第一章 赤い痣
「……あ、ああああああ……!」
暗い部屋の中に響いた声に、驚いて跳ね起きた。手を濡らす汗を血と勘違いして再度叫びそうになるが、なんとか堪える。
呼吸は荒く、全身汗だくだ。いつもの悪夢のせいだろう。とにかく頭が痛かった。
内容はいつも同じなのに、何度見ても見慣れない。毎朝叫んで目が覚める。
そりゃそうだ。僕だって、人を殺す夢など見たくもない。
ナイフを刺した時の抵抗感と血の生ぬるい感触を思い出し、胃袋の中に何も無いのに吐きそうになる。気分は最悪だった。
汗が気持ち悪いので、体を引きずるようにしてベッドから脱出する。とりあえず着替えよう。
上の服を脱いでみて初めて、左腕に奇妙な赤い痣があることに気がついた。
不気味な赤色だ。血を少し薄めたような、そんな赤。
「イゼル! もう起きているんでしょ! 早く降りてきなさい!!」
一階から母の怒ったような声が聞こえてきたので、痣は一旦おいておき、僕は階段を駆け下りた。
下に降りると、テーブルの上には既に朝食が用意されていた。
「早く食べなさい。学校、遅刻するわよ」
僕の方を見向きもせずに言う。僕と母は、あまり仲が良くない。
「……はい」
逆らうこともなく、素直に従う。これでもまだまともに会話している方だ。
今日の朝食は和食だった。白米に鮭、味噌汁という、実にシンプルなメニューだ。
「……いただきます」
会話のない空間は、恐ろしく居心地が悪かった。ただ黙々と口を動かし、咀嚼しては飲み込んでいく。味はほとんど感じなかった。
その間中ずっと、母はスマホをいじっていた。僕との会話を避けているようにも見えた。
「……ごちそうさまでした」
そうしている間に食事は終わり、僕は席を立つ。異変が起きたのはその時だった。
――ドクンッと、心臓が強く脈打った。
全身から力が抜け、床に崩れ落ちる。何が起こったのか理解する前に、焼け付くような激痛が左腕を襲った。
「あっ…があああああっ……! あ、あああ……っ!」
あまりの痛みに、叫ぶことしかできない。このままのたうち回れれば、どれほど楽だろう。だが、体が痺れたように硬直し、それすらできそうにない。
視界がぼやけていく。あの焼けるような激痛も、少しずつ和らいでいくようだ。
――僕は一体、どうなるのだろう。
頭に浮かんだ問いの答えを考えつく前に、僕の意識は暗闇に沈んでいった。
* * *
どこか知らない場所に、僕は、一人で立っていた。
辺りには誰もいない。目の前には、白い雪が降り積もっているのと、暗い海が広がっているだけだ。
――ここはどこなのだろう。
雪景色のはずなのに、なぜか全く寒さを感じなかった。
記憶の隅の方に、違和感が燻っている。しかし、不思議と不安はない。まるで来るべくして来たような、そんな気分だ。
「――あら、もう来てしまったの」
突然背後で澄んだ声がして、思わず飛び上がりそうになった。
振り返ると、艶やかな白色の髪の少女が、無表情で僕を見ていた。
「き、君は一体……?」
しかし僕の声は、少女に遮られてしまう。
「あなたが知る必要はまだないわ。あなたはまだ、何も知らなくていいの」
「それってどういう……」
少女の透き通るような碧眼に見つめられ、何も言えなくなってしまう。少女は人形のように整った顔立ちをしていた。
「まだここに来るのは早いわ。あなたは何もわかっていない」
穏やかな声だが、妙に迫力がある。
「でも、きっとまたすぐに会うことになるでしょうね。――あなたと私は、似ているから」
少女は、ただまっすぐに僕を見ていた。何かを探すように。
「そろそろ、あなたのイレモノが目覚めるわ。早く帰りなさい」
最後に少女は淡く微笑み、僕を暗い海へと突き落とした。
* * *
重低音が、鼓膜を震わせる。僕はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
まず目に映ったのは、白い天井。蛍光灯の無機質な灯り。
少し視線を右に傾けると、点滴やら心電図モニターやらが並んでいる。どうやら、ここは病院のようだ。
――えっと、どうしてこうなったんだっけ。
脳裏に、断片的な映像が浮かぶ。
悪夢。
痣。
母。
灼熱。
激痛。
雪。
海。
少女。
――ああ、思い出した。
そうだった。突然激痛に襲われて倒れたのだ。病院にいるのも、これで納得がいく。
でも、どうして倒れたのだろう。持病もなければ、病気だというわけでもない。むしろ、健康そのもののはずだ。それに、あの痣。生まれつきではない。今日初めて気がついた。
あの赤――何か、不吉な感じがする。
そんなことをぐるぐると考えていると、ノックもなしでいきなりガラッと扉が開いた。
中に入って来たのは、白衣を羽織った細身の男性。彼は僕を見て、驚いたように目を見開いた。
「ああ、目が覚めたみたいだね。良かった」
そう言って、子供のような無邪気な笑顔になる。人懐っこそうな人だ。
「正直、手遅れかもしれないと思っていたからね。何か、体におかしなところはないかい? 些細なことでも構わないよ」
患者の前で恐らく言ってはいけないであろう一言をさらりと言い放ち、彼は親しげに尋ねた。意外とはっきり言う人なのかもしれない。
「……いえ、特におかしいところはありません。あの、僕はどうして倒れたんですか? 何か、重い病気でも患っているんですか?」
とりあえず、言いたいことをはっきりと伝えてみる。彼の瞳が、迷うように揺れた。
「君は確か、十六歳だったよね? それならもう、受け入れる覚悟はあるのかもしれないな。だけどまずは、君の親御さんから話を聴いた方が良いと思う」
どういうことだろう。わけがわからない。
「どうぞ、入って来てください」
彼が扉の外に声をかけると、静かに扉が開き、母が入って来た。どこか、うかない顔だ。
「では、私は席を外しますので」
白衣の彼は母に一度ニコリと微笑みかけ、病室を去っていった。あとに残された僕と母の間には、気まずい沈黙が流れている。
その静寂を最初に破ったのは母だ。
「……あのね、今日はイゼルに言わないといけないことがあるの」
意を決したような口調で淡々と告げる。
「……何?」
やや無愛想だったかもしれない。僕は母のはしばみ色の瞳を見上げた。
「驚かないで聴いて欲しいの。
――私とあなたは、本当の親子じゃない。私はあなたの母親の妹なの。あなたの本当の母親は、あなたが三歳の時に亡くなった」
「……えっ……?」
思考が、停止した。
それでも彼女は、話をやめなかった。
「姉は病死だったの。いや、病気というべきかはわからないわ。ただ、一つ確かなのは、姉もあなたと同じ赤い痣があったこと」
一呼吸おいてから、叔母は続ける。
「姉はいつも、何かに怯えていたわ。自分が自分じゃなくなるとも言っていた。そうしている間に、姉は亡くなったの」
ようやく復活した思考で、僕は考える。
「……なら、僕も死ぬのかな」
割と平坦が声が出た。あまり驚いていないらしい。あるいは、実感がないからかもしれない。
「そうかも……しれないわね」
憐れむような視線を向けられるが、正直どうでもいい。自分の生死にすら、あまり関心がないようだ。
「医師にも、原因がわからないらしいの。だから、どうしようもないって。でも、私は……」
そこで、言葉が途切れる。叔母は、静かに泣いていた。
「……私はもう、誰も失いたくない……! でも、あなたになんて声をかければいいかわからなかったの……。私は姉の主治医だったのに……何もできなかった! ……だから、あなたに何か言う資格なんてない。あなたに何も言うことができない……」
知らなかった。叔母は僕を、そんな風に思っていたなんて。
「あのさ、母さん……は、夢のことを何か話したりとかしてた?」
すると叔母は、きょとんとした表情になった。
「いいえ。何か気になることでもあったの?」
「……いや、無いならいいよ」
叔母はわけがわからないというような表情をしていたが、理由を説明する気にはなれない。話せば、頭がおかしいと思われるだろう。
「この痣は、一体何なのかな」
気付くと、そんな問いを口にしていた。叔母は何も言わず、黙って僕を見つめている。
「原因がわからないってことは、病気じゃないんだよね? だったら、一体何なの?」
答えは求めていない。独り言のようなものだ。叔母も、それをわかっているようだった。
「病気ではないと思うわ。何の根拠も無いけどね。私も、これが何なのか知りたい。あなたの為にも――姉の為にも」
彼女の瞳には、強い光が宿っていた。強い人だ。僕よりも、ずっと。
「……僕は、いつ頃退院できるのかな」
今度は、ちゃんとした質問だ。そもそも、退院できるのかが心配だった。
「そうね……大事をとって一週間後くらいだと思うわ」
それからわざと明るい調子にして、叔母は微笑んだ。
「私、そろそろ帰るわね。また来るから、ゆっくり休むのよ」
そして、静かに病室を出て行った。
一人きりになった部屋の中で何か考えようとしたが、久しぶりの長話で疲れたらしく、いつの間にか眠りについていた。