0歳12ヶ月 12 ―――『二つ名』
ゆっくりと迫る水面を前に、私の脳裏には様々な想いが駆け巡ります。
敗北を喫することへの恐怖。
ボズラーさんを侮っていたことへの後悔。
単純な可能性を見落とした自分への憤慨。
前線に配属されることへの嫌悪。
ネルヴィアさんを巻き込んでしまうだろうことへの罪悪感
お兄ちゃんやお母さんたちに心配をかけることへの忌避感。
いやだ―――
前線に配属されたら、もうずっとお母さんやお兄ちゃんとは会えなくなってしまうでしょう。
村のみんなにも多大な心配をかけてしまうはずです。
ネルヴィアさんは嫌な顔なんてしないでしょうが、それでも彼女を危険な場所へと連れて行くことになってしまいます。
水面へと吸い寄せられるように落下する私は、ただ一つの想いに突き動かされました。
―――負けられない!!
ฎธๅ あ╞ ข๏ฎค ╡
╠
ใฉธค ฎธๅ ฬฎธคƂ
ฬฎธค ฿ ฬฎธค ∺ Î₀₀Ƃ
ฬฎธค•๏โฎ€ธๅ ฿ ๏โฎ€ธๅ╞ Τ₀ͺ Τ₀ ╡Ƃ
โ€ๅษโธ ฬฎธคƂ
╢
整数制御魔法「あ」を生成 ╞ 受け取る値は無し ╡
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我が手に触れし対象へ、整数値と「ฬฎธค」という名を与えよ。
「ฬฎธค」の物質量へ100を乗算し、乗算後の値を「ฬฎธค」へと代入せよ。
物質量の乗算方位は水平軸を180度、垂直軸を0度とし、「ฬฎธค」の方位メンバへと代入せよ。
処理後の「ฬฎธค」を返却せよ。
╢
「『あ』!!」
私が最速発動だけを念頭に置いた魔法名を叫ぶと、自分の身体に向けた手のひらから空気が爆発的に放出されました。
当然ながら物質量を百倍に増幅された空気は私の身体に叩きつけられ、小さな身体を吹き飛ばします。
水面に向かって自由落下をしていた私の身体はふわりと宙を舞うと、闘技場の足場へと落下しました。
誰もが―――それこそ私自身でさえも敗北を確信した状況からの復帰に、観客たちは大盛り上がりです。
しかし私はそれどころではなく、威力をかなり抑えたとはいえ、至近距離から乳幼児の身体に、しかも全体重を押し返すほどの勢いで乗算魔法を撃ちこんだのです。そのダメージは計り知れないものでした。
「けほっ、けほっ!! ぅえっ、げっほ!!」
腹部への痛烈な衝撃によって、私はまともに呼吸ができずにいました。
喉が痛むほど咳を繰り返しながら、しかし私は地面に這いつくばった状態で、ボズラーさんを睨み付けます。
私の視線を受けたボズラーさんは「ぐっ……!?」と呻きながら一歩後ずさり、それから追いつめられた表情で、手のひらをこちらへと向けました。
どうやら彼は、私の視線の意味を読み取ったみたいです。
『この呼吸が整った瞬間が、お前の負けだ』
ここが最後のチャンスだということを悟ったボズラーさんが、決死の猛攻を仕掛けてきました。
「うおおおおおおおおおッ!! 『ハイ・ウインド』! 『エア・シュート』! 『エア・シュート』!! 『エア・シュート』!!!」
数少ない残り魔力を振り絞って放たれた最大出力の魔法が、私を襲います。
地面に伏せている私が後方へと引きずられるほどの烈風と、速度も威力も段違いの圧縮空気弾が飛来してきました。
私はボロボロの身体に鞭打って、それらを必死に躱そうと足掻きます。
時には避けきれずに腕や足に直撃しますが、それでも懸命に足場の上に食らいつきました。
観客たちからの声援を浴びながら、私は幾度もの危険を辛うじて潜り抜け……
そしてボズラーさんが十数発目の魔法を撃ち終わった時、私と彼は、ほとんど継戦不可能な有様でした。
ボズラーさんは魔力を使いきって、地面にへたり込んでしまっています。おそらく、今にも手放しそうな意識を懸命につなぎとめているような状態でしょう。
一方で私も、度重なるダメージによって地面に横たわり、身体を起こすどころか、指一本動かすこともできずにいました。
一見すれば、辛うじて体を起こしていられるボズラーさんが勝者に見えるでしょう。
あるいは両者戦闘続行不可能により引き分けだと思うかもしれません。
しかし実際のところ、魔術師は指一本さえ動かさずに相手を葬ることができるのです。
ルールは『足場から落ちたら負け』なのですから、両者とも意識がある限り、戦いは終わりません。
それがわかっているからこそ、皇帝陛下は試合の決着を言い渡さないのでしょう。
けれども、私は全身の痛みで集中ができず、呪文の構築がうまくいっていませんでした。
……適当に魔法を発動したせいで、間違えてボズラーさんの身体を木っ端微塵にしてしまっては大変ですからね。
それに、ほとんど意識のないような彼を落水させるのは危険だろうという思いもありました。
なので私は、彼が意識を失うのを待つか、それとも彼が再び魔法を使えるようになる前にトドメを刺すか、その選択に揺れていました。
すると、その時。
「セフィ!!」
観客席から聞こえてきた声に驚いて、私は目だけで振り返ります。
するとそこには、ネルヴィアさんにおぶられたお母さんと、その足元にはお兄ちゃんまでもがいました。
「お……おかーさん……おにーちゃん、おねーちゃん……?」
な、なんで……! 御前試合は見に来ないでってお願いしたのに!
私は自分の状態を客観的に見てみました。
敵はまだ意識があり、身体を起こしている。
片やこちらは地面に横たわり、全身ボロボロで、しかも痣だらけ。今にも死にそうな有様です。
ネルヴィアさんの背中から慌てて降りたお母さんが、泣きだしそうな顔で……いえ、実際に泣き出しながら叫びます。
「セフィ!? 待ってて、今そっちに行くから……!!」
そう言って観客席から闘技場に飛び込もうとするお母さんを、周りの観客たちが必死に止めていました。
それでも周囲の静止を振り切ろうと暴れて、私に向かって手を伸ばすお母さん。
私は大丈夫だということを伝えてお母さんを安心させるために、立ち上がろうとします。
……が、
「っ!!」
全力を振り絞って身体を起こそうとしたのですが、ほんの少し体を浮かせたところで、再び地面に倒れ伏してしまいました。もう、それだけの余力も残っていないようです。
そんな様子を見たお母さんはますます悲壮な叫び声をあげてしまいます。
ネルヴィアさんは私の実力を、無事を信じてくれているのか、それとも陛下の御前であるためか、控えめに私へと手を伸ばすだけで、何もできずにオロオロとしていました。
そして、お兄ちゃんは……
「がんばれセフィーっ!! たてぇー!!」
普段大声なんて滅多に出さないお兄ちゃんが、なりふり構わず私に声援を送ってくれました。
そんなお兄ちゃんの意外な行動に私が驚いていると、それに触発されたらしい観客たちも「立てー! 負けるなー!!」とか「セフィリア様がんばってー!!」といった声援を叫び始めます。
時折、きっと彼の関係者なのであろう、ボズラーさんへの声援も混じっているようでした。
それらはあっという間に伝播して、闘技場には私とボズラーさんへの大声援の渦が巻き起こります。
お母さんやネルヴィアさんの声もそれらに混じっているのが聞こえた時、自分でもびっくりしたことに……辛うじてではあるものの、私は身体を起こすことができました。
見れば、ボズラーさんも再び瞳に闘志を宿らせ、こちらに好戦的な笑みを向けています。
「へっ……こりゃぁ、ヘバってるわけにもいかねぇな……」
そう言ってよろよろと立ち上がったボズラーさんは、「うおおおおおおッ!!」という、先ほどまでの憔悴が嘘のような雄たけびを上げました。
「さぁ、これが俺の最後の魔法だ!! 受け止めてみやがれ、セフィリア!!」
初めて私の名前を呼んだボズラーさんは、残る全精力を注ぎ込んだ一撃を準備しているようでした。
私はそれがどんなものであろうと正面から叩き潰し、その上で勝利することを決心して立ち上がりました。
割れんばかりの拍手喝采の中で、私たちはそれらの音を意識の外に追い出すほどの、極限の集中の内に睨み合います。
そしてボズラーさんがこちらに手のひらを向けながら、皮肉気なところのない清々しい表情で叫びました。
「あの貧乏クセぇ母親と冴えねぇ兄貴に、テメェの意地を見せてみろ!! 行くぞォ!!」
「 あ? 」
自分の喉から出たとは思えない、地獄の最下層から響くような低い声が漏れ出ました。
途端に、飛び交っていた大声援も、鳴り響いていた大喝采も、時間を止めたかのようにピタリとやみます。
ざわざわと髪の毛が逆立ち、血管が浮き上がるほどの怒り。
ハラワタをぐつぐつと煮立たせるほどの熱が、私の理性を一瞬で昇華させて消し去りました。
私の怒気を正面から受けたボズラーさんは、せっかく余力を振り絞って立ち上がったというのに「ひっ……!?」と呻いて、尻餅をついてしまいました。
私のお母さんが、なんだって?
私のお兄ちゃんが……なんだって?
「…………いま…………なんていった……」
「えっ、あ、いや、その……」
私の問いに、しどろもどろになって迅速な返答を寄越さないボズラーさんへと、私は喉がはち切れんばかりの大声で叫びました。
「いまなんていったぁぁぁあああああああああッ!!!」
ฎธๅ 屋上へ行こうぜ╞ ข๏ฎค ╡
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ใฉธค ฎธๅ ฬฎธคƂ
ฉßญ๏ำษๅ€ ฎธๅ ฉโ€ฉ╞ ₀ͺ Îσ₀₀ͺ ∸σσͺ Î₀₀ͺ Î₀₀ͺ Î₀ ╡Ƃ
ฬฎธค_ฉโ€ฉ ฿ ญ๏โๅฎธอ╞ ฉโ€ฉͺ ฬฎธค ╡Ƃ
ฬฎธค_ฉโ€ฉ ฿ ฬฎธค_ฉโ€ฉ ∺ ó₀₀₀₀Ƃ
ฬฎธค_ฉโ€ฉ•๏โฎ€ธๅ ฿ ๏โฎ€ธๅ╞ ₀ͺ ¤₀ ╡Ƃ
ฬฎธค_ฉโ€ฉ•╘๏¢ษญ ฿ ╘๏¢ษญ╞ ¢ ╡Ƃ
โ€ๅษโธ ฬฎธค_ฉโ€ฉƂ
╢
整数制御魔法「屋上へ行こうぜ」を生成 ╞ 受け取る値は無し ╡
╠
我が手に触れし対象へ、整数値と「ฬฎธค」という名を与えよ。
我が身より横軸0、縦軸1500、高度軸-55の地点を基準として、
横幅100、縦幅100、高度幅10を満たす領域に、
整数値と「ฉโ€ฉ」という名を与えよ。
領域「ฉโ€ฉ」を構成する要素のうち、
「ฬฎธค」と同一の要素を選別して「ฬฎธค_ฉโ€ฉ」へと代入せよ。
「ฬฎธค_ฉโ€ฉ」の物質量へ30000を乗算し、
乗算後の値を「ฬฎธค_ฉโ€ฉ」へと代入せよ。
物質量の乗算方位は水平軸を0度、垂直軸を80度とし、
「ฬฎธค_ฉโ€ฉ」の方位メンバへと代入せよ。
絞り値は4とし、「ฬฎธค_ฉโ€ฉ」の絞り値メンバへと代入せよ。
処理後の「ฬฎธค_ฉโ€ฉ」を返却せよ。
╢
「『屋上へ行こうぜ』!!!」
ボズラーさんの足元、地表から十センチまでの空気がとてつもない勢いで増加し、“ドボァンッ!!”という爆発音を響かせました。
天高く打ち上げられたボズラーさんは、マンションで言ったら七階か八階くらいの高さまで達すると、そのまま重力に従って降ってきます。
……あれ?
これ、もしかして水深一メートルだとヤバい?
怒りを発散して冷静になった私は、念のため落ちてくるボズラーさんに狙いを定めて手をかざしました。
その瞬間、陛下が「ま、待て!!」という声をあげたような気がしましたが、待ったらボズラーさんが危険なので無視します。
ฎธๅ 風の槍╞ ข๏ฎค ╡
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ใฉธค ฎธๅ ฬฎธคƂ
ฬฎธค ฿ ฬฎธค ∺ ╕₀₀₀₀Ƃ
ฬฎธค•๏โฎ€ธๅ ฿ ๏โฎ€ธๅ╞ ₀ͺ ₀ ╡Ƃ
ฬฎธค•╘๏¢ษญ ฿ ╘๏¢ษญ╞ ¢ ╡Ƃ
โ€ๅษโธ ฬฎธคƂ
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整数制御魔法「風の槍」を生成 ╞ 受け取る値は無し ╡
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我が手に触れし対象へ、整数値と「ฬฎธค」という名を与えよ。
「ฬฎธค」の物質量へ20000を乗算し、乗算後の値を「ฬฎธค」へと代入せよ。
物質量の乗算方位はデフォルトとし、「ฬฎธค」の方位メンバへと代入せよ。
絞り値は4とし、「ฬฎธค」の絞り値メンバへと代入せよ。
処理後の「ฬฎธค」を返却せよ。
╢
「『風の槍』」
落ちてきたボズラーさんにピッタリとタイミングを合わせて放たれた烈風が、彼に直撃しました。
ボズラーさんは空中で強引に進路を変えられると、その勢いのままに闘技場を飛び越えて、ルハー湖へと飛んで行きます。
そして水面を何度も跳ねながら湖を突っ切っていって、しまいには湖を完全に縦断。ルハー湖のほとりに設置してある休憩所まで転がって行くと、そこでようやく動きを止めたみたいです。
遠いのでよくは見えませんが、ピクピクと痙攣しているようなので、死んではいないでしょう。
うーん、結構飛んでっちゃったなぁ……でもあのまま落ちてたら首がポキッとイってたかもしれませんし、助けにはなったはず。うん、優しい、私。
それから私は、お兄ちゃんとお母さん、それからネルヴィアさんを振り返って、ブンブンと手を振ります。
「おかーさん! おにーちゃん! おねーちゃん! わたし、かったよー! みててくれたー!?」
お母さんは無邪気な表情で「見てたわよー! すごいわセフィ~!」と手を振り返してくれて、ネルヴィアさんはなぜか涙を流しながら「さすがはセフィ様です!!」とか叫んでいました。
……お兄ちゃんだけは、困ってるのか笑ってるのか、微妙な表情でしたが。
そして私たち以外の全員が青ざめながら静まり返る空間で、観客のうちの誰かが、私の『二つ名』をポツリと呟きました。
「…………『逆鱗』のセフィリア……」