2歳7ヶ月 4 ――― 最後の光景
ソティちゃんの異様な両目に驚いていたのも束の間、周囲で蠢いていた巨大な山羊たちがこちらへ殺到してきたことで、私は思考を中断して行動に移ります。
動物のようであり、植物のようでもある異形の存在たちは、大きいもので体高が十メートルを超えるほどの巨躯を誇っています。
そんな山羊たちが狂ったように幹や枝を振り回しながら突貫してくるという悪夢のような状況に、私たちはただちに対応しなければなりません。
フェルージン教授なる謎の人物をソティちゃんが引き受けてくれていることから、手すきとなったルルーさんが軽く右腕を振るいます。
すると目にも留まらぬ速度で山羊たちの一部が引き裂かれて輪切りとなりますが、しかし多くの山羊たちは傷を負った様子もなく、地響きを立てながらこちらへと突っ込んできました。
「残った山羊たちは特別製よ! 黒い石を埋め込まれてるわ!」
そう私たちに叫んだルルーさんは、忌々しげに目を細めます。
おそらくは私たちがこの虹色の泡が噴き出す巨大な穴のふちへ辿り着いた際、リルルやあの教授たちの周囲で彼らを襲うこともなくジッとしていた山羊たち……それらがいわゆる『特別製』というやつなのでしょう。
「なら、アレは私が片づけるよ」
地面を踏み砕きながら駆けだしたリュミーフォートさんが、殺到する山羊たちを真正面からぶん殴って押し返します。
十メートルをゆうに超す巨体である山羊たちが、まるでドミノ倒しのように薙ぎ払われていく様は圧巻でしたが……しかしリュミーフォートさんが振るった剣に切り裂かれた山羊たちが、直ちにその体を再生させるのを見た私は思わず眉間に皺を寄せてしまいました。
「……リルルをさきにかたづけないとダメかもしれませんね」
「そうね。それに山羊たちを操ってるあの人形も潰しておいた方が良いわ」
ルルーさんの言い放った“人形”という言葉に、私は思わず首を傾げてしまいます。
そんな私の反応に、ルルーさんは当たり前のような口ぶりで答えてくれました。
「あの教授とかいう男とリルルの他にもう一人、おかしな女がいたでしょう? あれはダミーの人形よ。心臓の音が聞こえなかったし、体温も発していなかったもの。本体はあの女が腰掛けてた金属ゴーレムの中に隠れてるわ」
……おそらくは魔法によって極限まで研ぎ澄ませた超感覚による感知なのでしょうが、結構な距離だったのにそこまで正確に把握できるのですね……。あらためて魔導師というのは規格外です。
「そして敵が山羊に襲われず、私たちだけを襲ってくるのは敵が操っているからでしょうね。ゴーレムを操る能力なんだと思うわ。『獣王の陵墓』でロクスウォードたちに襲われた時も、ゴーレムが一体いたでしょう? きっとあれを操ってたのがアイツなのよ」
『獣王の陵墓』で……たしかに言われてみれば、ロクスウォード勢力が初めて表立って襲撃してきたあの時、岩石でできたオーソドックスなゴーレムが襲い掛かってきました。
なるほどゴーレムを支配する能力を持つのなら、異形のゴーレムである山羊が無限に生み出されるこの神樹跡は、敵にとって最高のホームグラウンドと言えるでしょう。
となると、時間をかければかけるほど山羊がここへ集まってきてしまい、こちらが不利になります。
どのみち魔法の補助もなく巨大な山羊と殴り合えるのはリュミーフォートさんだけ。ならばそちらは彼女に任せ、私たちは元凶を叩くのが良いでしょう。
ふと目を向ければ、四方八方から山羊たちの枝や蔓に襲われているソティちゃんが、それらを次々に受け流しながらフェルージン教授へと迫っているところでした。
周囲に蠢く山羊たちの持つ『黒い石』のせいで、ソティちゃんは攻撃魔法はおろか、自身の速度を上げたり空を飛んだりといった魔法さえ使用することができないはずなのです。
だというのに、彼女はおよそ人間離れした身軽な動きで山羊たちの攻撃を容易く交わしていきます。それはまるで、山羊たちが次にどのように動くのかがわかっているかのような動きでした。
そして信じられないことに、小学校高学年くらいの体格である小柄なソティちゃんが短剣を振るったり蹴りを放ったりするたびに、巨大な山羊たちが冗談のように吹っ飛んで薙ぎ払われていくのです。
彼女が地面が砕けるほど強く駆け出せば、遠くで見ていた私でさえ一瞬姿を見失うほどの速度で弾丸のように跳躍し、かと思えば周囲の山羊たちを鎧袖一触に薙ぎ払いながらフェルージン教授との距離を詰めていきます。
山羊たちを壁にしながら必死に距離を保とうとしているらしいフェルージン教授は、時折ソティちゃんへと魔法で攻撃を仕掛けたりしている様子ですが……それらのほとんどは人間離れした超人的な反応で避けられるか、あるいは「界変」という呟き一つで無力化されているみたいです。
本当にソティちゃんが一体何者なのか、疑問は尽きませんが……その追及は戦いが終わった後でも良いでしょう。今はゴーレムを操っている敵の『本体』と、そしてそんなゴーレムを強化しているリルルの二人組を探し出して無力化することが先決です。
「ルルーさん。あのふたりのいばしょは、もしかしてあそこですか?」
「ええ、もちろんよ。あの山羊たちが密集してる場所の中心部ね」
そう言ってルルーさんが指し示した場所では、大小さまざまな山羊たちが不自然に密集しひしめき合っていました。あそこまで露骨に守りを固めていたら、探知能力を持つルルーさんでなくても容易に居場所を突き止めることができるでしょうね。いえ、逆に露骨すぎてブラフかと疑っていた可能性もありますが……。
あの山羊たちもリルルの『呪い』によって不死身となっている特別製なのだとしたら、どのようにして片づけたものでしょうか。
どうせアレらにも『黒い石』が埋め込まれているのでしょうから、そうしたらネルヴィアさんやレジィの『神器』を使用することもできませんし、魔剣も使うことができません。
自身の肉体を変化させるルルーさんの能力は、『黒い石』との相性が悪いですし……さて、どうしたものでしょうか。
私が魔法でゴリ押すのも手ではありますが、これ以上視力が下がったり他の後遺症が併発してくると、さすがに来るロクスウォード勢力との最終決戦に差支えがある可能性もあります。
私が戦うにしても、魔神の渦や私自身から漏れ出している魔力を吸って蓄えてくれている神器グラムだけで対処したいものです。
とはいえいくら黒い石の影響を受けない神器グラムでも、ただでさえ再生力の高い山羊にリルルが回復サポートをしているとなると……
いや、待てよ? べつに山羊を倒す必要はありませんね。
「グラム!」
私が神器グラムに強く念じると、私の服の内側に張り付いて鎧のようになっていたグラムが袖からずるりと這い出してきます。
そして一瞬にして体積を増したグラムは輪っかのような形状を取り、密集している山羊たちを数匹ほどガッチリと掴むと、UFOキャッチャーのように勢いよく引っこ抜いて、そのまま数十メートル先の『巨大な穴』に放り込みました。
「ポイっとな」
神樹跡の中心に空いている、反対側の崖がかすむほど巨大な穴。虹色のシャボン玉が無数に吹き出すその穴に、山羊を捨てたのです。
……数秒ほど待ってみましたが、穴の中で何かが起こる様子は特にありません。
「よし、これでいきましょう」
ぽかんと目を見開いてこちらを凝視しているルルーさんにそう言って、私は今行った作業を繰り返していきます。
山羊たちはゴーレム使いの命令によるものなのか、地面に手足を突き刺して踏ん張ったり、キャッチされて連れ去られる仲間たちを引っ張って阻止しようとしてきますが、その程度の抵抗はグラムを相手に意味を成しません。
山羊たちが何トンもの重量があろうと、私がグラムに『持ち上げろ』と念じれば持ち上げてくれるのですから。正確には山羊たちを掴んだ状態で『自身の座標を上方へと移動しろ』ですが。
そういった具合に、ちぎっては捨て、ちぎっては捨てを繰り返していると、ついにほとんどの山羊たちを除去することができました。
忌々しげにこちらを睨みつけてくるリルルと、不気味な造形をした金属製のゴーレムに腰掛けた女性が姿を現します。いえ、あの女性は人形なんでしたっけ。
リルルやゴーレム使いが回復手段を持っていようと、あの穴の中に投げ捨てられればただで済むとは思えません。
単純に穴の深さが計り知れない上に登ってくるのが難しいというだけでなく、触れれば消滅してしまう虹色のシャボン玉が無数に吹き出す、得体のしれない穴なのです。あの穴が恐ろしい異次元に繋がっていると言われても驚きません。
私は神器グラムをリルルたちの周囲で滞空させ、いつでも捕らえられるようにしながらルローラちゃんに目を向けました。
このままリルルを葬ってしまうのは簡単ですが、彼女の姉妹であるルルーさんやルローラちゃんがいる手前、問答無用というのは気が咎めます。
私が二人に判断を委ねる視線を送ると、私を抱っこしているルローラちゃんが私のことをギュッと強く抱きしめてきました。
視界の端でソティちゃんとリュミーフォートさんが激闘を繰り広げている中、身構える私たちの中からルルーさんが足を踏み出し、リルルたちへと近づいていきます。
そしてリルルから半径十メートルほどの距離まで近づいたところで、『黒い石』の効果範囲に入ったのか、ルルーさんの姿に変化が起こりました。
この世界でも明らかに異様であるピンク色という色彩だったルルーさんの髪が、長く艶やかな黒へと染まります。
“本来の姿”に戻ったルルーさんは立ち止まると、驚きに目を瞠るリルルとまっすぐに対峙しました。
「リルル。アンタの気持ちはよくわかるわ。たかだか髪の色なんかで差別するなんて馬鹿げてるし、お姉ちゃんが庇ってくれなかったらもっと直接的に迫害されてたか、最悪捨てられたり殺されてたかもしれない。復讐に駆られるのも頷けるわ」
ルルーさんがそう言うと、私を抱いているルローラちゃんは辛そうに目を伏せ、対するリルルは嬉しそうに表情を輝かせました。
それは本当に無邪気な少女のような笑顔で、私たちが初めて見るリルルの心からの笑顔だったのでしょう。
「じゃ、じゃあルルも、私と一緒に……!」
「だけどリルルに協力するわけにはいかない。今の私は、帝国軍魔導師『慧眼』のルルー・ロリ・レーラ・ベオラントだから。帝国に仇なすなら、たとえ双子の姉であっても排除するわ」
ルルーさんのハッキリとした拒絶の言葉に、リルルは一転して絶望の表情を浮かべました。
もしも私が血を分けた兄弟であるお兄ちゃんにこんな決別宣言をされたら、多分立ち直れないでしょう。なのでリルルの受けた衝撃と悲しみも想像できようというものです。
消沈してうな垂れてしまったリルルは、しばし肩を震わせていましたが……悲しみに暮れて涙でも流しているのかと思いきや、くつくつという含み笑いが聞こえてきました。
「ふ、うふ、ふふふ、あは、あはは……!」
ふらふらと身体を揺らがせながら、聞いていると不安になってくるような、狂気を滲ませた笑い声を響かせるリルル。
思わず身構えた私たちの視線の先で、片目から涙を流したリルルが焦点の定まらない瞳を私たちに向けます。
「―――じゃあお願いだからみんな死んでよ!!」
リルルが血の混じったように悲痛な声を絞り出した、次の瞬間。
その全身から虹色の泡が湧き出しました。
「……っ!?」
思わずその場から飛び退ったルルーさんが、その髪の色をピンク色に変化させた瞬間に足元の小石を蹴り飛ばしました。
『黒い石』の効果範囲から出たルルーさんの身体能力は人知を超えた領域にあるようで、残像を残した彼女の足からは“ボパンッ!”という空気が音速で弾けるような音が響きます。
しかし凄まじい速度で放たれたであろう小石は、どこに衝突することもありませんでした。
一瞬、ルルーさんが目標を外したのかと思いましたが……
「消えた……!? まさか神樹のものと同じ……!」
焦りを滲ませたルルーさんのその呟きを聞いたことで、私は何が起こっているのかを何となく察してしまいます。
リルルの能力は、生物の肉体年齢を操作すること。つまり対象の『時間』に干渉することです。
もしかするとあの小石は、風化して消失するほどの時間を経て消えてしまったのかもしれません。
かつてルルーさんとリルルがエルフの里を抜け出す直前、二人はこの『神樹跡』へと忍び込んで魔神の渦の魔力を得たことで特別な力を得たと聞きました。
ならば神樹の力を得たリルルが、一部とはいえその片鱗を扱うことができても不思議ではありません。
「ぁぁぁあああああああああああああああああああああッ!!」
リルルの絶叫とともに、その全身から虹色の球体が無数に放たれました。
神樹跡から噴き出しているような数メートル越えの球体ではありませんでしたが、しかしビー玉やソフトボールくらいの小さなシャボン玉が全方位へと大量に放たれるというだけでも非常に厄介です。
先ほどまでリルルのそばに控えていたゴーレム―――無数の金属鎧を無理やりつなぎ合わせて造ったワニのような不気味オブジェ―――は、多足虫のようにたくさん生えている手足で駆け出して避難を始めました。
『悪いけどオイラはまだ役割があるんでね! あとは神樹のゴーレムたちに任せるよ!』
金属ゴーレムに腰かけている女性……ではなく、ゴーレムの中から反響してくぐもった声が聞こえてきます。小さい子供のように甲高い声色でしたが、あれがゴーレム使いの本体なのでしょうか?
すると、一目散に逃げ去ろうとしているゴーレムの背中に、リルルが血走った目を向けながら叫びました。
「『パペットマスター』っ!! 残ってる山羊全部で、エルフの里をぶっ潰してください!!」
『あいよー! わかったから足止めよろしく!!』
その物騒な会話の内容を聞いた瞬間、ルルーさんが懐から流線形の小さな金属を取り出しました。
パっと見ではライフルの弾丸にも見えるそれを握りこんだかと思うと、なんと親指の力で“ドギュッ!!”という物騒な音を発しながら撃ち出します。
『うわっと!?』
金属同士の擦れるけたたましい轟音や、オレンジ色の火花をまき散らしながら、ルルーさんの撃ち出した弾丸は金属ゴーレムに直撃しました。
けれどもどうやらゴーレムの強度はかなりのもののようで、遠目からでは目に見えるほどのダメージを与えられたようには見受けられません。不快げに目を細めたルルーさんの舌打ちが響きます。
その間に私は神器グラムを呼び戻し、ネルヴィアさんとレジィ、そしてケイリスくんとルローラちゃんをグラムで引き寄せながらその場を離れました。
触れれば即死のシャボン玉が、もう間近に迫って来ていたからです。
「ご主人、見ろ!」
「セフィ様、山羊たちが!」
レジィとネルヴィアさんの声に視線を上げると、なんと『神樹跡』全域からおびただしい数の山羊たちがこちらへ殺到して来るのが見えました。
どうやら先ほど『パペットマスター』と呼ばれていた金属ゴーレムのもとへと集まっているようです。
パペットマスターはあっという間に山羊の群れに飲み込まれて見えなくなり、そして黒い津波と化した悪夢の奔流はまっすぐに私たちが元来た方角……すなわち、エルフの里へと雪崩れ込もうとしていました。
「まずい、はやくとめないと……!」
どうやらパペットマスターは、山羊たちへ命令を下すことができる能力みたいです。
なのでパペットマスターを先に叩かなければキリがないのですが、そのパペットマスターは強化された山羊たちの群れに囲われて守られている状況……
いや、弱気になるな私……!
山羊たちだって無限に生まれるわけじゃありません。
私たち全員で攻撃を続ければ、いずれ押し切ってパペットマスターを倒すことは可能でしょう。
私は今もなお虹色の泡を吹き出し続けているリルルに視線を向けます。
リルルはどうやら自身の真の能力に覚醒したのか、虹色の泡を生み出すことができるようになったようですが……しかしリルル自身の戦闘能力は大したことありません。
リルルへの攻撃が通用しないというのは厄介ではありますが、しかし他にやりようはいくらでもあります。大した脅威とは言えないでしょう。
となると、残る問題は……あのフェルージン教授とかいう魔術師でしょうか。
ソティちゃんとリュミーフォートさんが戦っている方角へ私が目を向けると……ちょうどその時、私の視線の先で爆発が起こりました。
無数の山羊たちが木っ端微塵に吹き飛ぶ中、爆心地あたりから投げ出された小さな影がこちらへ吹き飛ばされ、何度も激しく地面に叩きつけれながら転がってきます。
見ればそれは、ボロボロになったフェルージン博士でした。
彼の羽織っていた全身を覆い隠すローブは見る影もない布切れと化していて、その下に着込んでいたスーツまでもがボロボロです。
そしてなぜか、リルルの呪いによって傷を負っても即座に再生するはずなのに、彼は全身傷だらけで至るところから血を流しているようでした。
「さて博士、年貢の納め時だね」
そう言って空からふわりと降りてきたのは、傷一つ負っていないソティちゃんでした。
それから少し遅れて、リュミーフォートさんも私たちの近くに降ってきて、音もなく着地しました。
リルル達三人の中で最も厄介だったフェルージン教授でしたが、さすがに人族最強と、それに比肩する程の魔術師が相手では為す術がなかったようです。
これであとはパペットマスターと山羊の群れさえ何とかしてしまえば、ほとんど脅威は取り除いたと言っていいでしょう。
私が少しだけ緊張感を緩めながら息をついていると……そこで不意に、フェルージン教授がリルルを見て、嬉しそうに口元を歪めるのが見えました。
何か無性に嫌な予感がした私がグラムを放とうとするよりも早く、フェルージン教授は口の中で何かを呟きます。直後、フェルージン教授の手元から凄まじい突風が生じて、彼の身体を勢いよく吹き飛ばしました。
そんな乱暴な方法では自身に少なからずダメージを負ってしまうでしょうが、なりふり構っていられる状況ではなかったのでしょう。
数メートルほど宙を舞ったフェルージン教授は飛ばされた先には、全身から虹色の泡を放出し続けているリルルがいます。
そして私が「あっ」と思うより早く、宙を漂っている虹色の泡に教授の身体が触れてしまい……
しかし虹色の泡は教授の身体を透過して、何事もなかったかのようにすり抜けていきました。
「えっ……?」
それを見た私たちは、その現象に唖然としてしまいます。
てっきりフェルージン教授が跡形もなく消滅してしまうかと思ったのですが、そんなことはありませんでした。
血まみれのフェルージン教授は足を引きずりながら、リルルへと近づいていきます。
虹色の泡を放っているリルル自身も、なぜか虹色の泡の影響を受けない教授に驚いているらしく、彼の接近に対して目を丸くさせたまま動けずにいました。
そしてフェルージン教授は懐から、黒い木の枝のようなものを取り出しました。
なんて言うんでしたっけ、あの形……どこかの神社に納められているっていう、そう、たしか七支刀でしたか。それに形が似ています。
とにかく黒く薄汚れた金属の棒を取り出した教授は……
それを、リルルのお腹へと突き刺しました。
「えっ……」
全身から虹色の泡を吹き出していたリルルは、その突然の凶行に驚いて、自身の腹部をまじまじと見つめます。
フェルージン教授がいきなり意味の分からない行動を取り始めたことで、私たちも咄嗟に動けずにいましたが……しかしそんな中で、ソティちゃんだけが焦ったような声を発しました。
「まさかそれって……『試練の鍵』!? どうして教授がそんなものを……! だから私たちに“干渉”できたのか!!」
ソティちゃんの言葉にこちらを振り返った教授は、血まみれの顔でニタリと凄惨な笑みを浮かべます。
そして七支刀のような棒をリルルのお腹からずぶりと引き抜くと、先ほどまで黒く錆びきっていたはずの棒は、虹色の眩い輝きを放ち始めました。
さらに輝きはフェルージン教授の全身へと広がっていき、その後ろでリルルが崩れ落ちるようにして倒れます。
「やはり運命は私に味方している……! このタイミングで『門』として覚醒してくれるとは、感謝するよリルル君!!」
フェルージン教授が喜悦に歪んだ表情を浮かべ、高らかにそう叫びました。
するとその直後、「ぐじゅり」というぞおましい音と共に彼の足元が崩れ、虹色の『穴』がぽっかりと口を開けます。
その穴は見ているだけでも心がざわつくような、決して関わり合いになりたくない邪悪な気配を感じさせるものでした。
きっとあそこに足を踏み入れたら最後、二度と光を拝むことはかなわないと確信させられるような、近づくことさえも魂が忌避する存在です。
穴の中心に立っていた教授は、そのおぞましい虹色の穴へと落下して消えてしまいました。
完全に穴の中へと飲み込まれてしまう直前、彼の勝ち誇ったような表情に得体の知れない悪寒を覚えた私でしたが……しかし彼の周囲で大量に浮かんでいる虹色の泡が行く手を阻み、その行動を妨げることはできませんでした。きっと周りのみんなも同じだったのでしょう。
いえ、たった一人……動き出した影がありました。
「待て! これ以上好き勝手させてたまるか!!」
瞬く間に虹色の泡をよけながら穴へと近づいていったソティちゃんが、「界変!!」と叫びながら『穴』へと飛び込んで行ってしまいました。
きっと何か魔法を発動して、自身の安全を確保してから飛びこんで行ったのでしょうが……あんな見ているだけで背筋が凍るような場所に、よく自分から飛び込んでいけますね……。
ソティちゃんの行動にみんなで唖然としていると……そこで不意に、絹を裂くような絶叫が響き渡りました。
「きゃぁあああああああああっ!!」
見れば、教授の近くで倒れ込んでいたリルルが虹色の穴の縁にしがみついて、今にも落っこちそうになっています。
「いやあっ! ヤダっ、死にたくない! 死にたくないよぉ!!」
必死に穴の縁から這い出そうとしているリルルでしたが、何か見えない力で穴の中へ強引に引きずり込まれているかのように、少しずつその身体が虹色の穴に飲み込まれていきます。
目じりに涙を浮かべながら、必死に叫ぶリルルの全身には虹色の泡が纏わりついています。これではたとえ私たちが助けようとしても、差し伸べた手が消滅してしまうでしょう。そもそも近づこうにも、周囲に漂う虹色の泡が邪魔をしています。
おそらく、あの穴に落ちたら最期。どんな目に遭うのかはわかりませんが、フェルージン教授やソティちゃんのように何かしらの準備をしているような人たち以外、恐ろしい最期を迎えることでしょう。それは本能的にわかります。だからリルルもあそこまで怯えているのでしょう。
これが今まで、多くの人や魔族たちに悪意と悲劇を振り撒いてきたリルルの受ける報いなのでしょうか。彼女自身の能力が引き起こした現象で身を滅ぼすというのは、なんとも皮肉な結末です。
「ルルっ! お姉ちゃああん!! 助けてぇ! お姉ちゃぁぁああん」
視界の端で、反射的に走り出そうとしたルルーさんをリュミーフォートさんが腕を掴んで止めていました。
「ルルー、あの穴と泡はまずいよ。いくらルルーでも、私でも、近づいたら帰っては来られない」
「でもっ……!!」
珍しく取り乱しているルルーさんと同じく、私を抱いているルローラちゃんも悲壮感に満ちた表情で今にも走り出しそうになっています。
しかし魔導師であるルルーさんでもダメなら、この場面でルローラちゃんにできることはありません。
ずるずると穴の中に引きずり込まれていくリルルが、とうとう指先だけしか見えなくなりました。
……保って、あと数秒といったところでしょう。
私は、握り込んだ拳から血を流しているルルーさんと、私を抱く手を震わせながら涙を流しているルローラちゃんを振り返りました。
「いやぁぁあああああああああああああああっ!?」
そしてついに力尽きたリルルが手を離し、虹色の穴の中へと永遠に葬られてしまう―――直前。
私は反射的に放った神器グラムで、リルルの腕を掴んで引き留めました。
「セフィリア!?」
「ゆーしゃ様!?」
驚いたルルーさんとルローラちゃんの声が聞こえる中、しかし一番驚いていたのは私自身です。
リルルのことなんて好きじゃありませんし、なんなら嫌いですらあるくらいだったのに……思わず手を出してしまいました。
神器グラムなら今のリルルに触れても風化はしないのではないかと予想したのですが、どうやら正解だったようです。
しかしやはり無茶なことではあったのか、グラムに激しい負荷がかかっているのを感じます。獣王の陵墓で門番の試練を攻略して以降、私の身体から漏れ出ていた金色の光が、急速に失われていくのを感じます。
リルルを引き上げる力が弱まり、このままではグラムごと虹色の穴に吸い込まれてしまいそうです。
「ぐぅぅううううっ!!」
私は仕方なく、久しぶりに神器グラムへ自身の魔力を流し込みました。まだ魔力の制御っていうのはピンと来ませんが、過去の経験から感覚でなんとなくわかります。
今にも輝きが消えてしまいそうだった神器グラムが、白金色に眩く光り輝きました。
だけど長くはもたないでしょう。チャンスは今しかありません。
「ひきあげろ、グラム!!」
とびっきり激しく輝いたグラムは、虹色の穴に飲み込まれつつあったリルルを少しずつ引きずり出していきます。
久しぶりに凄まじい勢いで魔力が消費されていく感覚に、私は酸欠のようにクラクラする感覚を必死で抑え込みながら力を振り絞りました。
そして十数秒の格闘の末、ついにリルルを穴の中から助け出すことに成功したのです。
「うぎゃっ!」
リルルを穴から引っ張り出した勢いに任せて、そのまま私たちの方に投げ飛ばしたため、リルルは私たちのすぐ近くに落ちてきました。
あの虹色の穴から離れた途端、リルルの身体から溢れていた虹色の泡は鳴りを潜めたようですし、きっともう心配は要らないでしょう。
「……ぷはぁ! はぁ、はっ、ぜぇ……!!」
安心した途端、今まで意識の外にあった疲労感や倦怠感が一気に襲ってきて、私はルローラちゃんの腕の中でぐったりと脱力しました。
すると私の家族たちが一斉に私のところに集まって来て、心配そうにのぞき込んできます。
「ご主人、無茶しないでくれよ! 冷や冷やしたぞ!?」
「そうですよ、お嬢様! 一緒に引きずり込まれてたらどうするんですか!」
「セフィ様、お身体は大丈夫ですか!? あの白金色の魔力は消耗が激しいから使わないでくださいと言ったじゃないですかぁ!」
口々に苦言を呈する家族たちに、私はバツの悪い思いで苦笑を返します。
……今のとんでもない魔力消費で一気に左目の視力が下がったのと、左手の指先の感覚がなくなって動かせなくなったって言ったら、もっと怒られるかな……?
炭のように黒ずんで変色してしまった左手をこっそり隠していると、そこで不意に私を抱えていたルローラちゃんが、私を強く抱きしめました。
「ゆーしゃ様、ありがとう……! 本当にありがとう……!!」
苦しいくらいにぎゅうぎゅうと抱きしめてくるルローラちゃんが、涙を流すくらい喜んでくれているのを見ていると……かなり危険な賭けではありましたが、それでも行動して良かったと思えます。
ルローラちゃんの頭を右手で優しく撫でてあげながら、私は視線をリルルの方へと向けます。
するとそちらでは、涙や鼻水などで顔中をぐちゃぐちゃにしたリルルが、ルルーさんに抱きしめられながら慰められているところでした。
そして不意に私とリルルの目が合うと、リルルは気まずそうに目を逸らしながら俯いて、
「……あ、あり……がとう、勇者様……」
羞恥なのか何なのか、顔を赤くしながらぽそぽそと感謝の言葉を漏らしました。
ふん、リルルのために助けたわけじゃないんですからね! 私の家族であるルローラちゃんのためなんですから、そこんとこ勘違いしないでくださいよ!
と、それはさておき。
フェルージン教授が虹色の穴に姿を消し、リルルが戦意喪失した現状。残る問題はパペットマスターだけです。
ちょっと時間を使ってしまいましたが、私たちがエルフの里からこの神樹跡の中心部へ訪れた際の時間を考えると、まだパペットマスターは神樹跡すら脱出していないはずです。今から全力で追いかければ十分に間に合うでしょう。
「さて、あとはパペットマスターをたおせば、それで―――」
私が今回の戦いに幕を引こうと、みんなに行動を促そうとした……その時。
私の視界の端で、何かが輝きを放ちました。
「……は?」
それは、先ほどリルルを助け出したときに使った神器グラムでした。
いつもはうっすらと金色に輝き、先ほどは私の魔力を大量に消費して白金色に輝いていたそれが、今はなぜか虹色の輝きを放っています。
リルルを引っ張り上げるのに使わなかった他のグラムは、金色のまま何事もなく浮かんでいました。おかしいのはリルルに触れたグラムだけです。
いったい何事かと私たちが見守る中、虹色のグラムは私が念じてもいないのにその形状を変化させ、見覚えのある形をとりました。
その形状は、つい先ほどフェルージン教授が懐から取り出した七支刀のような例の棒そっくりで……
「―――っ!!」
直後、私の全身が虹色の輝きを放ち始めたことで、ゾクリと背筋が凍りました。
これは、さっきのフェルージン教授と同じ現象……!?
「みんな、はなれてッ!!」
私はとっさに、虹色に輝いていない普通の金色グラムで、私の周囲にいる家族たちを強引に薙ぎ払って吹き飛ばしました。
私を抱きかかえていたルローラちゃんを吹き飛ばしたことで、私はふわりと自由落下を始めます。
そして足元を見れば、すでにそこには地面が存在しておらず、どこまでも虹色の景色が続く地獄の口がぽっかりと口を開けていました。
私がグラムを呼び戻すよりも早く、私の身体は何か強い力で引き寄せられるようにして、虹色の穴へと落ちていきます。
走馬燈のようにゆっくりと上に流れていく景色の中で、私が最後に見た光景は……
目を見開き、何かを叫びながら、こちらに手を伸ばす家族たちの姿でした。




