Ⅸ:愚かな生産者
長く真っ白な廊下。ひんやりとしたその石造りの廊下を、その白さに飲み込まれるかのように奥へ奥へと進んでいく老人が一人いた。
口周りに蓄えた髭は、廊下と同化してしまいそうなくらい白い。
その廊下は、照明等も無いのに床や壁がほんのりと光を放っているかのようだった。
老人は、衣擦れの音を引き連れて歩き続けた。
前方にようやく四角い光が見えた。部屋の入り口だ。
扉の無い部屋の入り口を老人がくぐると、目の前に現れたのは、優しい微笑を浮かべた女性だった。
背凭れと肘乗せがある簡素な椅子に座っており、薄いレモン色の髪はどこまでも長く伸びていて、床を伝い壁まで届く程に長い。
天使と違い、翼もリングも無い身体。
老人を前にして、彼女は指一本動かすことなく静かに言った。
「セルシルド、お前に話すことがある」
「はい……。神よ、私も実はお尋ねしたいことがございまして」
「お前の話しは後で聞こう」
“神”と呼ばれるその女性は、表情一つ変えることなく、その優しい微笑みのままで言った。
「クラウドがスペイダーに殺された」
「なんですと!?」
「それに現在聖書を所持しているのはスペイダーだ」
セルシルドは目を大きく見開いて驚いた。
そんな彼を見ても、笑顔を崩さない神。微動だにしない貼り付いたようなその表情は、もはや笑顔というよりも無表情と言うべきであろう。
額に掌を押し当て、落胆した様子で俯くセルシルド。
そして自然と、もう一つ都合の悪い事実に気が付いた。
クラウドが神より受けた使命は、“アリウスと禁断の聖書をマスターリングへと導くこと”である。アリウスがマスターリングを使うべき者であることは、セルシルドも知っていた。しかし、大天使がいなければ、聖書を使ってマスターリングを出現させる方法が分からない。それにも関わらず、スペイダーがクラウドを殺害して聖書を奪ったということは、スペイダーは聖書の使い方を知っていると考えられる。
もはや絶望的な状況だった。
しばらくの沈黙の後、セルシルドは苦しそうな表情で顔を上げた。
「分かりました……私は聖書奪還の為に、アリウス達の下へと向かいます」
言い終わるのと同時に、部屋の出口へと向き直るセルシルドに、神はまた静かに言った。
「お前の話とやらはいいのか?」
思い出したようにセルシルドは振り返り、相変わらず微笑み続ける神に問いかけた。
「そうでしたな……。神よ、スペイダーとは何者なのですか? 何故我々の使命や力を知り尽くしているのですか?」
しばらくの間があった。
お互いに黙ったまま時間が過ぎ、神が慌てる様子も無くゆっくりと語りだした。
「私が天界を創った時のことだ」
神は天界を創るとき、どうしても天使の創造だけが上手くいかなかった。
そこで、天使の存在要素となるマスターリングを使うという術を思いつき、実行した。
天使の創造は成功し、神は大いに喜んだ。
しかし、過去に天使創造に失敗したという悔しさ、不満、怒りといった負の気持ちが胸に残っていた。
これから天使を観測していこうという時に、このような感情は必要ない。
神は考えた。
どうにかしてこの感情を自分の内から消し去る方法は無いだろうかと。
しかし、神は自分が“生み出すことしか出来ない”ということを知っていた。だから自分の中に生み出されたこの負の感情は、消し去ることが出来ない。
何かないだろうか。消せなくてもいい、自分の内から取り除ければ。
そして神は“器”を生み出した。その器は神の不平不満や苛立ち、蟠りを受け止め続けた。
それにより、神は常に澄んだ気持ちでいることができた。
徐々に器に蓄積される負の気持ち。いつしか器は、負の気持ちを受け止め続けることに耐えられなくなってきた。
そしてある日、その器は天界へと降り立った。
天使という存在に生まれ変わって。
「まさか……それがスペイダーですか……?」
「器……つまりスペイダーは、私から直接分かれたのと同じ。私の影とも言えるな。だから使命のことなどを知り尽くしているのだ。私の負の気持ちで満たされた奴は、おそらくマスターリングを使って天使を消し去り、私の楽しみを奪うつもりでいるのだろう。つまらぬ復讐心、まるで子供の悪戯だ」
「悪戯で済まされることではありません!」
表情を変えずにさらりと言い放つ神に対して、セルシルドが怒鳴った。
「……では、何故アリウスを選んだのですか? 何故あの子をマスターリングの使用者に選んだのですか? それに……あの子はリングを持たないというのに、今でも生き続けている。天使ではないとしても、リングを持たなければ存在要素を受信できないのでは?」
「選んだわけではない。元々アリウスは、私が直接天界に生み出した存在だ。マスターリングから発信される天使の存在要素を真似てアリウスに与えた。だから存在し続けているが……」
神は一瞬言葉を止めた。
その先は、もしかしたらセルシルドに聞かれたくないことなのかも知れなかった。しかし、それでも尋ねられればためらい無く打ち明けるだろう。神にとってはその程度の話なのだから。
「……何です?」
そしてセルシルドは尋ねた。
「真似ただけの存在要素では、そう長くはもたないだろう。十五年、よく生きた方だと思う」
セルシルドは一気に肩の力が抜けた。
突如知ってしまった事実。アリウスの命は長くは無い。
十五年間、息子のように思って一緒に過ごしてきた。最高の友であるとも思っていた。
そんなセルシルドには、あまりにも惨すぎる事実だった。
「そんな……あんなに優しい子が……。あの子は、自分を邪険にしていたオルソの村人にまでも優しかった子です……」
「そう、私がそう創ったのだ。マスターリングを使う際、悪意を持たぬようにな」
その場に膝を着き、だらりと垂れ下がった腕を揺らしながら、セルシルドは絶望に陥っていた。
力の無い声で、独り言のようにぶつぶつと呟いた。
「それはあんまりではないか……あの子は道具だとでも? もし、スペイダーを止める前に死んでいたらどうするつもりだったのですか?」
俯くセルシルド。
その床には一粒ずつ水摘が落ちて、白い床に溜まり場を作っていた。
「道具か……アリウスの存在理由を述べるならその表現でも間違いではない。道具が無くなったときは、新たな道具を創るだけのこと」
神の言葉に感情の変化は見られない。まったく動じることも無く、淡々と語られるその言葉は、セルシルドを容赦無く傷つけていった。
ふと、下げていた目線を持ち上げてセルシルドは最後の質問を投げかけた。
「あなた自身がスペイダーを止めることはできないのですか? あなたが生み出したのだから消すこともできるのでは?」
「神とて万能では無いのだ。私は生み出すことは幾らでもできる。しかし、消し去ることはできない。唯一消し去れるのは、自ら創り出した世界のみ。それはこの天界の草木や動物、天使や摂理まるごとということだ」
「生み出すことしかできないということですか……。そうやってその場しのぎで生み出し続けるのですか……」
ゆっくりと立ち上がり、神に背を向けて部屋の出口へと歩き始めたセルシルド。その姿はまるで魂を失ったように、あるいは持ち手を失い一人歩きをする操り人形のようにふらふらとしていた。
向かう先はアリウス達のいる所。
スペイダーの目的が完全に達成された訳ではない。まだ阻止することはできる。そんな微かな希望を力にして、セルシルドは動いていた。
部屋を出ようとする直前、くるりと後ろを振り向いてセルシルドは言い放った。
「神よ……あなたはなんと……なんと愚かなのでしょうか」
そしてセルシルドは部屋を出て行った。
物音一つしない部屋の中で、優しい笑顔を浮かべたままの神は、自分しかいない部屋の中で静かに囁いた。
「愚かか……確かにそうかもしれないな」




