1歳11ヶ月 4 ―――なりたい自分
私に抱えられているヴィクーニャちゃんは、「ひぅぅ……!」と か細い声を漏らしながら私の首へ必死にしがみついています。
ヴィクーニャちゃんの現在の体重はほとんどゼロなので、たとえ私が上空でポイッと捨てたとしても怪我はしないと思いますが。
ヴィクーニャちゃんが私の肩におでこを押し付けながら震えているので、私は一度どこかへ着地して彼女を落ち着かせることにしました。
「大丈夫、怖くないよ」とヴィクーニャちゃんの頭を軽く撫でてあげながら、私は適当な人気のない場所を探して周囲を見渡します。
そして真っ先に視界に入ってきたのは、帝都外周をぐるりと囲うようにそびえている、巨大な防壁でした。
緩やかな自由落下をやめた私は風を操ると、外周防壁までひとっ飛び。防壁の頂上にふわりと着地して、ヴィクーニャちゃんの体重を元に戻しながら降ろしてあげます。
すると彼女は「はうっ……」と小さな声を漏らしながらよろめいて、私の腰にしがみついてきました。どうやら腰が抜けちゃったみたいです。
「ヴィクーニャちゃん、大丈夫?」
「と、当然よっ……『湖上都市』の領主であるこの私が、これくらいで……!!」
ガクガクと足を震わせて私に縋りつくヴィクーニャちゃんは、涙目になりながら明らかな強がりを発しました。
そんな彼女の様子をしばし眺めていた私は、周囲をざっと見渡します。ここには防壁の上から外敵を攻撃するための通路が敷かれており、兵士が腰かけて休むための椅子も等間隔に配置されていました。
私はヴィクーニャちゃんに手を貸してあげながら、彼女を椅子に座らせます。それからその隣へ寄り添うようにして私も座ると、強く握りしめられている彼女の拳にそっと私の手を重ねました。
「ここには誰もいないし、誰も来ないよ。それにここで起こったことは誰にも言わない。……だから強がる必要はないんだよ」
「でも……」
「怖かったら怖いって言えばいいし、辛かったら辛いって言えばいいんだよ。大公女殿下として、領主として、いろいろなしがらみもあるんだろうけど……私を相手にそんなことは気にしないで。―――私を、信じて」
「ね?」と優しく呼びかけながら、私は彼女の手を両手で包み込みました。
ヴィクーニャちゃんの目をまっすぐにジッと見つめる私に、彼女は少しだけ不安げに瞳を揺らしながら、
「い、いきなり窓から飛び降りるなんて、非常識にも程があるわ……」
「……うん。そうだったね」
「先生の腕前は信用しているし、死んでしまうとは思わなかったけれど……それとこれとは話が別だわ。とっても、怖かったんだから……」
「ごめんね、ヴィクーニャちゃん」
「本当よ。本当に……もう、ばかっ」
ヴィクーニャちゃんが軽く振り上げたちっちゃな手が、私の肩をぺちっと叩きました。
そしてなぜかヴィクーニャちゃんは頬をほんのりと赤らめて、それから私の反応を恐る恐る窺っているようでした。
だから私は、できるだけあっけらかんとして見えるように頬を掻きながら、「えへへ、ごめんね」と謝罪します。
そんな私の反応を見て、ホッとしたように小さく息をついたヴィクーニャちゃん。私たちはどちらからともなく噴き出すと、“先生と生徒”や“大公女と男爵”としてではなく、もっと近しくて気の置けない関係性として、無邪気に笑い合いました。
しばらくして笑いが収まった頃、私は少しだけ声のトーンを落としてヴィクーニャちゃんに語りかけます。
「ねぇ、ヴィクーニャちゃん。学校のことだけどさ、もう一度……んむっ!?」
私がちょっと気の利いたことを真面目な雰囲気で話し始めようとしたところ、ヴィクーニャちゃんはおもむろにこちらへ腕を伸ばして、人差し指を私の唇に当ててきました。
「答えは決まっているの。お願い、私から言わせてちょうだい」
驚いて口を噤む私に、ヴィクーニャちゃんは少し恥ずかしそうにしながら眉尻を下げて、口を開きます。
「さっき先生が一度帰ってしまったあと……ひどく後悔したわ。貴方に見限られてしまったと思って、胸がとても痛くって……涙が止まらなかった。あの学校にいたのは短い間だったけれど、私が思っていた以上に、私はあの場所が……好きだったみたい」
「……ヴィクーニャちゃん」
「だからもう一度先生が来てくれた時、とても嬉しかったわ」
そう言ってはにかんだヴィクーニャちゃんは、「窓から来るのは勘弁してほしいけれどね」と苦笑しました。
そしておもむろに立ち上がった彼女は私に向き直ると、
「だから、先生……あらためて私に、魔法を教えてください。お願いします」
ヴィクーニャちゃんは真摯でまっすぐな目をしてそう言うと、深々と私に頭を下げました。
彼女が陛下以外の人間にここまで下手に出たところも、そして敬語を使うところも、殊勝に頭を下げたところも……初めて見た私は非常に驚いてしまいます。
けれども不安げにそろりと顔を上げて私の表情を窺うヴィクーニャちゃんを見て、私はすぐさま我に返って立ち上がりました。
「も、もちろんだよっ! それに私こそ、ヴィクーニャちゃんの不安に気が付いてあげられなくてごめんね……? ヴィクーニャちゃんが望むのなら、これからは私がヴィクーニャちゃんのお部屋まで行って、個人レッスンをしてあげるよ!」
「ふふっ、それじゃあお言葉に甘えようかしら。じつはログナが毎晩個人的に魔法を教えてもらっていると聞いて、羨ましいと思っていたのよ」
ヴィクーニャちゃんの口にした意外な言葉に私は驚きましたが、同時に彼女が今まで表には出せなかった気持ちを打ち明けてくれたことを、とても嬉しく思いました。
それから彼女は少し目を伏せると、ここではないどこかを見ているような遠い目をして口を開きます。
「こうして叔父上以外の誰かに頭を下げることなんて、初めてだわ。それに人前で声を出して笑ったり、涙を流したり、そういったことも許されなかった。私は大公女だから……」
「そう、なんだ……。でも、ここでは誰もそれを責めたりはしないでしょ? 誰かに指図されて従うんじゃなくって、ヴィクーニャちゃんが正しいと信じることをやって、ヴィクーニャちゃんがなりたいと思える自分になればいいんだよ」
確かにヴェルハザード皇帝陛下は、人前で声を上げて笑うところや泣くところなんて想像ができません。それに皇帝陛下ともあろう方が、無闇に頭を下げることもできないでしょう。そういう意味では、ヴィクーニャちゃんの受けている教育は正しいと思います。
ですが彼女が、否応なく置かれてしまった立場に縛られ、自分を殺して無理をしながら生きていくだなんて見過ごせません。それが貴族に生まれたが故の使命だなどと言われたって、納得もできません。
すると私の言葉を受けて、少し考え込んでいる様子だったヴィクーニャちゃんは、ふっと小さく笑みを零しました。
「……その通りだわ。多くの人と接して、多くの景色を見て、多くの経験を積んで……自分自身で答えを出さなくてはね」
「うん、そうだよ! 無理はしないで、自分なりの答えを見つけてね! きっとヴィクーニャちゃんが出した答えなら、みんなついて来てくれるよ!」
「ええ。ちょうど“誰かさん”のおかげで、泣いたり笑ったり、怒ったり頭を下げたりしても……実力や魅力がきちんと備わっていれば、多くの人が心から慕って、後に続いてくれるということも知ることができたから」
……誰かさん? それって誰? なんとなくヴィクーニャちゃん自身もその人を慕っていそうな口ぶりですけど……
ともあれ、ヴィクーニャちゃんは悩みが吹っ切れたような清々しい表情を取り戻していました。
それを見届けた私も喜びと充足感で胸が満たされていくのを感じながら、私は再びヴィクーニャちゃんの背中に腕を回しました。彼女はそれで私の意図を察したのか、私の首に腕を回して、そっと寄り添ってきます。
「また飛びますけど……怖いですか、お姫様?」
私が悪戯っぽく微笑みながらそう言うと、ヴィクーニャちゃんはいつものドヤ顔を浮かべながら、
「……そんなわけないでしょう? 私を誰だと思っているのかしら」
どうやら弱気になっていた心は、すっかり立て直せたようです。
また同じことを繰り返さないよう、今後はヴィクーニャちゃんのことも注意深く見てあげないといけませんね。
まったく、うちの子たちは世話が焼けます!




