1歳3ヶ月 45
とはいえ、これから始まるドラゴン退治の鍵であるネルヴィアさんのモチベーションが下がってしまったら大変です。
私は、隣に座っているネルヴィアさんが膝に置いている手に、自分の手をそっと重ねました。
「あっ……」
不機嫌そうだった雰囲気や表情を一瞬で消し去ったネルヴィアさんは、頬を染めながら私をまっすぐに見つめてきます。
私はそこで、何か気の効いた言葉でもかけてあげようとして……けれどもそういえばケイリスくんがいないことに気が付き、柔らかく微笑を浮かべるに留めました。
ぐぬぬ、ケイリスくんがいないだけでここまで不便だとは。
けれども言葉なんて無くとも私の気持ちはネルヴィアさんに通じたらしく、彼女は はにかみながら私の手を握り返すと、それからリルルのことなんて意識の外に追い出したみたいに穏やかさを取り戻してくれました。
なんだか赤ちゃんの時と違って、座った時の目線が近いとすごく新鮮な感じです。
一応、レジィにも何らかのフォローをしておこうかと思って、ネルヴィアさんの一つ向こうに座っているレジィにも目を向けてみますが、しかし意外にも彼はすでに興味を失ったかのように欠伸をしていました。
あれ……? 強さを疑うような言葉は、獣人族にとって最大の侮辱のはずです。私や、気を許している仲間たちならともかく、リルルなんかに言われればかなり頭に来てもおかしくはないはずなのですが……
そんなレジィの異変に私が気を取られているうちに、リルルが傍らに座るクリヲトちゃんの肩に手を置いて、
「とは言っても、やっぱり勇者様がいれば百人力ですよねぇ。こないだは奇襲だったせいで不覚を取りましたけどぉ、今度こそやっつけてやりましょうね」
リルルのそんな言葉に、クリヲトちゃんは緋色の瞳をスッと細めながら頷きます。
「……魔族は いっぴきものこさずに、ほろぼします。とくに、あのドラゴンはぜったいに」
彼女の緋色の瞳には、暗く澱みきった様々な感情が混沌として渦巻いているかのような、危険な気配を感じました。窮極まで追い詰められた人間が最後に辿り着く、狂気の瞳です。
……あれは前世の会社でも、二~三回ほど見かけたことがあります。決定的な箍が外れて、大変なことをやらかす人間の目です。
できることなら彼女を救い出してあげたいものですが、しかし部外者に何を言われても鬱陶しいだけでしょうし、月並みな慰めやありふれた説教なんて、聞く耳を持ってくれるはずもありません。
結局は、彼女の止まった時間を進めるためには、再びドラゴンと対峙して決着をつけるしかないのだと思います。もしも私が彼女と同じ立場だったら、邪魔をする人間なんて皆殺しにするかもしれませんし。
盗賊に村を襲われて危機に陥ったことのある私には、今の彼女の気持ちを自分のことのように想像することができます。
けれども、それで『彼女の気持ちが理解できる』なんて反吐が出るようなことを恥ずかしげもなく口にできるほど、私は恥知らずにはなれません。
彼女の気持ちは彼女にしかわかるはずがありません。共感と理解とのあいだには天と地ほども隔たりがあるというのは、ある程度の人生経験を積んでいれば当たり前に気が付くことです。
私にできることは、今回の決戦においてクリヲトちゃんが無茶をしないようにサポートすることくらいでしょう。
……それでも、ドラゴンが二体以上待ち構えてたり、他の魔族が介入して来たり、何かしらの罠に嵌められたと感じたら、即刻逃げるということを作戦会議で決定していますけどね。
課題には明確な優先順位を設けて、それを順守することは社会人の鉄則です。
私の最上位タスクは家族の安全。今回は諸事情によりドラゴン退治に赴いてしまったため定石からは少し外れていますが、それでもうちの子たちに迫る危険が許容量を超えたら、なりふり構わずに逃げるつもりです。
大切なものを守れない綺麗ごとは戯れ言なのだと、私も痛いほどに思い知っています。
クリヲトちゃんがドラゴンとの戦いに決着をつけた時、果たしてどんな結論を出すのか……それはわかりませんが、少なくとも彼女が『すべての魔族の殲滅』を願っている限りは、いつか私と対立する時が来るのかもしれません。
私はそんなことを考えながら、クリヲトちゃんの言葉にレジィが不愉快な思いをしていないかと心配して、彼の表情を盗み見ます。
するとレジィは意外にも、悪感情を感じさせない淡々とした表情でクリヲトちゃんを眺めているだけでした。
その横顔から彼の考えを読み取ることはできませんでしたが、しかしレジィの中で、何かしらの変化が起き始めているのかもしれません。
馬車は、そんな私たちを乗せて果てしない平原を進んでいきます。
そして数時間後に魔族領の入り口へと差し掛かった時、魔境 ボボロザ樹海がその口を開けて、私たちを待ち構えていたのです。




