2歳3ヶ月 2 ――― 囁きの洞
まるでラジオから垂れ流されるノイズのような環境音は、この近くにある滝から響いてくるものでしょうか。滝壺から立ち込めてくる霧のような飛沫が流れ込むジャングルは、雨に降られた後のように露を纏っています。
普段私の周囲に張り巡らせている環境結界を一瞬だけ解除すると、じっとりとした湿気とひんやりした空気、それからぬかるんだ地面より立ち上ってくる泥の匂いが私の体を撫ぜました。
結界で防護した馬車を降りた私たちは一路、足場の悪い泥の道を進んでいきます。
時刻は夕方。すっかり日も沈んで、本来であればジャングルは闇の帳が下ろされ、自然界のハンターたちが狩りを始めるような頃合いです。当然、普通の行軍であれば危険を避けるため、朝までジャングルへ足を踏み入れることは絶対にしないでしょう。
しかしながら魔法で快適な視界を確保することができる私が同行している以上、そんな常識の枠に囚われる必要性はありません。日中もかくやという明るさを放つ照明を空中に浮かべた私たちは、ジャングルの奥地へと進んでいきました。
先頭を歩くロヴェロさんが、魔族たちへの聞き込み調査で突き止めたというその場所へと先導してくれています。私たちも聞き込み調査は行っているのですが、だいたい有益な情報というのはロヴェロさんが聞きだしてきてくれることが多いです。
そんな彼のすぐ後ろをレジィが歩き、続いて私を抱くケイリスくんと、最後尾で背後を警戒するネルヴィアさんが続いていました。
今回は大人数で行動するのは都合が悪いため、他の人たちは馬車でお留守番です。
露滴で煌めく鬱蒼とした木々の合間を私たちが抜けていく中、あからさまな警戒色に身を包む蛇や、木陰から瞳を光らせる猿なんかが、ジッとこちらを窺っています。もちろん私がいる以上、動物たちは決して近づいて来ようとはしませんが。
けれども私の身体から漏れ出す魔力に怯えるには最低限の知能は必要なのか、ジャングルにいるような毒グモやヒルなどを遠ざけることはできないようです。それでも私が本気で戦闘態勢に入ればその限りではないそうなのですが、どうやらリラックスしている状態だとダメみたいです。
そのため私は自分たちの周囲に結界を張ったり強風を起こしたりして、そういった脅威からみんなを守ります。特に虫が大っ嫌いな私は、同じく虫が大の苦手であるケイリスくんに抱かれながら、レジィのすぐ後ろをついて行ってました。時折レジィが目にも留まらぬ速さで何かを叩き落とす様子にビクビクしながら、私とケイリスくんは強く抱き合ってそちらを見ないように気を付けつつ、歩みを進めていきます。
そんなこんなで、体感では随分と長く感じた行軍の果て。一番先頭を歩いてくれていたロヴェロさんが不意に立ち止まると、
「皆様、どうやら目的地に到着したようです」
そう言って優雅な所作で脇に退き、彼は私たちに道を譲ってくれました。
その先に広がる景色に、私たちは思わず息を呑みます。
もうもうと立ち込める霧がゆっくりと流れていくそこは、周囲に木々が存在しない開けた場所でした。
近くの滝から水が流れ込んでいるのか泉のようになっており、その信じられないほど透明度の高い水質のおかげか、五メートルほど下にある水底までもがくっきりと見えています。
その泉の中央には、巨大な……いわゆる沖縄のマングローブのような樹木がどっしりと根を張っており、水上で無数に枝分かれした太い根が泉を縦に貫き、力強く水底に突き刺さっている様子が見て取れました。
泉の外周から中央の木までは二〇メートルほどの距離がありましたが、まるで木が訪問者を招き入れるかのように根っこの一部を水平に伸ばし、陸地までの橋が架けられています。
ここが私たちの目的地、通称『囁きの洞』。私たちがこれから進むべき道を知っているかもしれない、とある魔族が住んでいると言われている場所です。
ふぅ、良かった。こんな方向感覚も一瞬で消えてなくなりそうなジャングルの中で、一度も迷うことなく目的地に到着できるなんてラッキーですね。流石はロヴェロさん、できる男です。
私たちは泉の中央に鎮座する木へと近づくため、そこから伸びる絡まり合った太い根に足をかけます。
思いのほか丈夫な根は揺れを感じさせることもなく、無事に中央の木まで辿り着くことができました。
マングローブのような木を見上げると、なるほどその表面にはところどころ洞が空いていて、その穴の中に何かが潜んでいてもおかしくない雰囲気です。
「あの~、すみませーん!」
とりあえず手始めに、呼びかけてみることにしました。あのいくつも空いた洞のどこかに住んでいるのか、はたまたいつもはどこか別のところにいるのかは知りませんが……まぁ呼びかけておいて損はないでしょう。
私が声をかけてから、一〇秒……二〇秒……三〇秒が経過し、もしかして今は留守なのかな? なんて思い始めた頃。
『おやまぁ、これはまた珍しいお客様だことだねぇ』
突如、目の前にそびえる木の、そのどこかにある洞の中から声が響きました。
その声は囁くように小さな掠れた声で、その声質から年齢や性別などを判じることは難しそうです。
『人間と、獣人と……それからよくわからないのも混じっているねぇ』
その囁き声は少しだけ愉快そうな声色で、そんなことをのたまいました。
その『よくわからないの』って、私のことじゃありませんよね? 私は正真正銘どこから見ても一般的で疑いようもなく人間ですもんね? ね?
私が見えざる声の主に対しモヤモヤした感情を温めていると、そこで傍らに佇むロヴェロさんがそろりと挨拶を切り出しました。
「お初にお目にかかります。我々は人族領―――」
『人族領ヴェリシオン帝国は首都、ベオラントにおわすヴェルハザード・バルド・ベオラント皇帝陛下の勅命により参上した……なんて誰でも知ってるようなことなら、説明は不要だよ』
こちらの言葉をいともたやすく先回りしてみせたその愉快気な声に、ロヴェロさんは「流石ですね」と声色一つ変えずに微笑みました。
この相手が普段どのような生活を送っているのかは知りませんが、私たちがどういった集団であるのかをあっさりと言い当てたその情報網に、私は舌を巻いてしまいます。
なるほど。魔族随一の『情報屋』という肩書きは、伊達ではないようですね。
そう、今回私たちがここを訪ねたのは、聞き込みの中でこの情報屋の存在を耳にしたからです。
対価さえ支払えば大抵のことは教えてくれるのだというこの囁き声に、ロクスウォードやヨナルポカの動向について訊ねるためやってきました。
と、その前に……ロヴェロさんは、担いでいた布袋を木の根元に降ろします。
この袋には獣人たちが食用として捕まえてきた動物が数匹ほど入っており、これが情報を得るための対価なのだそうです。
「単刀直入にお聞きします」
『ロクスウォードとかいうのが何を目的としてどこにいるのかっていう具体的な情報は知りゃしないね。なぜなら向こうが私の観測を警戒しているからさ。大方、向こう側についてる魔族が入れ知恵したんだろうねぇ。私が知ってることは、すでにアンタらが頑張って調べたことと大差ないさね』
囁き声はあっけらかんとそう言うと、『ああ、でもねぇ』と言葉を続けます。
『アンタらが一緒に調べてるヨナルポカっていう魔獣。そいつが少し前にここを訪ねてきてねぇ。だから大体どのあたりに向かったのかっていうのは知っているよ』
「!」
ケイリスくんに抱かれる私のすぐ前で、レジィの尻尾がピンと強張りました。
そっか、多くのことを知ってる便利な情報屋だからこそ、ヨナルポカという魔獣の方も同じく利用しようと考えたんですね。
そしてヤツが訊ねた問いを知れれば、必然的にその目的も推し量ることができるでしょう。
私たちが無言でその先を促すと、囁き声はフッと笑うようにしてその先を続けました。
『ヨナルポカが訊いてきたのは、“ルミニテ”の場所さ』
「るみにて?」
『なんだい逆鱗の竜、知らないのかい。……ああいや、人族には“魔神の渦”って言った方が馴染みがあるかもしれないねぇ』
魔神の渦……って、たしか勇者信仰の神話に出てくる名前だったでしょうか。
魔神の邪悪な力の吹き溜まり……かつて魔物が誕生した要因とされている場所というか、自然現象みたいな存在だと聞きます。
しかしそんなものが実在するなどとは聞いたことがありませんし、レジィやネルヴィアさん、ケイリスくんも疑問符を浮かべていました。
唯一、ロヴェロさんだけはその眉間に深い皺を刻み込んで沈黙していましたが。
『“魔神の渦”という存在……いやさ概念こそ多くの人族や魔族も知っているだろうけどね。その実在や、ましてや場所なんてものを知っているヤツなんて、そうはいまいよ。そして件のヨナルポカは、どこからかそのことを知って、私に場所を問うてきたってわけさ』
「貴方は、その“魔神の渦”の場所をご存知なのですか?」
『私も自信をもって答えられるのは、三つが限度だがね。それも私自身は実際にその場所を訪れたことも無ければ、その実在を確認したこともない。ではなぜその場所が“魔神の渦”だと言い切れるのかと問われれば、その根拠は門番の存在に他ならないねぇ』
なにやら随分と雄弁に情報を語ってくれる情報屋に、私は少し疑問を抱きました。たかが動物の捧げものくらいで、ここまでの重大情報を次々と漏らしてしまって良いのか……と。
するとそんな私の心の声が聞こえたわけでもあるまいに、情報屋はその答えをくれました。
『やれやれ。そこにある程度の供物じゃ、本来は“魔神の渦”が実在するかどうかすら答えてやるわけにはいかないんだけどねぇ。まぁでも、ヤツらの準備が整えば、それこそ再び戦争が始まっちまうだろうからね。それを止めようとしてるアンタらに協力するのも吝かじゃないさね』
「ご協力感謝いたします」
顔色一つ変えず感謝の言葉を投げかけたロヴェロさんに、囁き声は『ふんっ』と鼻で笑いました。
なるほど、だからここまで協力的だったというわけですか。大事な商品を随分あっさりと教えてくれるものだと思っていましたが、それなら納得です。戦争を望んでいる魔族ばかりでもありませんからね。
『まぁいいさ。それでヨナルポカに教えた“魔神の渦”の場所だがね。結論から言うと、あんまり適当なことを吹き込んで後で暴れられても困るから、実際に“魔神の渦”なんじゃないかって噂されたこともある、怪しい場所を教えた。私の知ってる三つの場所と比べれば情報の信憑性はずっと低いが、それでももしかすると本当に“アタリ”を引くってこともあるかもしれない。そんな場所さね』
「教えたのはいつ頃でしょうか?」
『さぁ、結構最近だったと思うがね。ちょうど獣人族の長が殺されてから、少しした頃だったか。でもヨナルポカが“魔神の渦”の力を手に入れたって話は、未だに聞かないね。アレの性格なら強い力を手に入れれば、すぐにでも暴れて見せびらかすはずさ。それがないってことは、きっとまだ“魔神の渦”の場所の特定か、あるいは門番の攻略に手間取っているんだろうさ。あるいは“ハズレ”だったか、門番に敗れてくたばったか』
最後にそんなことを言いながら、囁き声はクツクツと笑みを零しました。
ヨナルポカは魔族の中でもそれなりの実力があると聞きます。そんなヨナルポカでさえ、長期間探し回らなければ見つけられないものなのでしょうか?
魔族は結構短気ですから、ちょっと探して見つからなかったら再びここを訪ねそうなものですけどね。それさえ無いということは、場所の特定自体はできているとか? というか“門番”ってなんでしょう?
『いいかい、“魔神の渦”っていうのは、言うなれば魔力の源泉だよ。本来であれば人族も魔族も、両手でひと掬い程度のわずかな魔力しか持っていないものさ。開眼を持った魔族だって、大した差はない。けれど“魔神の渦”はそれこそ無限に湧き出す大きな泉。接触すれば、本来の上限を遥かに超えて、常識を逸脱した力を得ることだってできるとされているのさ』
「じょうしきを、いつだつしたチカラ……?」
『そうだよ逆鱗の竜。アンタはつい最近戦ったことがあるはずだよ、その筆頭とも言える存在とね』
囁き声が言ったその言葉に、私は少し考えてから、ハッと顔を上げます。
まさか、エクスリアとネメシィのこと!? あの二人……正確には一人ですが、あの子たちも“魔神の渦”とかいうのと接触して、あのあり得ない力を手にしたというのでしょうか。
だとしたらこれはとんでもないことです! あんな神話級の魔族がぽんぽん量産されようものなら、あっという間に世界は滅亡してしまうことでしょう。
そんな私の焦りと危惧は、しかしながら直後に『まぁあそこまでの力を持つのは、ハッキリ言って異常だけどね』という補足で否定されましたが。
なんでもエクスリアが以前、遊び感覚でボコったという竜王とやらも、“魔神の渦”に接触して能力を得たクチだとのこと。たしかに竜王も常識破りな強さらしいですが、それでもエクスリアたちと比べたら赤子も同然なんだとか。それを聞いてちょっと安心しました。
するとそこで、今まで黙っていたネルヴィアさんが、恐る恐るといった風に口を開きました。
「あのぅ……そんなに凄い場所があるのなら、もっとたくさんの魔族がその場所を知っていて、利用しているものなのではないでしょうか……?」
『そりゃそう思うのも無理ないがね。まず“魔神の渦”は基本使い捨てなのさ。一度誰かが利用したら魔力が霧散して、再び実用的な魔力が溜まるまでには途方もない時間がかかるらしい。次に、そんな素晴らしい場所があると知ったとして、魔族がいちいち競合する他者に教えるかい?』
「……なるほど」
『なにより“魔神の渦”にはほとんどの場合“門番”と私が呼んでいる、よくわからない生物や罠が仕掛けられていてね。“魔神の渦”に近づくことすら命懸けになるってわけさ。しかも死ぬほどの思いをしてやっと門番を突破しても、数十年前に誰かが利用した“魔神の渦”だったら完全な無駄足だ。魔力が溜まるまでには数百年単位はかかるらしいからね』
なるほど、美味しい話には相応のリスクがあるというわけですね。そりゃあ“魔神の渦”とやらの存在を知ったとしても、実際にその力を得ることができる魔族がほとんどいないのも頷けます。基本的に個人主義である魔族が、一人しか力を得られないことのために命懸けで協力し合うとも思えませんし。
しかしそうなると、情報屋が場所を押さえているという三つの場所よりも、むしろヨナルポカが向かっている場所の方が、成算は高いということにならないでしょうか?
この情報屋でさえも存在を確信できないのなら、それは他の魔族たちにしても同じことでしょう。万が一ここが“アタリ”だった場合、急がないと危険かもしれません。
「それで、そのばしょは……?」
俄かに焦りを含んだ私の問いに、真剣味を増した囁き声が答えました。
『“獣王の陵墓”、だよ』




