1歳11ヶ月 3 ―――シャル・ウィ・ダイブ
「……ヴィクーニャちゃんの言い分はわかったよ。とりあえずわたしは、いったん帰るね」
嗚咽を漏らして涙を拭っていたヴィクーニャちゃんは、泣き腫らした目で私を見つめてきました。
その金色の瞳がひどく心細そうな光を宿していたのを、私は敢えて気が付かないフリをして立ち上がります。
「それじゃあ、またね」
私はヴィクーニャちゃんの部屋の扉までフワリと飛んで行くと、何か言いたそうにしながら唇を噛んでいる彼女を置いて、そのまま部屋の外へと出ました。
それから歩き出そうと視線を上げると、廊下の奥に黒髪の男性を見かけます。一瞬何かの見間違いかとも思いましたが、壁に背を預けて腕を組んでいた彼は、やはりとても見覚えのある人物でした。
狼のような鋭い目つきに、ヴィクーニャちゃんと同じ金色の瞳。この帝国の頂点に君臨するヴェルハザード皇帝陛下が、逆立つ長い黒髪をなびかせながらこちらへと歩いてきます。
驚きつつも私がその場に跪くと、陛下はそれを「よい」と簡潔に制してから声をかけてきました。
「どうだ、ヴィーニャの様子は」
「だめですね。だれかさんに似て、こうと決めたらゆずりません」
「何者だ、その誰かさんというのは」
「だれでしょうね」
私はちっちゃな肩を竦めて立ち上がると、そのまま陛下の脇を通って廊下を進んでいきます。
陛下はヴィクーニャちゃんの部屋の扉と私を交互に見てやや逡巡してから、少し遅れて私の後をついてきました。
「ヴィーニャを退学にするつもりか?」
「まさか。どこかの過保護なだれかさんを敵にまわすつもりはありません」
「だから何者だ、その誰かさんというのは」
体重を無くしてふわふわと廊下を進んでいく私の隣で、つかつかと早足で歩く陛下が怪訝そうな表情を浮かべます。
そして心配そうにしている陛下をチラリと振り返った私は、彼を安心させるように薄く微笑むと、
「ヴィクーニャちゃんは、わたしのたいせつな生徒です。ぜったいに見捨てたりなんてしません」
私の言葉を受けた陛下は少しだけ目を見開くと、それから嬉しそうに目を細めました。
「うむ。任せたぞ、セフィリア」
一度屋敷に戻ってから準備を整えた私は、すぐにヴィクーニャちゃんのお部屋を再び訪れました。
私が何度も辛抱強くノックしていると、彼女はかなり驚いた様子でこちらに歩いて来て、それから呆れたような顔で窓を開けてくれました。
「その髪色……もしかして、先生かしら?」
「あれ? こんな姿なのに、よくわかったね?」
「城の八階にある部屋の窓を外からノックできるような人間は、この帝国に五人と居ないわよ……」
ヴィクーニャちゃんが開けてくれた窓からフワリと入室した私は、ヴィクーニャちゃんより頭半分ほど低い目線で彼女を見つめてから、くるりと一回転して見せました。
「どう? 魔法でヴィクーニャちゃんとおんなじくらいの歳になってみました」
「……そうね。とうとう年齢まで変え始めたのね」
「あれれ、反応薄いね? もっとびっくりされるかと思ったんだけど」
「今さら先生がどんなことをしたって、驚かないわよ……」
なぜか頭を抱えているヴィクーニャちゃんに、私は小首を傾げました。ひどいなぁ、人を怪物か問題児みたいに言って。
そんな私の反応を見て、さらに深々と溜息をついたヴィクーニャちゃんは、不機嫌そうな……しかしどこか嬉しそうな、そわそわとした態度で私に向き直ります。
「……先生、ついさっき帰ったばかりじゃなかったかしら?」
「『いったん帰るね』って言ったじゃない。この姿になって、着替えるために屋敷に戻ったんだよ」
「何をするために戻ってきたというの?」
「うん、それなんだけどね」
私はもったいぶって一拍ほど溜めてから、とびっきりの笑顔で言い放ちました。
「ヴィクーニャちゃん、ちょっとこれからお散歩に行こう!」
そう言って彼女へ手を差し伸べる私に、ヴィクーニャちゃんはたっぷり数秒ほど固まった挙句、
「……は?」
わけがわからないといった風に、彼女は素っ頓狂な声を上げたのでした。
私はヴィクーニャちゃんが正気に戻る前に彼女へと急接近……それから瞬時に彼女の腕を掴んで体重を減算すると、そのまま彼女を引き寄せてお姫様抱っこしました。
目を丸くさせて「えっ、えっ?」と慌てている彼女に構わず、私はそのまま開けっ放しにしてあった窓から躊躇なく外へと飛び降ります!
「嘘っ……!? きゃあああああっ!?」
「あははははっ!」
地上数十メートルの高さから飛び降りるという行為は、空気抵抗によって落下速度が軽減されているとはいえ恐ろしいもののようです。
思えば私は頻繁に上空を飛行しているので慣れていますが、普通の人にとってはトラウマになりかねない行為だったかもしれません。
ヴィクーニャちゃんが悲鳴を上げたせいか、背後のお城から『ヴィクーニャ殿下!?』とか『殿下が攫われてる!!』とか『セフィリア貴様ァー!!』という声が聞こえた気がしましたが、私はきっと気のせいだろうと思うことにしました。ええ、陛下の声なんてまったく聞こえませんとも。




