1歳3ヶ月 66
その後、ケイリスくんたちを乗せた馬は、夜の草原を懸命に駆け抜けていました。
ミールラクスは、プラザトスだけでなくすべての街に刺客を放っていると言っていました。
その言葉が真実なら、グラトスさんをどこかの街で休ませたり医者に見せたりすれば、すぐに捕まってしまうことでしょう。
グラトスさんには胃の内容物を吐き出させたものの、しかしそれだけで助かるかどうかなんて、当時のケイリスくんにわかるはずもありません。
どうにかミールラクスの追っ手が放たれる前にプラザトスを抜け出したケイリスくんは、彼の背中にもたれて苦しそうに喘ぐ父親に、かつて亡くなった母親の姿を思い出したそうです。
なぜ自分だけがこんな目に遭わなくてはいけないのかと運命を呪いながらも、ケイリスくんはこの状況を打破するための現実的な案を必死に考えていました。
いくらミールラクスがすべての街へ手回しを行っていたとしても、さすがにあの閉鎖的な鉱山都市にまでは手出しできなかったはずです。
当然、ケイリスくんたちも受け入れてもらえない可能性は高いですが、グラトスさんは大統領です。どうにか政治的な交換条件でも出して必死でお願いすれば、医者に見せてもらえる可能性もゼロじゃないのではと考えたのです。
少なくとも、ミールラクスはすぐにでもプラザトスや近隣の街の医者を片っ端から当たるでしょうから、それよりはまだ賭けてみる価値があります。
レグペリュムまでは馬車でゆっくりと進んで三日前後です。
馬が潰れることを覚悟で走らせ続ければ、明日の朝日が昇るまでには到着できる見込みでした。
どうかそれまでお父さんの身体よもってくれと願いながら、ケイリスくんは懸命に馬を走らせたそうです。
何時間も走っているうち、さすがにケイリスくんの駆っていた馬もすっかりバテてしまっていました。全速走行ではないにせよ、休みなく走らせ続けるのは流石に酷だったようです。
しかし事態は一分一秒を争います。ケイリスくんは必死に馬へ扶助を出しながら、レグペリュムを目指しました。
そして居並ぶ山々の合間を通り過ぎ、ようやくレグペリュムも目前といったところで……
「ケイリス……すまない。最後まで……見届けてやれなくて……」
そう呟きながら、グラトスさんはケイリスくんの手に自分の手を重ねました。その手は、氷のように冷たかったそうです。
そして無性に嫌な予感を感じたケイリスくんが振り返ると、
「……必ず……必ず、幸せに……どうか……」
……それが、グラトスさんの最期の言葉だったそうです。
「五年前のボクは、結局誰も救うことはできませんでした。……いえ、今もそれは変わってませんね。お嬢様には何度も助けてもらってばかりです」
自嘲気味にそう呟いたケイリスくんは、乾いた笑みを浮かべていました。
悲惨な過去を掻い摘みながらも私に話してくれた彼は、目の前の地面を……いえ、きっとその下に埋まっているであろうものを見つめています。
「本当は、もっとちゃんと葬儀を執り行ってあげたかったんですけど……ごめんなさい、お父様」
十歳の子供が無一文で、帝国までの一ヶ月近くも旅を続けるだなんて……一体どれほど地獄のような日々だったことでしょう。
共和国にいる限り、どこへ行ってもミールラクスの手が伸びてきますから、帝国へ向かうしか生き残る道はなかったというのはわかりますが……
帝都ベオラントまでたどり着いたケイリスくんは、ほとんど瀕死のような状態だったそうです。
そして、そんな彼を真っ先に保護したのが、セルラード宰相でした。
彼はボロボロのケイリスくんを見て、ひと目で共和国大統領の息子だと見抜き、手厚く保護してくれたのです。
さらにケイリスくんから事情を聞いた後、居場所のない彼を専属の使用人として雇う事で、仕事と住居を与えてくれたのだとか。
「それからのボクは、イースベルクでのことを必死で忘れようと、仕事に明け暮れていました。でも、ふとした時にどうしても思い出してしまって……」
『私が共和国に向かうって言いだした時、かなり熱心について来ようとしたのは……』
「……はい。故郷がどうなっているのか、どうしても気になっていましたし……それに、過去に決着をつけないと、いつまでも前に進めないような気がしたんです」
私は、帝都にいた頃のケイリスくんを思い出していました。
あの当時のケイリスくんは、よく窓の掃除などをしながら遠くに虚ろな視線を向けていましたが……きっとその瞳には遥か彼方のイースベルクと、五年前の惨劇が映っていたのでしょう。
しかし、忘れようとしていた過去と決着をつけるチャンスが、リルルの暗躍によって偶然にも転がり込んできたのです。
「国境街の難民問題も、商店街とエルフ族の対立問題も、かつてお父様が解決したはずの問題でした。……おそらく、現大統領の伯父が政策に失敗しているのでしょう」
『ミールラクスに、大統領としての器はなかったんだね。……って、当然か』
「それにドラゴンの奇襲に対応できなかったのも前線配備がお粗末だったからですし、ドラゴン討伐隊をロクな計画もなく運用したのは、兄様……いえ、ゴルザスが手柄欲しさに先走った結果でしょう」
ああ、そういえばロンドブルム司教様が、「兵の派遣に応じたのはゴルザスなんとか師団長が~」とか言ってましたっけ。良く覚えてませんでしたけど。
これだけの規模の騎士団が前線を離れているというのは手痛いことでしょうし、たまたま私たちが通りかかって協力したからよかったものを、下手をすれば全滅していた可能性だってあっただろうってダンディ隊長も言ってましたし。
ドラゴンが相手ならそんな兵の無駄遣いなんてせずに、きちんと情報を収集して、計画を立てて、少数精鋭の魔術師で奇襲をかければもっとスマートに事は運んだと思うのですが。
しかもそのゴルザスとかいう男、自分自身が指揮を執るでもなく、すべて他人に丸投げする始末……
え? っていうか、そのクソ伯父とクソ兄貴はまだ生きてるの? むしろなんで生きてるの?
ケイリスくんがこんなにも苦しんでるっていうのに!!
それに考えたくないことですが、ケイリスくんたちを逃がしてくれたという家政婦長さんだって、恐らくはもう……
それなのに加害者であるそいつらは今も、のうのうと偉いポストに収まってふんぞり返っているの?
私が必死に表情筋を制御して感情を押し殺していると、ケイリスくんがとても申し訳なさそうな顔で、
「……あの夜の場に居合わせたボクが生きていることを知ったら、ミールラクスはきっと刺客を差し向けてきたはずです。なので、あれから五年も経っているとはいえ顔を隠していたのですが……」
『毒味とか、寝室の扉に仕掛けをしたりとか、やけに警戒していた理由はそれだったんだね』
そう考えると、ケイリスくんが料理や買い物を率先して行ってくれていた理由も察せられるというものです。
ケイリスくんは神妙に頷いて、それからどこか不安げな表情を浮かべました。
「せめてお嬢様にはもっと早く事情を伝えるべきだったんですけど……その、最初はそこまで他人を信用できなくって……」
『そんな過去があったのなら、無理もないよ。気にしないで』
「いえ……ボクの心が弱かったんです。エルフの里の一件で、お嬢様が信頼に足るお方だってわかったのに……今度は逆に、嘘をついていたボクの方が信用を失ったり、嫌われるんじゃないかって……不安になって……」
いやいやいや、そんなわけないじゃないですか!
私はムッとしたような表情で、激しく首を横に振ります。
するとケイリスくんは、私の手をきゅっと握って、
「……お嬢様。この間の『お願い』のこと、覚えてますか? なんでも一つだけ叶えてくれるって言っていた……」
『うん、もちろん覚えてるよ』
ネルヴィアさんとレジィがあまりにも激しく喧嘩するものだから、『レジィの分のお願いはおねーちゃんが、おねーちゃんの分のお願いはレジィがすること!!』と命じたら、二人が速攻で仲直りして、気持ち悪いぐらいお互いを褒めちぎっていたのは記憶に新しいです。
そういえばケイリスくんはあの夜、ひたすら悶々としていた末に、結局何もお願いはしませんでした。
その権利を今、行使しようと言うのでしょうか。
ふふ……いいよ、ケイリスくん。キミのお願いはわかってるよ。
件の二人に……伯父と兄貴に地獄を見せてやろうってことですね!!
オッケーオッケー。首輪を外したら即座にその二人をケイリスくんの目の前に引きずり出して、「申し訳ございませんでした」って一万回言い終わるまでの間、世界のありとあらゆる残虐拷問を魔法で再現してあげるよ!
……うん、ケイリスくんの手前、今は必死に平静を装っているけど……ぶっちゃけ私、超ブチギレてるから。さっきから鳥の羽音や獣の足音がすごい勢いで遠ざかっていくのが聞こえてるし。
さぁ命じてケイリスくん! どうしてもって言うなら、不殺の誓いも今回だけは忘れてあげてもいいよ!
私が心をどす黒く染め上げながらケイリスくんの言葉を待っていると、彼は不安そうに伏せた目を恐る恐る上目遣いにさせて、
「……今まで嘘をついていたり隠し事をしていた、こんなボクですけど……一生懸命お仕えしますから、どうかこれからもお傍にいさせてください、お願いしますっ……!」
……。
…………え?
『それが、お願い?』
「は、はい……だめ、ですか……?」
いつもは見る者に冷淡な印象を与える瞳をうるうると潤ませて、ケイリスくんは私をジッと見つめてきます。
そ、そんな目で見られたらなんでも言うこと聞いちゃいますけど……
ああもう! なんですか!? 私の心が穢れてるんですか!?
今の話の流れからして、お願いは「あいつらぶっ殺してください」じゃないんですか!? どれだけ純粋なんですかこの子は!! もう!!
そんなことはいちいちお願いしなくたって当たり前なんですから、もっと自分勝手になっていいんだよ!?
私はあまりに予想外なお願いに面食らいつつも、辛うじて頷きました。
『も、もちろん! ケイリスくんの方から離れていかない限り、絶対に手放すつもりなんてないよ!』
「……じゃあ、ずっといっしょってことですね」
そう言って、照れくさそうに「えへへ」と笑うケイリスくん。
……なんなのあなた、どうしてここへ来て怒涛のラッシュを仕掛けてくるの? デレ期なの?
私は一旦落ち着くために身体を逸らせて大きく深呼吸をすると、そこで視線の先にキラリと光るものを見つけました。
このお墓の目印なのか、細い木に引っかかっていた銀の腕輪です。
『あれって……』
「あ、はい。あれはお父様が身につけていた腕輪です。いつかまたここへ来ることができた時のために、目印として引っかけておいたんです」
『それじゃあ、お父さんの形見ってこと? すごく錆びちゃってるけど、いいの?』
「形見は他にも、指輪やペンダントとか、いろいろありましたし。それに、遺髪も……」
『……そっか』
私はそれ以上は何も言わずに、ケイリスくんのお父さんがいるという地面に向かって手を合わせました。
―――ケイリスくんのお父さん。貴方とは出会ったことさえないですけれど、ケイリスくんがこんなにも優しい子に育ったのは、きっと貴方のおかげに違いありません。
どうか後のことは私に任せて、ゆっくりと休んでください。
ケイリスくんの“幸せ”は……貴方に変わって、私が一緒に探していきます。




