1歳3ヶ月 65
ぽつりぽつりと、ケイリスくんは自身の忌まわしい過去を私に明かしてくれました。
ケイリスくんが四歳の時。彼の父、グラトス・トリルパットは、イースベルク共和国の大統領に就任しました。
その生真面目な人柄と的確な政治手腕によって高い支持率を誇った彼は、それはもう優秀な政治家としてその辣腕を振るったそうです。
彼には仕事が優秀な人物にありがちな、家庭を顧みない部分があるようでした。
しかし、それでも国のために日々頭を悩ませては指揮を執り、そして国民を救う父親の姿は、ケイリスくんにとって自慢だったそうです。
ケイリスくんのお兄さんが生まれてから十五年も子宝に恵まれなかった夫婦にとって、ケイリスくんは待望の第二子でした。
けれども元々あまり身体が強い方ではなかったケイリスくんのお母さんは、高齢出産によってますます弱ってしまい、一日の大半をベッドの上で過ごすことになります。
しかしそれでも心優しく穏やかな彼女にケイリスくんはよく懐き、ほとんど片時も傍を離れませんでした。
……だからこそ、ケイリスくんが七歳の時に、病気で体調を悪化させた彼女がそのまま亡くなってしまった時には、ケイリスくんは酷く塞ぎこんでしまったみたいです。
ケイリスくんのお兄さんは元々あまり家には居着かず、母親の訃報にも淡白な反応だったそうですが……対するケイリスくんの落ち込みようは酷いものでした。
趣味の裁縫や絵画も、乗馬や楽器の習い事もすべて投げ出して、一日中お母さんの部屋に引きこもってしまうほどだったとか。
そんなケイリスくんを外の世界に再び連れ出すきっかけとなったのは、“三つ編み”でした。
ある日、ケイリスくんが引き籠るお母さんの部屋を訪れたお父さんは、いつもオールバックにして後ろへ流している髪を、無理やり三つ編みにしていました。
というのも、ケイリスくんのお母さんはいつも髪を三つ編みに結んでおり、三つ編みは彼女のトレードマークとも言うべきものだったのです。
きっとグラトスさんは、お母さんを喪失したケイリスくんの悲しみを少しでも和らげてあげられないものかと苦心して、その結果そんな行動に出たのでしょう。
そしていつも渋い顔つきを厳めしく顰めながら国の行く末を思案しているような、超が付くほど生真面目な父親が、そんなバカげた、不器用な行動に出たことに、ケイリスくんは思わず笑ってしまったそうです。
その日から、グラトスさんはいつも髪を三つ編みに結ぶようになりました。
さらに、これまで家庭のことはほとんど妻や家政婦に任せっきりだった彼は、自ら進んでケイリスくんと一緒に家事をしたり、勉強を教えてあげたりと、家族と過ごす時間を大切にするようになったのです。
お母さんを失ったケイリスくんにとってグラトスさんが心の支えになったように、グラトスさんにとってもケイリスくんが心の支えになっていたのでしょう。
やがてグラトスさんは、時折ケイリスくんを“お嬢様”などと呼びながら、ありったけの愛情をもって接しました。
長年トリルパット家に仕えてきた家政婦長さんも、そんな二人のためによく尽くしてくれて、次第にケイリスくんの心の傷は、少しずつ癒されていったようです。
おそらくケイリスくんの人生において、最も幸せだったのはこの辺りの時期まででしょう。
そして……その幸せな生活は、ある日突然 終わりを告げました。
異変はまず、ケイリスくんのお兄さん―――ゴルザス・トリルパットが、騎士団の宿舎から実家であるトリルパット邸へと出戻りしてきたことから始まります。
気難しい性格で家族ともあまり打ち解けていなかったゴルザスのことを、ケイリスくんはあまり歓迎していませんでした。
当時のケイリスくんは身体が弱く、医者から激しい運動を控えるように言われていたそうです。そのため剣術や武術はからっきしだったのですが、ゴルザスはそれを知っていながら、事あるごとに剣術の稽古へ連れ出そうとするような男だったようです。そしてケイリスくんがフラフラになるまで打ちのめしては、皮肉たっぷりに“お嬢様”などと呼んで嘲笑しました。
ケイリスくんは魔術にもあまり適性がありませんでしたが、しかし、だからこそ父親の得意とする政治分野に興味を示し、そして実際にその才幹を覚醒させつつありました。
……なまじ高い潜在能力の片鱗を見せ始めてしまったことが、後の悲劇の引き金を引いてしまう一つの要因にもなったようなのですが。
やがてケイリスくんが十歳の誕生日を迎えた、その晩餐の時……ついに目に見える形で、歯車は狂いだしました。
いつも通りであるとケイリスくんが信じてやまなかった食卓でしたが、後から思えばおかしいところはあったそうです。
長年仕えてくれている家政婦長さんが姿を見せず、そして代わりに料理を運んできた家政婦さんはどこか浮かない顔をしていました。
さらに、いつもは不機嫌そうな仏頂面であるゴルザスは、やけに上機嫌だったようです。
しかしそれだけの違和感で、この悲劇を予測しろというのは酷な話でしょう。
例年のように家族だけで穏やかに行われる誕生日パーティが始まってから、しばらくしてのことでした。
突然ダイニングルームの扉が勢いよく開かれたと思えば、そこには白髪交じりの小太りな男―――ケイリスくんの伯父、ミールラクス・トリルパット―――が私兵を引き連れて乗り込んできたそうです。
あまりにも急なことに、目を白黒させるしかできないケイリスくんに反して、ほくそえむ兄と、青ざめながら俯く家政婦たち、そして何かを悟ったように険しい表情を浮かべるお父さん。
不気味なほどに柔和な笑みを浮かべたミールラクスは、開口一番にこう言ったそうです。
「グラトス。貴様を人殺しとして世間に公表しなければならないのは、非常に残念でならないよ」
状況が呑み込めないケイリスくんは驚いて父親の顔に視線を向けますが、グラトスさんも何が何だかわからないといった表情を浮かべていました。
そして「なんのことだ」と訊ねたグラトスさんに、ミールラクスは「知る必要はないんだ」とだけ返したそうです。
その不穏なやり取りに、何か言いしれない恐ろしさを感じたケイリスくんは、勇気を振り絞って抗弁しました。
「お、お父様は、人なんて殺さない!」
「そうだな、こいつはそんな事ができる男ではないよ」
けれども、あまりにあっさりと認めたミールラクスに、むしろケイリスくんの方が面食らってしまいます。
そしてミールラクスは、見る者の心をかき乱すような、静かに狂った微笑みを浮かべて、
「だが、殺したかどうかは関係が無いんだ。こいつがシャルツェン防衛大臣を殺害したという証拠は、この家にたくさんあるのだからね」
そう言ったミールラクスは、先ほどからニヤニヤと口元を歪めて黙っているゴルザスの肩に手を置いて、意味ありげな視線を向けました。
次第に状況を察してきたケイリスくんが、怒りに任せて吠えようとしたところで……激しく咳き込む声が室内に響き、ケイリスくんは驚いて振り返りました。
するとそこではグラトスさんが、苦しそうに胸を押さえてテーブルに突っ伏していました。口元には赤黒い液体が伝っていたそうです。
「おや、ちと量が少なかったかな……? まぁいい、時間の問題だ。追い詰められた末の服毒自殺……じつに使い古された、よくある話だとは思わんかね?」
「ゴホッ、ガフッ…………貴様、こんなことが……許されると思って……」
「許されるとも。何年もかけて手回しして、このプラザトスだけでなく、すべての街に私の手の者を送り込んで下準備を進めてきたのだからな」
愉快そうに笑うミールラクスの言葉に、ケイリスくんの心が絶望に満たされかけた、その時。
不意に蹄の音が近づいてきたかと思うと、窓ガラスが外側から激しく割られ、人影が飛び込んできました。
それはトリルパット家に長年仕えていた家政婦長だったらしく、いったい何があったのか彼女は全身から血を滲ませ、すでにボロボロな姿でした。しかし彼女はそれでも猛然と部屋の中央まで躍り出ると、小脇に抱えていた器の液体をミールラクスたちに向かってぶちまけたそうです。
そして彼女は手にしていたランタンを掲げると、「ケイリス様、お逃げください!」と叫びました。
その声に弾かれるようにして走り出したケイリスくんは、どうにかまだギリギリ動けたらしいグラトスさんの身体を支えながら窓際まで移動しました。
グラトスさんは激しく咽ながらも、最後の力を振り絞るようにして窓枠へ足をかけると、そのままケイリスくんの手を引いて、窓際で待機していた馬へそのまま飛び乗ります。
どうやら家政婦長さんがぶちまけた液体はランタンの燃料に使われているものだったらしく、火種を手にしている彼女のせいで、ミールラクスたちは迂闊に動けないようでした。
そして彼女はボロボロな顔で振り返ると、
「どうか……どうかご無事で……!」
そう言って彼女は、最後までケイリスくんたちの方へ駆けてくる様子は見せなかったそうです。




