ありふれた海
「きみの『***』は何人を殺してきたんだい?」
中学生活も終える頃、唐突に、ある一人の同級生に尋ねられた。
尋ねた同級生、『彼』とはクラスが違う。この三年間でも、同じクラスになったことはない。そもそも、ぼくは彼の名前すら知らないのだ。そんな彼は、
「喜怒哀楽ってあるけど、きみには関係のない言葉だよね」
と続けて言った。
そんなことはないと、ぼくは機械的に言い返す。けれど、彼は不思議そうな表情を見せる。
「そうかな、そんなことはあると思うけど」
何気ない否定は、全てを否定した。
どうして、そんな酷いことを言うのか。突然に話しかけられ、そんなことを言われるとは思わなかった。しかし、そこで話を切り背を向ける選択肢が浮かばない。名も知らぬ彼など、無視してしまえば、いいのに。
「俺が酷いだって? でも、俺は――いや、みんなはいつも、きみに酷いことをされてきたんだよ?」
自分が友達の少ない方だとは自覚している。学友と呼べる存在など、片手で数えられる程度だろう。いや、そんなにいたかもわからない。だが、他の人とも話すくらいのことはしている。
ぼくのしたという酷いこと、それが何かわからない。だが、嫌なら嫌と、いくらでも言う機会はあったはずだ。
ぼくが呈した疑問に、彼は淡々と答える。
「そんなわかりやすいものじゃないよ。きみは溺れていて、みんなはきみを助けようとする。でもね、きみが溺れているのは海。きみは、海面のない、日が差さない、暗く圧し潰されそうな海で――溺れている」
そんなとこ、誰も助けられないよ。彼は諦めたように、断定するように言う。
何故なのか、どうして、今。どうして。
「ん? もうすぐ卒業だろ、みんな高校はバラバラになるだろうし、最後くらい、きみに伝えておきたくてね――」
人受けの良さそうな表情なのに、逸らすことのない双眸は、笑っていなかった。
「――きみは人を不幸にする」
それは宣告だった。中学生が受けるには早すぎる、人が受けるには残酷な。存在を否定も肯定もされず、ただその在り様を言われる。
どうして欲しいとも言われない。
どうしろともわからない。
いや、その前に一つだけ、初めの質問にぼくは答えていなかった。でも無理だ、ぼくには質問の内容が理解できていないのだから。
だって、多くを殺したという『***』をぼくは知らない。厳密に言えば、その言葉は聞いたことがある。溢れんばかりに聞いたことがある。けれども、ぼくはその意味を知らない。言葉としては知っているが、意味としては知らない。果たして、あの言葉を使う何人が『***』の説明ができるだろう。
そう、ぼくには『***』が――わからない。
◆ ◆
留年も浪人もせず、無事に志望校へと進学を果たした。
そこまではよかった。
何故なら入学早々、あれから数ヶ月も経たない内に、ぼくは彼との出来事を話すはめとなったからだ。
たった二ヶ月弱。よくある数年のインターバルもなく、まだ鮮明に――きっと微かにでも残り続ける記憶。そもそも、あの話を誰かにすること自体が、考えようのないことだった。
「そうかーそうかー、なるほどねー」
深く理解したことを示すように、話した相手、話すきっかけを作った女子は、腕を組み大きく頷いた。
(なんで話すはめになったんだっけ……)
予想はしていたものの、後悔に次ぐ後悔が溢れ出てくる。
(……たしか、こいつに寝言を聞かれたらしくて……)
五月初めの授業。それは高校と中学は違うという、長い説明期間だと認識していた。つまり寝ていても構わない――なんて結論へと行き着き、午前の授業が終わっても眠り続けていたのだ。
(『***』はなにか……、寝言で聞かれるなんて……。居眠りしてた罰かな……)
目の前の女子(自己紹介も寝ていたため名前がわからない)は「それでそれで」と、絵本を聞かされている子供のように喰いついてくる。
無理にでも誤魔化せばよかった。遅すぎる後悔である。
「それで、ぼくには『***』がわからないんだよ」
「うーん……。説明するにはたしかに難しい言葉だねえ……」
考えるような表情、人の問題を勝手に悩んでいるようだ。
やめて欲しい。だってそれは、酷いことに繋がるのだから。
「別にきみが悩むことじゃないよ。ほら、これで寝言の謎は解けただろう? もう昼なんだから飯でも食ってこいよ」
「おやおや、私ときみの仲じゃないか、水臭い」
「……どこにそんな描写がありましたっけ」
「どっかにあったんだよー、書いてないだけで」
どうやら相当に面倒臭い相手に絡まれたらしい。話し始めた時には気付かなかったが、周りの視線がとても熱狂的である。果たしてこの女子は何者なのだろうか。
「……じゃあ、きみは説明できるの」
「いやさっぱり」
「…………」
まあ、期待してはなかった。そもそも期待する要素がゼロである。
「でも、助け出す妙案は思い付いたよ」
「助ける?」
「そう、溺れてるきみを」
助ける。それは彼も言っていた。しかし同時に、それはとても酷いことだということも――言っていた。
「みんなは、きみの海できみを助けようとしたんだね、それでみんなも溺れちゃったんだ。助け出す場所がないんじゃ、そりゃあ助けられないよ」
海しかない場所で、息をしようとしたことが間違い。
だが、それがどうしたというのだ。みんながぼくを助けられなかった理由、それがわかっただけではないか――
「だからさ、私のプライベートビーチに助け出してあげる」
その時、ぼくは震えた。意味もなく、震え出した。
「海面があって、太陽が輝いて、明るく浮いちゃう海。そこを使わせてあげる」
「いや、そんな、無理だ――」
「無理じゃないよ、海は繋がってるんだから。勿論、きみと私の海もね」
得意気に語り、その手を差し伸べた。
「私の海へようこそ」
向けられた言葉を、向けられた笑顔を、ぼくは知らない。
知らないけれど、心地よかった。久しぶりに、息をした気がした。本当に、長い間溺れていたかのように、吸って、吐いた。
「――あれ? あれれ? あわわ、どうしちゃったの!?」
驚くのも無理はない。溜まりに溜まった海水が、やっと外に出てきたのだ。
しょっぱくない海水が、頬を伝う。
今まで傍観していたクラスメイトも、これには驚いたようだ。状況から見て、男子の眼前にいる女子が泣かせたのだなと解釈したようで、
「いや、みなさん! 違うよ! 男泣かせなんて悪女みたいな称号を私に付けないでえええぇぇ――っ!」
と、こっちもこっちで泣きそうである。
「……ごめん、大丈夫、大丈夫だから」
「私が泣かせたのかな……悪い女!」
ノリノリだった。
ふと、この女子の名前すら知らないことに気付く。だがそれよりも、ぼくには言いたいことがあった。名前はあとで訊けばいい、あとで調べればいい。息を始めた今だからこそ、ぼくはこの感情を惜しみもなく――解放した。
「惚れました」
「え?」
「付き合ってくれないだろうか」
「え、あ、はい」
返事の早さに驚いた。そんなことを言った自分に驚いた。
クラスメイトもその急展開に「ええええ!?」という驚きの表情を隠せず、中にはよくもわからず拍手を送る者も出始める始末だ。
言いたいことはあったが、その中身までは自身でもわからなかった。自身のキャラとして、いきなり告白してしまう奴だった覚えはないのだが……。
「えへへ、告られてしまった」
照れていらっしゃる。さて、ぼくはどうすればよいのだろう、今まで生きてきてこんな展開などなかった。
溺れていただけのぼくに、この行動はなかった。
救ってくれたのが彼女なら、気付かせてくれたのは彼だろう。溺れていると自覚しなければ、差し伸べられた手を理解できず、その手を掴むことはなかったはずだ。
まだ『***』が何かわからない。けれども、当分は必要ないだろう。その体現のような奴が近くにいるのだ、少しずつ理解していけばいい。
「そういえば、きみの名前なんていうの?」
「え?」
「いやー、最初の自己紹介寝ちゃってて」
そんな類似点は別にいらない。
「実は……ぼくもきみの名前知らないんだ」
「……せめて名前を知ってから告るべきじゃあ」
それは同感である。
「それじゃあ私から名乗って上げよう。ふはは」
どこの武将だと思ったが、それが彼女なりの照れ隠しらしい。それはこの先、何度もツッコミを入れる中で自然と理解することになる。
その彼女は、屈託のない笑顔で、言う。
「私の名前は――」
◆ ◆
ぼくはその時、まだ気付けずにいた。
初めに彼が溺れていると言ったのは、単なる言葉遊びから出た表現ではなく、そのままの比喩だったということを。
彼もぼくを助けようとした一人であり、助けられなかった一人だった。覚えはなくとも、面識はなくとも、ぼくが名前を知らなくとも、彼は彼なりに、ぼくを救おうとした。
彼には堪えられなかったのだろう。無自覚の内に、ぼくが人を殺していくことに。自身が殺されながらも、堪えられなかったのだろう。
そんな彼の、最後の足掻き。それは直接伝えることだった。初めはあんな酷い言い方をするつもりはなかった。本人の手前、感情的になってしまったのだ。しかし、それは正解だった。
ぼくを正解へと導いた。
『***』を、彼は海と例えた。ぼくはこれから、彼女の海に触れることになる。少しずつ理解していけばいいと思ったが、いやはや、答えという大層なものなど初めからなかったのだ。
なんてことはない、ぼくが知りたかった答えは、溢れんばかりの言葉同様に、どこにでもあった。
人はそれを『ココロ』と言う。