1歳9ヶ月 8 ―――複雑な心境
「レーラ閣下!」
リスタレットちゃんを巡る騒動が収まってからすぐ、ルルーさんは早足にそそくさと教室を後にしてしまいます。
そんな彼女を慌てて追いかけた私は教室を飛び出すと、廊下を突き進むルルーさんの背中に声をかけました。
するとルルーさんはピタリと足を止めて、それからゆっくりとこちらを振り返ります。その表情はどこか気まずそうで、彼女も私と同じように複雑な心境を胸に抱えているのでしょうか。
それでも私はルルーさんの目の前までふわふわと飛んで行くと、彼女に改めて深々と頭を下げました。
「リスタレットちゃんのこと、ありがとうございました……!!」
私の言葉を受けたルルーさんは「……べつにいいわよ」とつまらなそうに呟くと、それから私と目線を合わせるようにして、静かにしゃがみこみます。
彼女は柔らかな笑みを浮かべると、
「アンタ、ちゃんと先生やってるのね。メルシアがあんなに懐いてるのも納得したわ」
「え?」
ルルーさんの言葉に、私はちょっと首をかしげてしまいました。
「……むしろ、せんせい失格だったようにおもいますけど」
「なに言ってるのよ。私たち魔導師よりも、よっぽど立派に先生やってるわ」
私の率直な感想に対して不愉快そうに目を細めたルルーさんは、私をフォローしてくれながら溜息をつきます。
そして困ったような苦笑を浮かべながら、
「ちゃんとボズラーとも仲良くしてくれてるようで安心したけど……あの子、すっかりアンタの尻に敷かれちゃってるのね」
「ええっ? いえ、そんな……」
あのプライドの高いボズラーさんを尻に敷くだなんて……なんだかルルーさんには妙な誤解をされてしまっているようです。……っていうか“尻に敷く”って……同性にその表現はどうなんでしょうか。
……けどまぁ、今日のボズラーさんに関しては、ちょっと思うところはあります。
実技の監督者としてリスタレットちゃんのすぐ近くにいたのに、彼女が勝手に強めの魔法を使おうとするのを止められなかった……そればかりかメルシアくんも守れず一緒に吹っ飛ぶという醜態については、「あとでお説教かな」と考えてはいましたけど。
「レーラ閣下……その、それから、えっと……」
私は気まずさと緊張で、自分のつま先へ視線を落としながら、もじもじと胸の前で指を絡めます。
「ルローラちゃんの……レーラ閣下のおねえちゃんのこと……かってなことをしてしまって、もうしわけありませんでした……」
私はここ最近、ずっと心の内で引っかかっていたことを、ようやく吐き出すことができました。
私の勝手な判断と思い込みによって、姉妹の間に広がる溝を余計に広げるようなことをしてしまったことへの罪悪感は、相当なものでした。
兄弟や姉妹が必ずしも仲良くできるとは思えませんし、仲良くすることを強要することもできません。ケイリスくんの愚兄のことも記憶に新しいですしね。
しかしそれでも、妹たちのことを他の何よりも案じているルローラちゃんの気持ちを知っている私としては、できることなら仲直りをしてほしいと願ってしまったのです。……そのお節介の結果は、惨憺たるものでしたが。
どんな辛辣な言葉を浴びせかけられるものかと、不安に顔をしかめていた私に……けれどもその直後に訪れたのは、ルルーさんの小さくて柔らかな手が私の頭を撫でる感触でした。
「……レーラ閣下?」
「“ルルー”と呼びなさいと、前にも言ったでしょ」
そう言いながら苦笑したルルーさんは、可愛らしい唇から溜息を漏らしながら目を伏せます。
「……私の方こそ、あの時は取り乱して……悪かったわ」
ルルーさんは憂鬱な表情を浮かべながら、私に頭を下げました。
「いえ、そんな……わるいのはわたしで……」
「別に悪いことなんてしていないでしょ。変に自分を卑下するのはやめなさい」
「でも……」
「アンタの優しさは、ボズラーとメルシアから散々聞かされて知ってるわ。悪気があったわけじゃないこともわかってるし、だから謝ることなんてないのよ」
ルルーさんはそう言いながら、ピンク色の前髪をかき上げます。その仕草はどこか、ボズラーさんを連想させました。
それからルルーさんは、ふと思い出したように「あっ」と声を上げます。
何かと思って私が首をかしげていると、ルルーさんはちょっぴり声を潜めながら私に顔を近づけました。
「……ねぇ。アンタ、メルシアのお姉ちゃんになるって言ったって、ホントなの?」
「え? あ、はい。メルシアくんが魔法をつかえるようになったごほうびといいますか……メルシアくんにおねがいされたので」
「アンタそれ、ホントに意味わかってて了承したんでしょうね?」
「?」
露骨に呆れたような表情のルルーさんに、私は彼女の言いたいことがわからずに眉をひそめます。
意味がわかるも何も、そのままの意味ではないでしょうか? メルシアくんのところはお兄ちゃんしかいない家庭だから、お姉ちゃんという存在に憧れているってだけの話でしょう。
けれども深々と溜息をついたルルーさんは、私の後方にある教室へチラリと視線を向けると、
「私もメルシアに言ったのよ。魔法が使えるようになったお祝いに、何かお願いを聞いてあげましょうかって。そしたら……」
「そしたら?」
私が訊ねると、ルルーさんはちょっと気まずそうに視線を逸らしました。
「……そのお願いは、アンタにも協力してもらわないといけないんだけど……どうする?」
「わたしが?」
私の協力が必要って、一体どんなお願いなのでしょうか? ちょっと滅ぼしてほしい国があるとか? どこかの大陸を沈めてほしいとか? それとも世界の半分が欲しいとか?
お願いの内容は皆目見当もつきませんでしたが……メルシアくんのことです、突拍子もないお願いをしたりはしないでしょう。
あの可愛らしい笑顔のためならば、私も一肌脱ごうではありませんか。
「わたしにできることなら、なんでもおっしゃってください」
満面の笑みで即答した私に、ルルーさんはなぜかちょっと躊躇いがちに、それでいてどこか申し訳なさそうな表情を浮かべながら「そ、そう……」と呟きます。
それから彼女は意を決したように、私の血塗れの手をそっと取りました。そういえば魔法で皮膚を切り裂いたんでしたっけ。
そのことを思い出すのと同時に、緊張で意識の外に追いやられていた痛みが再びぶり返してきちゃいました。
けれどもルルーさんが傷口をそっと一撫でしただけで、私の左手は傷一つない状態へと戻されました。
……相変わらずデタラメですね、この魔導師様は。エルフ族の特殊能力である“カタラ”なのか、それとも純粋な“魔法”なのか……はたまたそれら二つの複合能力なのかはわかりませんが。
私の傷を治してくださったルルーさんはすぐに立ち上がると、「それじゃあ、またね」と言いながら私に背を向けて、そそくさと早足で歩き出してしまいました。
私は慌てて「あ、あの、ありがとうございます!」と治療のお礼を言いましたが、ルルーさんはそれに対して特に反応も示さず、まるで逃げるようにしてこの場を去って行ってしまいました。……急用でも思い出したのでしょうか?
その場に取り残された私はしばらく廊下で立ち尽くしていましたが……そういえばまだ授業中だったことを思い出して、教室へと足を向けました。
教室の扉を開ける直前、私は「そういえば、メルシアくんがルルーさんにしたお願いってなんだったんだろう?」という疑問を覚えたのですが……メルシアくんだって、自分がしたお願いを他人に詮索されたいものでもないでしょう。
この時の私はそう結論して、その疑問について深く考察するようなことはしませんでした。
そしてその日の夜……私は自身の身体に起こっていた“異変”に、ようやく気が付いたのでした。




