1歳9ヵ月 10 ―――メルシアの想い(後編)
何事か叫んでいたボズラーさんをリビングへ置き去りにした私たちは、その後 二人でお風呂場に来ていました。メルシアくんが今日はまだお風呂に入っていないらしかったので、せっかくだから一緒に入っちゃおうということになったのです。
この世界の文明レベルでは、浴槽を満たすほどのお湯を用意するのは一苦労です。五右衛門風呂のような装置を用意するのも手間ですし、お湯を適温に保ち続けるのもかなり面倒でしょう。そもそも貴族以外にはあまり湯船に浸かるという習慣も根付いていないみたいですしね。
その点、ある程度腕の立つ魔術師が一人いれば、その辺に転がっている小石から湯船を、水の一滴から大量のお湯を、それもたったの数秒で生み出すことができるのです。
なんなら私くらいになると、『全自動湯船製作機』とか『無限にお湯が出る蛇口』とかまで造れちゃいます。お金の匂いがプンプンしますね。
閑話休題。
仮にも魔術師であり男爵位を叙爵しているボズラーさんですので、お屋敷にはそれなりに広めの浴室が備わっています。
しかし元平民であるボズラーさんには必要性が感じられなかったのか、以前はこのお風呂場に浴槽は存在しませんでした。そこで私がこのお屋敷で泊まった時に浴槽を造ってあげてからというもの、特にメルシアくんはお風呂の虜になっちゃったみたいです。
「かゆいところはありませんかー?」
「えへへ、ないでーす!」
椅子に座るメルシアくんの正面で膝立ちになった私は、メルシアくんの頭をわしゃわしゃと洗ってあげていました。
泡が目に入らないようにギュッと目をつむりながら、楽しそうにニコニコ微笑んでいるメルシアくん。そんな彼の姿はあまりに愛らしく庇護欲をそそるもので、これはボズラーさんがブラコンになっちゃうのも頷けるというものです。
お返しとばかりにメルシアくんも私の背中を洗ってくれるのですが、彼には一切の照れがないようでした。うちのお兄ちゃんだったら、この姿の私と一緒にお風呂に入るなんて絶対に嫌がると思うのですが……メルシアくんはごくごく当たり前に受け入れてくれています。性格でしょうか?
ひと通り身体を洗い終えた私たちは湯船に身体を浸したのですが……そこで私は、以前ルルーさんと一度だけお風呂を共にした際、彼女が私を後ろから抱きかかえるようにして入浴していたことを思い出しました。
しばし考えた末、私は彼の触れれば折れそうな身体にそっと腕を回します。
「……先生?」
私に後ろから抱きかかえられたメルシアくんは、血色の良くなった顔で私を振り返りました。
最初こそびっくりした様子のメルシアくんでしたが、すぐにとても嬉しそうな表情になると、私の肩辺りに頭を預けてきます。
そして浴室特有の残響を伴いながら、メルシアくんの蜂蜜みたいに甘くて優しい声が響きました。
「先生、今日はごめんなさい」
「え?」
突然何のことかと面食らった私でしたが、すぐに私の性別を変えるようにお願いした件についての謝罪だということに思い至ります。
「……ううん、気にしないで。メルシアくんはただ、家族が欲しかっただけなんだよね?」
私が彼の謝罪を苦笑交じりに受け入れると、メルシアくんは彼を抱く私の腕にそっと手を添えました。
「やっぱりボクね、先生といっしょにいると、すごく安心するの……」
「そう? 私もメルシアくんといると、とっても落ち着くよ」
私の返した言葉にちょっぴりはにかんだメルシアくんは、けれども寂しげに目を細めると、
「……お兄ちゃんも、きっとそうだと思うんだ」
そんなメルシアくんの呟きを聞いて、私は「もしかして……」と彼の瞳を覗きこみました。
「メルシアくんが家族を欲しいんじゃなくって、ボズラーさんに家族ができてほしかったの?」
「……!!」
私の言葉にびくりと肩を震わせるメルシアくんの反応は、何より雄弁な回答でした。
しばし目を泳がせて戸惑っていた彼は、けれども観念したように俯くと、
「……お兄ちゃんがあんなに楽しそうに笑ったり怒ったりするようになったのは、先生と……セフィリア様と出会ってからなの」
「え……私? ルルーさんとかじゃなくって?」
「うん。たしかにいつも怖い顔してた昔のお兄ちゃんが、他の人ともお話しをするようになってくれたのは、ルルーお姉さんのおかげだと思うの。でも……お兄ちゃんがボクに、他の人のことをすごく楽しそうに話してくれたのって、先生が初めてなんだよ?」
メルシアくんはそう言って、おうちでのボズラーさんが私のことをどんな風に言っているのかを語ってくれました。
その大半は「またセフィリアが変なことを言い出した」とか「あいつはしょうがない奴だ」とか、傍から聞いているとあまり好意的ではないものばかりです。
けれどもメルシアくんに言わせれば、それらを語るボズラーさんはとても楽しそうなのだとか。
「お兄ちゃんはいっつもボクのことばっかりで、自分のことは後回しなの。ボクのことを大事にしてくれるのはすごく嬉しいんだけど……でも時々、本当にそれでいいのかなって思うことがあって……」
「ボズラーさんがメルシアくんを可愛がるのは、好きでやってることだと思うけど……」
「だけど、じゃあボクが死んじゃったり、どこか遠くに行かなくちゃいけなくなったら、お兄ちゃんが一人ぼっちになっちゃう……!」
……ボズラーさん。幼い弟に、まるで年老いた母親みたいな心配されてますよ。
まぁ完全に身寄りのない状態から騎士修道会に拾われて、ルルーさんくらいしか親しい繋がりがないというのなら心配になる気持ちもわかります。他ならぬルルーさんも、ボズラーさんのことはすごく心配してるみたいですし。
しかしそれでも、まだまだ守られる立場であるメルシアくんには、あまりそんなことは考えてほしくない気もします。ボズラーさんだってきっと同じことを思うでしょう。
ですから私は、メルシアくんの身体に回していた腕にぎゅっと力を込めて、彼を安心させるために努めて優しい声を紡ぎました。
「わかった。ボズラーさんのことは、私に任せて」
「ほんと……!?」
「うん。私もボズラーさんを支えていけるように、できる限りのことはしてみるね。だからメルシアくんは難しいことなんて考えないで、今まで通りお兄ちゃんと一緒にいてあげてね」
私のお願いに、メルシアくんは「うんっ!」と非常に明るい返事を返してくれました。
それから彼は甘えるような上目遣いでジッと私を見つめながら、
「……でもね、ほんとはそれだけじゃないの」
「え?」
「お兄ちゃんにも幸せになってもらいたいけど……ボクも先生と、もっともっと仲良くしたくって……だからこんなお願いしちゃったの」
そう言って、今度は俯きがちにもじもじし始めるメルシアくん。
……もう私は辛抱堪らなくなって、メルシアくんを力いっぱい抱きしめました!
「そんなお願いされなくたって、もっともっと仲良くしちゃうよ~っ! ボズラーさんもメルシアくんも、ずっと大切な仲間だからね!」
大興奮で頬ずりをしまくる私に、メルシアくんは「仲間……う~ん……」と少し考えるように唸ると、
「うんっ! とりあえず、今はそれで!」
満面の笑みで、朗らかにそんなことをのたまうのでした。
“今は”……? 私が首を傾げていると、メルシアくんはクリッとした青い瞳で私のことをジッと見つめて、
「先生、女の子になるのはイヤなんだよね? 先生を女の子にしてってお願いした時、ルルーお姉さんが「あの子が嫌がるでしょうから、一日だけよ」って言ってたから」
「あ、うん……今まで男の子だったから、周りのみんなもびっくりしちゃうだろうし」
「……そっかぁ。うん、わかった」
え? 何がわかったの?
一人で勝手に納得したように頷くメルシアくんに、私は何が何やらわからずに首を傾げます。
しかしメルシアくんは自分の考えを説明する気はないようで、「そろそろお風呂から出よっか!」といつものエンジェルスマイルを浮かべました。
なんだか引っかかるものはありましたが、たしかに結構長風呂しちゃっていたような気もしますし、私はメルシアくんの手を取って湯船から出ます。
それから脱衣所に出てタオルを手に取り、私がメルシアくんの身体を拭いてあげていると……不意に、メルシアくんの鼻から真っ赤な血が伝いました。
「あっ、メルシアくん、血が……! 血が出てるっ!!」
びっくりして大きな声を出した私は、すぐにメルシアくんの体温を下げようと呪文を脳内で構築し始めます。きっと慣れない長風呂のせいで、のぼせてしまったのでしょう。
しかし私が魔法を発動しようとした瞬間、構築した呪文が吹っ飛んでしまうような事態が発生しました。
「メルシア、大丈夫か!?」
突然脱衣所の扉を勢いよく開け放ったボズラーさんが、無遠慮に室内へ飛び込んできたのです。
……当たり前のことですが、お風呂から出て真っ先にメルシアくんの身体を拭いていた私は現在、一糸纏わぬ全裸です。
メルシアくんの出血はただの鼻血だったということに気が付いたボズラーさんは、即座に紳士としてあるまじき失態を犯したことを自覚したようでした。……彼の壮絶な表情を見ればわかります。
それですぐに部屋から出て行ってくれればまだ良かったのですが、しかしパニックに陥ってしまったらしいボズラーさんは濡れた床で足を滑らせて……
咄嗟に私が取れた行動は、メルシアくんの身体をできるだけ優しく押して遠ざけることくらいでした。
「うおおッ!?」
「あうっ!?」
直後、私の視界を埋め尽くしたのは白い天井でした。これが脱衣所の天井であると気が付くのに数秒。
次に私が知覚したのは胸にじわりと広がる鈍痛と、それから私の後頭部と背中の下に差し込まれているらしい誰かの手の感触。
そして私がゆっくりと視線を下に向けていくと……そこには私の胸に顔を埋めているボズラーさんの頭頂部が見えました。
「…………」
「…………」
恐る恐る顔を上げて私と視線を合わせたボズラーさんは、真っ赤になった顔を速やかに真っ青に染めるという器用な芸当を披露しつつ、さながら風呂上がりのように大量の汗を浮かべていました。
「……ボズラーさん?」
「な、なん……でしょうか……」
「私がメルシアくんの鼻血を指摘してからボズラーさんが部屋に飛び込んでくるまで、一秒もなかったね?」
「……あっ」
「すごいねぇ。まるで廊下から私たちの会話にずっと聞き耳を立てていたみたいな素早さだったねぇ。弟想いなんだねぇ。偉いねぇ」
私がにっこり微笑みながらそう言うと、視界の端で私たちの惨状を見下ろしていたメルシアくんが、その青い瞳から光を消しながらポツリ呟きました。
「……最低」
メルシアくんがボズラーさんと再び口をきいてくれるようになるまで、じつに三日を要したそうです。




