1歳6ヶ月 3 ―――大賢者セフィリア
私はしばらく考えたのちに、物事を頭から順番に説明していくボトムアップ形式ではなく、結論から逆算していくトップダウン形式に切り替えることにしました。
まず風とはなにか、どうやったら風を起こせるのかを説明してから、そのために必要な工程を洗い出し、それを術式で書くとどうなるのかを説明し、それから呪文の記述に触れていこっかな。
「まずこの呪文は、風を生み出す呪文です。さて、ではそもそも“風”とはなんでしょうか? ログナくん」
突然で申し訳ないのですが、私はちょうど目が合ったお兄ちゃんに答えてもらうことにしました。
するとお兄ちゃんはいきなりの指名に飛び跳ねて、真っ青になりながらあたふたし始めてしまいます。
そしてうんうん唸りながら悩みに悩んで、それから最後は顔を真っ赤にさせながら、
「……わ、わかりません」
と、ちょっと半泣きになりながら呟きました。
ええっ!? な、泣かないでお兄ちゃん!? ごめんね!?
なんか子供らしく、適当に答えてくれればよかったんだよ!? そんな思い詰めなくても……!!
顔を真っ赤にしてプルプル震えるお兄ちゃんから慌てて目を逸らした私は、誰かほかに答えてくれそうな子はいないかと、別の生徒たちに視線を向けます。
するとヴィクーニャちゃんは優雅に紅茶を飲みながら、ススーっと目を泳がせました。……うん、正直でよろしい。
リスタレットちゃんも私からは視線を外さないものの、やっぱり表情に緊張の色が浮かんでいます。
メルシアくんもちょっと自信なさげに、ちらちらと私を上目遣いで見つめていました。メルシアくんならいい線いきそうな気もするんですが、下手したらお兄ちゃんの二の舞になっちゃうかもしれませんし……
うーん、仕方ありません。
「じゃあ、ここは風魔法の達人であるボズラーさんに答えてもらいましょう」
私がそう言うと、ボズラーさんは少しギョッとしたような表情になりました。
しかし彼はすぐに気を取り直すと、咳ばらいを一つしてから説明を始めます。
「……風というのは、この世界を生み出した創造神の司る四属性の一つで、“見えない圧力”を意味している。物が動いたとき、それに伴う力の余波が空間を伝播して、周囲の物に作用するとされている」
「は? なにいってるの?」
「えっ」
私が心の底から「何言ってんだコイツ」みたいな表情を浮かべながらそう言うと、ボズラーさんはビクリと肩を震わせて固まってしまいました。……ちょっと言い方がキツかったかな?
いや、でも……創造神ってなに? 四属性? 見えない圧力? 力の余波?
「風っていうのは大気の密度差や温度差によって生じる物理現象だよ? もちろん大気が物理的な干渉を受けて特定方向に流れる局地的な風もあれば、高気圧域から低気圧域に流れ込む広範な風もあるけど」
私が前世で聞きかじった知識を適当に披露すると、ボズラーさんは固まったまま動かなくなってしまいました。
あれ、どうしたのボズラーさん? フリーズしちゃった? タスクマネージャー開く?
っていうか、さっきボズラーさんが言ってた風のメカニズムって、まさかこの世界の共通認識っていうか、学者さんたちがマジで言ってるやつじゃないよね? さすがにそれは……ね?
私がにわかに困惑していると、ようやくフリーズから復帰したらしいボズラーさんが死んだ目をしながら口を開きました。
「……一般的に、魔術師は博識であることが求められるんだ。なぜなら、魔法で干渉するものに対する理解度によって、魔力の消費量が変わるとされているからな」
「え? そうなの?」
「やっぱり知らなかったか……。俺が風魔法を得意としているのは、ほかの火とか水よりも、感覚的に風に対する理解が深いからだ。風とは何か、水とは何か、火とは何か、それらに対する知識があるとないとじゃ、魔力の消費量が段違いになるって研究成果が出てるらしい」
へぇ……。あ、じゃあ私が広範囲・高出力の魔法をバンバン使ってもあんまり疲れないのは、前世の教育のおかげで物質や現象に対する理解が他の人たちよりも深いからなのかな?
「もっと言えば、呪文の一つ一つの単語に対する理解度によっても、魔力の消費が大きく変わるらしい。呪文への理解が大雑把でも魔法は発動することもあるが、それだとたった一度の発動でかなり疲労するし、発動に時間もかかる。きちんと呪文に対する理解を深めてから発動すれば発動時間も短縮されるし、魔力の消費も格段に少なくなる。これは俺も修行時代に実感してるから間違いない」
「へぇ~」
「これも知らなかったのかよ! ……って、見ただけで呪文を全部理解しちまうんじゃ当たり前か……」
いやいや、初めて私が風魔法を発動しようとした時は、発動失敗しましたよ?
あれは呪文に対する理解度が足りなかったとか、呪文を構成している単語の解釈が間違っているからだったと思いますけど。
でももしかしたら、普通の魔術師みたいに長々と詠唱してたら、あれくらいの理解度でも魔法は発動したのかもしれません。ただし、その曖昧な理解を魔力の消費で補う形になるのかもしれませんが。
そっかそっか。じゃあもしも私が生徒のみんなに自然科学の知識を教えてあげた上で、呪文の単語を一つずつ丁寧に教えていけば、下手したら普通の帝国魔術師よりも強力な魔術師が誕生しちゃうかもしれないわけですね。いえ、それどころか普通の魔術師を大幅に強化することもできそうです。
……それって大丈夫なのかな? なんかこう、私がうっかり教えたことが帝国の科学者とかに知られたら、いろいろ大変なことになっちゃうような気が……
「えっと、この教室でわたしがおしえたことは、くれぐれもナイショでおねがいね?」
私が真剣な表情でみんなに言うと、ボズラーさんと生徒のみんなは無言で頷きました。
しかしお兄ちゃんは怪訝な表情を浮かべつつ、
「……でも、なんでセフィはそんなにいろんなことに詳しいんだ? 育った場所はオレとおんなじなのに」
お兄ちゃんのその問いに、私は「うっ……」と言葉を詰まらせました。
さすがに前世のことを言ったら頭の健康を疑われてしまいますし、かといってこれに関しては合理的な理由付けもありません。
しかし合理的ではないですけど、理由付けならできなくもありません! なぜなら私は“勇者”ということになっているのですから!
「……ゆ、ゆめの中で……神様に、おしえてもらったの。ほらわたし、勇者だし……?」
私の苦しい言い訳に、お兄ちゃんはとても胡散臭そうな目でジトーっと見つめてきました。やめてお兄ちゃん! ここはちょっと触れてほしくないところだから!
私はこれ以上みんなに突つかれないうちに、話題を変えてしまうことにしました。
「と、とにかく! わたしの知識をつかえば、ふつうよりもずっとすごい魔術師になれちゃうかもしれないね! よーし、がんばろう!」
私がちっちゃな拳を突き上げると、メルシアくんとリスタレットちゃんが「はいっ!!」と元気にお返事をしてくれました。なんて空気の読める子たちでしょう!
じゃあまずは呪文の説明をする前に、風とは、空気とは何かってことをレクチャーしていったほうがいいよね。
こうして臨時で科学の授業が始まったわけなのですが、分子とか気体とか、酸素とか窒素とか、気圧差とか温度差とか、どうやらこの世界の人間にとっては相当に超高次な講義となってしまったようで……
かなり噛み砕きながらゆっくり丁寧に説明したつもりだったのですが、それでもこの日の授業が終わる頃には、私の話を聞いていた生徒たちはおろか、ボズラーさんでさえも頭から煙を出して撃沈しちゃってました。
……この様子じゃ、もしも人間が原子という粒同士の結合で構成されているなんて教えたら、みんな発狂しちゃうんじゃないでしょうか……?
人の心を蝕む知識っていうのもあると思いますし……知らない方がいい真実も、ありますよね。
私はそっと、異界の智慧を閉じたのでした。




