1歳10ヶ月 4 ―――約束
「……もうおわりでいいよね?」
そう訊ねながらも、すでに戦いは終わったつもりでいた私は肩の力を抜いていました。
……だからこそ、地面に足をめり込ませながらこちらへ走り始めたアイルゥちゃんに気が付いた瞬間、私はかなり驚いてしまったのです。
「……っ!!」
私はアイルゥちゃんに向けた指を、クイッと下に向けました。それだけでアイルゥちゃんを襲う重力は三倍から五倍となったはずですが、しかし彼女の猛進は速度が落ちただけで、引き続き地面に足を突き刺しながらこちらへ駆け寄ってきます。
う、嘘でしょ……? 仮に体重が四〇キロであれば、二〇〇キロもの負荷がかかる超重力空間だっていうのに……その中を走るってどういうことですか!? いくら血液とか臓器は対象から除外しているとはいえ、この空間を走ってくるだなんて……!
私はもう思い切って、重力を十倍に設定しました。普通の人間であれば骨が軋み、呼吸に差し支えるほどの重力です。
さすがにこれは堪えたのか、私の目の前まで迫ってきていたアイルゥちゃんは足を止めて、軽い地響きを立てながら膝をつきました。それだけで地面に亀裂が走り、手足が深くめり込んでいきます。
「……もう、やめよう? これいじょうやったら、さすがにからだがこわれちゃうよ……」
私はアイルゥちゃんの身体を気遣ってそんな提案をしてみますが、やはり彼女は聞く耳を持ってはくれないようです。
それどころか歯を食いしばって、重い手足を引きずり、再び立ち上がろうとしています。
「おおォ……オオオオオオオッ!!」
死力を振り絞った雄たけびを上げるアイルゥちゃんは、およそ足音とは呼べない“ズガンッ!!”という轟音を響かせながら地面を踏み砕き、立ち上がります。
「どうして……そこまで……」
思わず漏らした私の呟きに、猛獣のような荒い呼吸を繰り返すアイルゥちゃんが答えることはありませんでした。
代わりに彼女が踏み出した左足が、立ち尽くす私のすぐ目の前の地面に突き刺さります。ギシギシと不穏な音を響かせるアイルゥちゃんの右腕が、私に狙いを定めて振り上げられました。
私は自分の服の胸元をギュッと握りしめながら、迷いを振り切るように口を開きます。
「……十五倍」
今まさに右腕を振り下ろそうとしていたアイルゥちゃんが、ぐしゃりと地面に叩きつけられました。
今度こそ膝立ちで耐えることもできずに地面へ倒れ込んだ彼女は、「げぅ……がっ……」と苦しげな呻き声を漏らすくらいしかできないようです。おそらく呼吸さえもギリギリなのでしょう。
そのあんまりな状態を見ていられなくなった私は思わず目を逸らし、さすがに決闘の終わりを告げようとしたのですが……
ズンッ、という地響きに振り返った私は、思わず絶句してしまいました。
信じられない思いで私が見下ろした先には、地面に左腕を突き刺し、額を擦りつけながら、まだ立ち上がろうとしているアイルゥちゃんの姿があったのです。
「ぐぅ、ぅぅううううッ!!」
「ちょ、ちょっと! さすがにもう……」
「まだだ……まだッ……!!」
アイルゥちゃんの震える声に驚いてよく見ると、彼女は大粒の涙をポロポロと零していました。
もはや泣き声なのか雄たけびなのかわからない絶叫をあげながら懸命に立ち上がろうとする彼女の痛々しい姿に、さすがに外野としてこの決闘を見守っていたレジィも口を挟みます。
「おい、アイルゥ! もうやめろって!」
「まだ私は……私は……!!」
「なんでそんなに……。ご主人に勝てる奴なんていないんだよ!」
レジィの必死な呼びかけにも聞く耳を持たず、震える両腕で立ち上がろうとしているアイルゥちゃん。
彼女はくしゃくしゃに表情を歪めて泣きながら、絞り出すように悲痛な声を漏らしました。
「勝てないことくらい、わかっている……!! でも……約束……したではないか……! あの里を捨てた時、“約束”したではないかぁ……!!」
その声を聞いたレジィはハッとしたような表情を浮かべると、目にも止まらない速さで私とアイルゥちゃんの間に割り込みました。
アイルゥちゃんを背中にかばうようにして立ち塞がったレジィは、縋るような瞳で「ご主人……!」と私に呼びかけてきました。
もう……そんなに睨まなくたって、わかってるよ。
私は即座にすべての魔法を解除して、アイルゥちゃんにかかる重力を元に戻しました。
「かはっ……!? ぜぇ、はぁ……げほっ、けほっ!!」
内臓を押し潰すような圧力から解放され、苦しげに息を切らせるアイルゥちゃん。
そんな彼女の身体を仰向けにさせたレジィは、彼女の背中にそっと手を回して上半身を抱き寄せました。
「バカだな……約束、忘れるわけないだろ」
「……!」
「族長の仇は絶対に探し出してぶっ飛ばす。その時はアルにも声をかける。……約束は守るよ」
「レジくん……」
「ちゃんと話してくれれば、ご主人と戦う必要なんてなかっただろうが。ったく、無鉄砲は相変わらずだな」
涙で濡れたアイルゥちゃんの頬を、レジィは手のひらで乱暴に拭ってあげました。
私とレジィが出会う少し前、獣人族の族長が魔族の何者かに殺害されたという話は私も聞いています。そしてアイルゥちゃんは、その殺された族長さんの一人娘です。当然ながら、じつの父親の仇を許せるはずはないでしょう。
強く、優しく、みんなに慕われていたというその族長さんの仇は、獣人族なら誰もが討ちたいと願っていることでしょう。アイルゥちゃんの幼馴染であるレジィも例外ではありません。
それからレジィは彼女をお姫様抱っこしてあげると、少し申し訳なさそうな目つきで私を振り返りました。
「ご主人……その……」
「うん、わかってる。うちにつれていって、やすませてあげよう?」
私の言葉に、レジィはとても嬉しそうに微笑みました。
それから私は体重を減算した状態でレジィの背中にピタッと貼り付くと、レジィの肩越しにアイルゥちゃんと目を合わせます。
「アイルゥちゃん、いたくしちゃってごめんね?」
「……いや、貴殿が気にする必要は……」
「でもレジィといっしょに仇をさがすのはいいんだけど、そのときはちゃんとわたしもさそってよ? わたしもソイツのこと、ぜったいに許せないし……!!」
怒気のこもった私の言葉に、アイルゥちゃんは「はぇ?」と意外そうに目を丸くさせました。えっ、なんでそこで驚くの? 私の家族の仲間を殺した仇でしょう? だったら私が粛清に出向くのは当たり前じゃないですか。
一方、レジィはわかりきっていたかのように薄く笑うと、アイルゥちゃんに「ご主人はこういう人だぞ」と優しい声色で語りかけました。どゆこと?
いえ、とにかく今はアイルゥちゃんを逆鱗邸へ連れて行って、早く休ませてあげるのが先決ですね。
私は後ろを振り返って、「パッフル、チコレット。ふたりもおいで」と声をかけます。二人は「やった!」と表情を輝かせながら、帝都の関門へと歩き出した私たちに小走りでまとわりついてきました。
帝都の中を獣人族が列をなして歩いているのを見られたら、もしかしてパニックになっちゃうかな……と、私は少し不安を感じていたのですが……
けれども皆さん、レジィの背中に引っ付いている私に気が付いた途端、
「ああ……なんだセフィリア卿か」
「いやーびっくりした……セフィリア様なら仕方ないな」
「逆鱗卿ならいつものことだな」
「あはは、またセフィリアちゃんかい」
「むしろセフィリア様じゃなかったらどうしようかと」
あれ、皆さんちょっと順応しすぎじゃない?




