1歳11ヶ月 5 ―――ヴィーニャとセフィ
私はヴィクーニャちゃんを再びお姫様抱っこすると、「いくよ」と声をかけてから飛び立ちました。
風を操りながら帝都の空を移動していると、さっき飛んでいた時は私にしがみつくので精いっぱいだったヴィクーニャちゃんは、周囲の景色に目を向けるだけの余裕ができたみたいです。
私は少し気を利かせて、帝都の夜景を一望できるくらいまで高度を上昇させました。すると視界の端で、ヴィクーニャちゃんが息を呑むような気配が感じられます。
そちらへ目を向けると、ちょっぴり頬を紅潮させたヴィクーニャちゃんと目が合いました。すでにその表情には、恐怖の感情は見受けられません。
私は彼女を抱く手に少しだけ力を込めながら、口を開きました。
「綺麗だね」
「……えっ」
「帝都の夜景。あの光のひとつひとつに、ここに住む人たちの暮らしがあるんだよね……」
私の言葉を聞いたヴィクーニャちゃんは、ハッとしたように私たちの眼下に広がる景色へ目を向けました。
「ね。綺麗だと思わない?」
「……綺麗だとか、そういうのはやっぱりよくわからないわ。でも、さっきからすごく心臓がうるさいの……なのに不思議と嫌じゃない……なんだか、変な感じ」
「きっとそれ、ヴィクーニャちゃんが感動してるってことだよ!」
「そう……なのかしら? これが、『綺麗』なの?」
私だってそんなに感受性があるわけでもありませんが……それでも美しい景色を見て感動した時は、そんな風にドキドキしていたように思います。
「これが、魔術師の見る景色だよ。ヴィクーニャちゃんも魔法が使えるようになったら、いずれ自分だけでこんな景色を見ることもできるんじゃないかな」
「私だけで……?」
「うん。いつかきっとそんな日が来るよ」
「……それは、あまり『綺麗』じゃないわね」
「え?」
私はヴィクーニャちゃんと言葉を交わしながら少しずつ高度を落としていき、やがてベオラント城の八階……塔のような形をした建物の、開け放たれたままになっている窓から、ヴィクーニャちゃんのお部屋に降り立ちました。
腕に抱いていたヴィクーニャちゃんの体重を元に戻しながら、まだ少し興奮気味な彼女をそっと下ろしてあげます。
「今日はもう遅いから帰ろうと思うけど、明日からヴィクーニャちゃんの都合のいい日は、私がこのお部屋に来て魔法を教えてあげるね」
「…………」
「ヴィクーニャちゃん?」
なんだかふわふわした足取りで、部屋の隅……ベッドの隣にある勉強机へと歩いて行くヴィクーニャちゃん。どうやら私の声も耳に入っていない様子の彼女は、机に置かれていた“天秤”にそっと手をかざしました。あれはたしか、ヴィクーニャちゃんが重量操作魔法を練習するために用意したものです。
私は怪訝に思いながらも、彼女の集中を邪魔しないように足音を忍ばせながら近寄りました。
室内の壁に掛けられた弱弱しい照明にぼんやりと照らし出される室内は、耳の痛くなるような静寂に包まれています。
そんな空間に、ヴィクーニャちゃんが息を吸い込む微かな音が聞こえてきました。
そして……
「『勅命』」
囁くようなヴィクーニャちゃんの声が響いた、その直後―――彼女が手をかざしていた天秤が、カタンと音を立てて傾きました。
「えっ!」
私とヴィクーニャちゃんの声が重なり、私たちは傾いた天秤に視線を注ぎます。
天秤の上には何も載っておらず、ついさきほどまでは水平が保たれていたように見えました。それが、ヴィクーニャちゃんが魔法名を唱えた瞬間、明らかに不自然な勢いで傾いたのです。
ヴィクーニャちゃんはしばし呆気に取られて固まっていましたが、やがて我に返った彼女は沈んだ方の天秤皿に手を触れて、その重みを確かめているようでした。
それから彼女はゆっくりとこちらを振り返ると、
「お……重くなってる……魔法が、成功した……?」
彼女の呟きに私が目を見開くのと同時に、ヴィクーニャちゃんは彼女の背後に立っていた私の胸へと、勢いよく飛びかかってきました。あまりに突然だったため反応できなかった私は、そのまま後ろにあったベッドに押し倒されてしまいます。
ちょっと痛む胸に顔をしかめながら私が首を起こすと、すぐ目の前に瞳をキラキラと輝かせたヴィクーニャちゃんの可愛らしいお顔がありました。
彼女は堪えきれないといった風に顔を紅潮させながら、興奮を隠そうともしない震えた声で叫びます。
「できた……できたわっ!! 魔法が発動したわ先生!!」
そう言ってヴィクーニャちゃんは、私の胸に抱き付いたまま顔をこすり付けてきました。その様はとても愛らしくて、まるで人懐っこい子猫のようです。
しかし、本当に魔法が……? いえ、ヴィクーニャちゃんの言葉を疑うわけではありませんし、私も目の前で見ていたわけですが……今までまったく発動しなかった魔法が、あまりにも唐突に発動したことに面食らって、感情が追い付いて来なかったのです。どうして急に、というのが率直な感想でした。
ヴィクーニャちゃんはそんな私の戸惑いを知ってか知らずか、その疑問を先回りするような説明をしてくれます。
「なぜかしら、今この部屋に帰ってきた時、なんとなく“今ならきっとできる”と思えたの! 今まで魔法を使おうとするときは、“どうせできない”という考えがどうしても頭から離れなかったのに……さっきは違ったのよ!」
ヴィクーニャちゃんの言葉を聞いて、私はなるほどと納得できる部分がありました。
彼女は自信家のように見えて、じつは結構卑屈な性格であることが先ほど発覚しました。実際は全然そんなことないのに、ヴィクーニャちゃんは自分がダメな人間だと思い込んでいる節があったのです。
ですからもしかすると、その“どうせできない”という思いがブレーキになって、魔法の習得を妨げていたのかもしれません。
そしてそこにはもちろん、魔法を早く習得しなくてはという焦りも含まれていたことでしょうから、今までのヴィクーニャちゃんは他の生徒たちに比べて、精神的に万全な状態ではなかったと言えます。
そしてもう一つ私が考えたのは、さっきまでの空中散歩が功を奏したという可能性でした。
彼女が操ろうとしていたのは重量を操る魔法であって、そしてさっきまで私は、彼女の体重を何度も増やしたり減らしたりしていました。それによって無意識で重力に対する理解が深まり、魔法の習得に一役買ったのかもしれません。
実際のところ、何が原因だったのかまではわかりませんが……それでもヴィクーニャちゃんが念願の初魔法を発動できたということには変わりありません。
私はやや遅れて、ふつふつと喜びが胸の奥からこみ上げてくるのを感じました。
そしてよっぽど嬉しかったのか私の胸に抱き付いて離れないヴィクーニャちゃんを、私も思いっきり抱き返します!
「おめでとう、ヴィクーニャちゃんっ!! すごい、すごいよっ!!」
「ふふん、この私にかかれば、これくらい当然よ!!」
ヴィクーニャちゃんは普段なら絶対に見せないような、歳相応に無邪気な笑みを浮かべます。
そんな彼女の表情に釣られて私も思わず表情を綻ばせながら……しかしどういう感情の発露によるものか、私の目元には涙が滲んできました。
「本当にすごいよ……よく頑張ったね、ヴィクーニャちゃん」
感極まった私がヴィクーニャちゃんの黒曜の髪を優しく撫でてあげると、彼女はハッとしたような表情になって私の上から飛びのくと、ほんのり頬を染めました。
「……わ、私ったら、はしたないことを……」
残念ながら我に返ってしまったらしいヴィクーニャちゃんは、赤くなった顔をちいさな手でパタパタと扇ぎながら、チラリと私に目を向けてきます。
「先生……いいえ、セフィリア」
「え?」
「そ、その……二人きりの時は、私を“ヴィーニャ”と呼ぶことを許可するわ……」
“ヴィーニャ”って……たしか、いつも陛下がヴィクーニャちゃんを呼ぶ時の愛称ですよね?
ヴィクーニャちゃんはプイッと顔を逸らしながらぶっきらぼうにそう言うと、ちらちらと私のことを横目で窺ってきました。
なんだかその仕草が妙に愛らしくって、私は思わず吹き出してしまいます。
するとそんな私の反応でさらに顔を真っ赤にしたヴィクーニャちゃんは、私に何事かを抗議しようと口を開きかけましたが……私はそんな彼女の機先を制するように、とびっきりの笑顔を浮かべました。
「これからもよろしくね、ヴィーニャ! それじゃあ私のことは、セフィって呼んでもいいよ!」
すると私の言葉を受けて、ヴィクーニャちゃんはとても驚いた様子で目を丸くさせると、
「……どっ、どうしてもと言うのなら……考えてあげても良いわ」
そんな素直じゃない言葉を返して……けれども彼女は、とても嬉しそうに微笑むのでした。




