の底からの安堵の表情を浮かべた看護婦は、左腕を一瞥して言った。その表情は既に険しい。

しかし、それを気にする余裕はなかった。

左腕の感覚が少しずつ戻ってくる。それと共に、ズキズキという痛みも感じる。先程よりはマシだが、痛みは引きそうにない。

左腕の状態を見る勇気はなかった。痣はもっと広がっているだろう。痛む範囲が広くなっている気がする。

母の痣も広がっていったのだろうか。こんな風に痛んだのだろうか。

――母は僕を見て、どう思ったのだろうか。

……わからない。熱に浮かされたような思考では、何もわからない。

「……延期、ですか……」

ようやく声を絞り出す。看護婦は気遣うような目で僕を見ていた。

「あくまで、可能性ですが。でも……今のままだと退院は難しいですね」

看護婦の声が沈む。そんなに悪化したのだろうか。

そっと、左腕に目を向ける。すぐに逸らそうと思っていたのに、できなかった。あまりにも衝撃的過ぎた。

服の袖に隠れていない部分が全て赤く染まっていた。

慌てて袖を捲り上げると、左腕全体が赤色だった。血で染めたかのような、鮮やかで不吉な紅。

思わず鋭く息を吸い込んだ。左腕に力が入らない。

――怖い。

この痣に、初めて恐怖を抱いた。自分が自分じゃなくなる恐怖。

これは、病気などという生易しいものではない。怪物だ。僕という存在を喰らい尽くすバケモノ。

理屈なんか必要ない。本能がそう訴えている。

それに喰らい尽くされれば、僕という存在までもバケモノになってしまう。

「……あ、あの……」

見兼ねたように看護婦が声をかけてくるが、それを遮る。

「……すみません。今は一人にしてください」

今僕は、どんな表情をしているのだろう。

看護婦はそれ以上何も言わず、ただ頷いて病室を去っていった。

一人になった途端、先程に倍するほどの恐怖が押し寄せてきた。

死ぬのが怖くないという訳ではない。死ぬのはもちろん怖い。だがそれ以上に、自分という存在が消えてしまう方が怖い。

――僕は、どうなってしまうのだろう。

胸中に渦巻くのは不安と恐怖だけ。僕は本当に臆病者だ。

その時、脳裏にあの白髪の少女の姿が浮かんだ。

この世のものとは思えないほど美しい、空色の瞳。どこか遠い場所を見ているような、透き通る碧眼。

彼女に会いたいと思った。名前も知らない、何者かもわからない少女に、会いたいと思った。

それは甘えなのだろうか。あの少女なら僕をわかってくれるかもしれないという、淡い期待なのだろうか。あるいは――僕が知らないことを知っているかもしれないという怯えなのだろうか。

この時初めて、何も知らないことがどうしようもなく怖いということを知った。

ずっと目を背けてきた事実をいきなり突きつけられた気分だ。僕はずっと逃げてきたのだ、と。

何かを背負うのが怖い。誰かに注目されるのが怖い。何かを失うのが怖い。何かを知るのも、知らないのも怖い。

もう逃げたくはないとは思う。しかし、逃げてばかりいた僕が突然何かを背負える訳がない。僕は逃げることしかできない、弱い人間だ。

弱虫。

臆病者。

卑怯者。

まさにその通りだ。

左手を強く握りしめる。爪が掌にくい込むほど強く。

掌に、薄く血が滲む。僕の無力さを嘲笑うように。

視界が滲んでいく。頬に冷たい涙が滑る。

「……僕は――」

ただ、強くなりたい。何かを背負えるくらい、強い人間になりたい。

左腕が熱を帯びる。同時に意識が遠のいていく。

昏い深淵に飲み込まれていく感覚と共に、僕の意識は途切れた。


***


真っ白い雪の上に、一人の少女が佇んでいる。

年齢は十代半ばほど。艶やかな白髪が腰の辺りまで流れ、極北の深海のような双眸は淀んだ空を映していた。まるで、何かを見出そうとしているかのようだ。

その少女の瞳から、涙がこぼれ落ちた。声も上げず、静かに泣いている。

「……私は、まだ……」

突風に、少女の声がかき消された。長い白髪がさらさらと揺れる。

少女はそのまま雪の上に膝をつき、すすり泣きが風に乗って消えていった。



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