1歳9ヶ月 6 ―――血塗れの少女
現象を操る魔法とは即ち、加速、重力、磁力、放熱、放電……それらを支配する魔法です
単純な物質量の増加よりも呪文構築の難易度は高いですが、しかし物質の理解や想像が苦手だというのなら、実際にそれを実感しながら生活してきている現象への理解の方が得意ってこともあるかもしれません。それに現象なら想像するまでもなく、いつも体感していることですしね。
特にお兄ちゃんとかはどっちかって言うと直感型なので、身体で覚えるって方が性に合っていると思います。
と、そういったことを説明すると、お兄ちゃんとヴィクーニャちゃんは露骨に瞳をキラキラと輝かせていました。なかなかウケが良いようです。
ヴィクーニャちゃんは普段の余裕ぶった態度を引っ込めて、わりと歳相応な表情を浮かべながら口を開きました。
「先生は馬よりも速く走って、鳥よりも速く空を飛んでいるわよね? あれはどうやっているの?」
「あれは風をあやつる魔法と、速度をあやつる魔法と、重さをあやつる魔法をぜんぶいっぺんにつかっています。それらを三つともきわめると、ああいうことができるようになるんです」
私の答えに、ヴィクーニャちゃんの顔がちょっと曇りました。たった今、風を操るのが無理だからと別の魔法に浮気しようとしていたというのに、実用的な魔法を実現するための最低ラインが風の支配っていうのはショックだったようです。
えーっと、これでやる気をなくされちゃうのはイヤだなぁ……あ、そうだ!
「だけど重さをあやつるだけでも、こういうことができますよ?」
私は魔法で自身の体重を一〇グラムくらいに設定すると、そのまま教卓からふわりと跳躍。それから二人の頭上を飛び越え、教室後方へと着地します。
私がくるっと振り返ると、思わずといった感じに椅子から立ち上がったヴィクーニャちゃんが、興奮気味な声色で質問を投げかけてきました。
「お、重さというのを操るのは、簡単なのかしら……?」
「うーん、そうですねぇ。そもそも「重さ」というのはなんなのかっていうおべんきょうをしなくちゃですけど……でも、いつも重さっていうのはかんじていることなので、想像はしやすいかなっておもいます」
「飛び回ること以外に、何ができるのかしら?」
そんなヴィクーニャちゃんの質問に、私はにっこりと微笑みながらヴィクーニャちゃんを指差して、
「たとえば、『こういうこと』でしょうか?」
そのまま指をクイッと下に向けました。
すると次の瞬間、立ち上がっていたヴィクーニャちゃんの身体がガクンと崩れ落ちました。
まるで見えない手のひらに押し潰されているかのような圧力に、ヴィクーニャちゃんは「ひゃうっ!?」と可愛らしい悲鳴をあげながら地べたにへたり込んでしまいます。
どうやら立ち上がろうとして頑張っているようですが、彼女の体重には現在、六〇キロもの重量が加算されています。成人男性を背中におぶっているのと変わらない状態では、女の子が再び立ち上がることは難しいでしょう。
すぐに私が魔法を解除すると、彼女は荒い息を吐きながら肩を震わせ、不敵な笑みを浮かべました。
よく見ると、彼女の目元にはちょっぴり涙が浮かんでいます。
「ふ……ふふ……この私を跪かせるなんて……貴女が初めてよ」
え、なんですか!? もしかして怒ってますか!?
……い、いやですねぇ、ちょっとしたデモンストレーションじゃないですかぁ……
うぅ、でも大公女殿下に重力魔法で不意打ちするのはまずかったでしょうか……!?
私が思わず顔色を青ざめさせていると、けれどもさっきより良い表情を浮かべたヴィクーニャちゃんが、声高々に宣言しました。
「この魔法は私にこそふさわしいわ! 先生、ぜひとも教えてちょうだい!!
「え、あ、はい……」
どうやら怒ってはいないようだったので、とりあえずひと安心しました。
なんだかよくはわかりませんが、モチベーションが上がってくれたのなら重畳です。
それから私はお兄ちゃんを振り返ると、
「おに……ログナくんは、どうしますか?」
「オレは……」
私に水を向けられたお兄ちゃんは、ちょっと言い辛そうにしながらも、おずおずと口を開こうとして……
しかしその直前、教室の窓が何かに殴りつけられたかのような激しい音を響かせて、お兄ちゃんの言葉を遮りました。
「!?」
私が驚いてそちらへ視線を向けた時、窓の外では砂塵が激しく巻き上がっていました。もしも窓を開けていたら、教室は大変なことになっていたことでしょう。
風はすぐに止んだようでしたが、庭で魔法の練習をしていた三人は、あの強風の被害を直に受けてしまったはずです。
私が急いで庭に飛び出すと、そこには地面に横たわる三人の姿がありました。
「みんなっ! だいちょうぶ!?」
一番近くに転がっていたメルシアくんの傍へと着地した私は、小さな手で彼の身体を揺すります。
すると意識は失っていなかったようで、メルシアくんはすぐに目を開いて、「先生……」と小さな声を漏らしました。
それから少し離れて倒れていたボズラーさんも身体を起こし、そして一番遠くに倒れていたリスタレットちゃんも呻き声をあげながら起き上がろうとしています。
……よ、よかった。みんな無事だったみたいです。
私は安堵しながら大きく息を吐くと、すぐに気を引き締めて周囲を警戒しました。今の強風が、敵の攻撃によるものかもしれないからです。
この帝都魔術学園の周囲には私が結界が張っているため、少し気を緩め過ぎていたかもしれません。エクセレシィほどではないにしても、まだ魔族には強力な開眼を操る敵だっているはずなのですから油断は禁物です。
けれども私が気を張り詰めて周囲を見渡しても、続く攻撃が仕掛けられる様子はありませんでした。あるいは、私がエクセレシィ戦で使っていた完全防御結界を展開しているため、攻撃されていることに気が付いていないだけかもしれませんが。
「……違う、セフィリア。敵襲じゃない」
私のただならぬ雰囲気を察してか、よろよろと立ち上がったボズラーさんが掠れた声で言いました。
敵襲じゃない……って、じゃあ今の風は自然現象なのでしょうか?
怪訝そうな表情を浮かべた私に、ボズラーさんは少し気まずそうにしながらリスタレットちゃんを視線で示します。
「今の風は、リスタレットちゃんが魔法で発動させたものだ」
「……は?」
私は思わず間抜けな声を漏らしながら、話題の渦中にある少女に視線を向けました。
……今の強力な風を、リスタレットちゃんが……? 風魔法を練習しているメルシアくんじゃなくって、風魔法の習得を一旦諦めたリスタレットちゃんが?
まだ上半身を起こしただけの状態で地面に座り込んでいるリスタレットちゃんが、私の視線を受けて照れくさそうに笑います。
「ご、ごめんなさい先生……ちょっと加減を間違えちゃいました」
彼女はそう言って、胸の前でモジモジと両手を忙しなく動かしていました。
指先から二の腕までを覆う、シルク製のロンググローブを嵌めている彼女の両手。あの手袋は他の修道士さんたちもたまに嵌めているところを見かけますが、しかし彼女があの手袋を嵌めてきたのは、連休明けの今日が初めてです。
その時点では、私もあまり気にはしていなかったのですが……
連休前には扱えなかったはずの風魔法で、強力な風を生み出したリスタレットちゃん……そして、連休前には嵌めていなかった手袋。
かつて彼女の手のひらを見た時、どうなっていたでしょうか? たしか、無数の切り傷とペンだこができてはいなかったでしょうか?
それらの点と点が繋がった時、私は一瞬でリスタレットちゃんの目の前に移動すると、魔法で彼女の手袋を消滅させました。
「―――っ!!」
そして、その酷い有様に絶句してしまいます。
彼女の両手は、以前見た時よりもさらに凄惨な状態でした。細かい切り傷どころか皮膚の各所がばっくりと裂けて、その裂け目を生乾きの赤黒いかさぶたが覆っています。
特に右手の傷は酷いもので、肉の一部が抉れて化膿していたり、爪が半分剥がれかけていたりもしました
本来すべすべであったはずの真っ白な手が、今や無数の傷によってシルエットさえ変わってしまうほどのグロテスクな手に変貌してしまっています。
「なに……これ……」
思わず口元を押さえて後ずさる私に、リスタレットちゃんは少し困ったように曖昧な笑みを浮かべました。
「あー、えっと……そのですね……ちょっと転んでしまいまして……?」
さすがにこの言い訳は無理があると自分でも思っているのか、語尾が自信なさげなリスタレットちゃん。
彼女は血まみれの手を握りこんで、隠すように両手を背中側に回しました。
これだけ酷い怪我だというのに、リスタレットちゃんからはほんの少しだって悲壮な雰囲気が感じられません。まるでいつもと何も変わらないとでも言うかのように、ケロッとした表情をしているのです。
……それが私には、すごく理解しがたくて、アンバランスで……なにより不気味だと感じられました。
私の後ろで同じく青い顔をしているボズラーさんを見上げた私は、震える声で彼にお願いをします。
「……ボズラーさん。いますぐレーラ閣下に、ぐちゃぐちゃになった手をなおせるか、きいてきて」
「わ、わかった……治せるようなら、連れてくればいいんだな?」
「うん、おねがい」
小走りで駆けていくボズラーさんを見て、リスタレットちゃんはちょっと慌てたように目を見開きました。
「そんな! べつに治さなくたっていいですよ!? どうせまたすぐ……」
そう言いかけて、リスタレットちゃんは慌てて口をつぐみました。
けれどもそこまで言えば、あとに続く言葉は容易に想像がつきます。「どうせまたすぐ、怪我するんですから」でしょう。
そしてその言葉で、彼女の手がどうしてこんな有様になってしまったのか……私は理解したくなかったその事実を、否応なく思い知らされました。
この子……魔法の練習のために、自分の身体を『実験』に使ったんだ……




