Ⅱ:友達
オルソの村を旅立ってからどれだけ歩いたのか。アリウスが村を出てからすでに三日が経っていた。
天界は、昼間こそ半袖でも過ごしやすいが、夜ともなれば気温はぐっと下がる。そんな寒さをしのぐのに役立つのは、アリウスの着ている雲の繊維で作られた白いローブと、同じ素材で作られた一枚の布。雲の繊維で作られた衣類は、寒くもなく暑くもない快適な着心地を生み出す不思議なものである為、天使達の間では貴重かつ当たり前のように使われている。このローブと布さえあれば、冷える夜も難なく過ごせる。
しかし、問題は食料だった。
教会にあったホワイトベリーの蓄えをカバンにたくさん詰めてきたのだが、それも三日経てば半分以下となってしまった。
「おっかしいなぁ……」
アリウスは地図を睨みながら、鮮やかな金髪の頭をぽりぽり掻いた。
教会から旅立つ支度をしていた時、セルシルドはアリウスに一枚の地図を渡しながらこう言った。
――ここから南東へ真っ直ぐ行くと、カレイルという大きな街がある。そこの大聖堂にいる“ゼオシスト”という天使を訪ねなさい。きっと力になってくれる――
今までオルソの村から出たことの無かったアリウスは、地図一枚を頼りにしてカレイルを目指していたのだが、完全に道に迷ってしまっていた。辺りを見渡しても街らしきものは全く見えず、波打つ緑の草むらが広がるだけであった。
すでにオルソの村すら見えなくなっているので、引き返すこともできない。
「僕って……方向音痴だったのか?」
思わず独り言を呟いてしまう程に、この草原が無限に感じられた。
地図を見ても現在地がわからないので、アリウスは闇雲に歩き出した。雲の流れを追ってみたり、空に飛びあがって周りを見渡してみたりした。
そんなことを続けて約五時間。すでに日は暮れていた。
その時、アリウスは数キロ先に町らしきものを見つけた。歩き疲れてずっと空を飛び続けていたが、翼すらも動きが鈍っていた時の町の発見だった。
町の姿を確認すると、アリウスは歓喜の声を上げながら最後の力を振り絞って、翼を大きく羽ばたかせた。
町の姿がぐんぐん近づき、アリウスの飛行速度もさらに速まる。
しかし、町の様子が遠目で確認できるぐらいまで近づくと、アリウスはその勢いを急に失ってしまった。
町にたどり着くと、その入り口に掛けられていた町の名前を読んで愕然とした。
『酒の町、ゴウルへようこそ!』と書かれた看板が恨めしい。
「……間違えてる」
とりあえず、アリウスは街の入り口をくぐった。
そこは酒の町というだけあって、薄暗い空の下で幾つもの温かい光と笑い声と怒声が漏れる酒場がずらりと並んでいた。
アリウスは大きく音の鳴る自分の腹を押さえながら、食事の出来る店を探し歩いた。
そして、目に止まった一軒の大きな店。
外にいても美味しそうな匂いが辺りを漂っている。立っているだけで涎が口いっぱいに広がってきた。
アリウスはさっそく入り口をくぐろうと扉に手をかけると、アリウスが引くよりも早く、突然扉が開き、中から男が飛び出してきた。
アリウスは男の大きな背中に押されて一緒に転げてしまった。
「馬鹿野郎! てめえは二度と来るな!」
店の入り口には凄い剣幕で立っている太った男がいた。服装から察するに店の従業員、態度からしてこの店の主人であろう。
「言われなくたって二度と来ねえよ! ……ったく、ちょっと暴れただけじゃねえか」
男は、自分の背中で押し潰している存在に気が付いて振り返ると、アリウスの顔をじっと覗き込んだ。
「お前、何してんだ?」
「え? えっと……」
そのとき、アリウスの腹が大きな音をたてた。
「何だ、腹減ってるのか? だったらちょっと来い! この店はろくでもねえから、俺がいい店に連れてってやる!」
そう言って男はアリウスの手を強引に引っ張った。
その力はとても強く、腕が引っこ抜けてしまうのではと思うほどだった。
アリウスは抵抗しようとしたが、空腹で力が入らないことに加え、男の容姿を見て逆らうのが怖かった。
薄汚れているズボンとシャツ。ごつごつした大きなブーツ。アリウスの腕を掴む男の腕は太くて逞しかった。そして眼帯で隠された左目。
歯向かえば殺されてしまうかもしれない。そう思ったアリウスは、腕を引かれながら男の広い歩幅に合わせて小走りで付いていくしかなかった。
男に引かれてたどり着いたのは、先ほどの店とは打って変わって、小汚い小さな酒場だった。窓ガラスにはひびが入っており、屋根や壁には所々に修理した跡がある。傾いている店の看板には『暴れ堕天使』という店名。
アリウスは、生きて明日を迎えられることを願った。
「さあ行こう!」
男はアリウスを再び引っ張って店の中へと入っていった。
中はたくさんの笑い声で溢れていた。店内は気持ち悪くなるほどに酒臭さが充満しており、椅子は転がりテーブルはひっくり返り、奥で店の主人が「いらっしゃい」と言ってもほとんど聞こえなかった。
すると、店の中にいた客の一人が、アリウス達を指差して大声で言った。
「おお、ティレンツェが来たぞー! 全員酒を隠せー! はーっはっはっは!」
「馬鹿野郎! 俺に飲ませる酒が無え店なんか潰れちまえ! がっはっはっはっは!」
男はアリウスの腕を離さないまま大声で笑っていた。
ティレンツェと呼ばれた男は、アリウスを引いて店の奥のカウンターへと進んでいった。
カウンターで男が酒を注文すると、店の主人は気さくな笑顔でジョッキに溢れんばかりのパープルベリー酒を持ってきた。ティレンツェはそれを一気に半分程喉に流し込むと、ジョッキを持ったまま客達の輪の中へと移動していった。もちろん、アリウスの腕は握ったまま。
「今日は来るのが遅かったじゃねえかい」
「ああ、新しくできた表通りのでっかい店に入ってみたんだよ。そしたら俺の注文した酒が品切れだとか言い出したからよ、ちょっと暴れたら追い出されちまった」
「ひゃっはっはっは! この町は天界一酒の飲める町だぜ? ティレンツェ、お前これで何軒目だよぉ。酒飲めなくなっちまうぞ」
「ティレンツェが出入り禁止になった店は両手の指じゃ数え切れねえや。足も使わなきゃ駄目か! あはははっ!」
ふと、一人の男が固まっているアリウスを見て言った。
「おいティレンツェ、この子は誰だい?」
「おお、こいつはさっきの店で出会った腹ペコ天使だ。おーいマスター! 何か料理持ってきてくれよ!」
「坊主、名前は?」
「ア……アリウスです」
ティレンツェが料理をつまみながら、三杯目のジョッキを空にすると、歯を見せながら温かく豪快な笑顔で言った。
「アリウスか……じゃあ“アル”でいいな! 今日は楽しくいこうぜ、アルよぉ!」
しばらくすると、店の主人が素早い手さばきで次々と料理を持ってきた。
そのどれもが温かく、美味しそうな匂いを撒き散らしたので、アリウスは唾を飲み込んで喉を鳴らした。
「食え! 今日はおごってやるからな!」
「……ええ! いいんですか!?」
「ああ、たらふく食え!」
ティレンツェは腕を組んで大きく頷いた。
すると隣の男が、アリウスの方を向いてにんまりとして言った。
「こいつ偉そうに言ってるけどな、まともに代金払ったことねえんだぜ!」
「おいおい、今日はちゃんと金はあるってんだよ。昨日の分もまとめて払ってやるぜー!」
皆が一斉に笑いだした。
彼らが喋るたびに酒臭い息が辺りを包み、アリウスの鼻を突く。
それでもおいしい料理と陽気な男達に囲まれていることは、まったく嫌ではなかった。
アリウスも周りの雰囲気に乗せられてたくさん笑った。
こんな大勢で一緒に過ごし、大声で一緒に笑い合って、楽しく飲み食いすることを初めて経験した。
時間はどんどん過ぎていき、深夜になると店内の客達は次々とあくびをした。
「アル、寝る場所はあんのか? どうせ決まってないんだろう。今日はここに泊まっていきな。この店で一晩越すやつなんかたくさんいるからよ」
ティレンツェがそういうと、すでに周りからは何人もの寝息が聞こえてきた。店の主人までが部屋に戻っていった。
ありがたいが変な店だと思った。
いつの間にか、店内からも外の通りからも音が無くなった。
アリウスは店の隅にうずくまって目を閉じたが、なかなか寝付けなくて表に出た。店の屋根の上に飛び上がると、穴が開いてしまいそうな程に頼りない屋根に腰を静かに下ろした。
その日の夜空は雲一つ無く、綺麗な星がどこまでも広がっていた。
今頃セルシルドはどうしているのか。セルシルドのことばかりを考えていると、オルソの村の悲劇が脳裏に甦る。
アリウスは、肩から袈裟掛けにしていたカバンの中から『禁断の聖書』を取り出した。
これが原因で村が無くなった。村人達に長い間嫌われ続けても、アリウスにとっては大切な場所だった。大好きな村人達だった。
以前、セルシルドに聞かれたことがあった。
――お前はどうして村人に嫌われ続けても、村人を嫌いになったりしないんだい?――
アリウスは笑いながらこう答えた。
――嫌われる辛さが分かるから、村の皆を嫌いになりたくないんです――
『禁断の聖書』を見つめながら、アリウスはだんだん目に涙が溜まってきたのを感じた。
その答えを聞いたセルシルドは、アリウスのことをよく褒めてくれていた。
「セルシルド様…………」
「おい!」
突然の声に驚いてアリウスは顔を上げた。
目の前には、ティレンツェが翼を広げて浮いていた。顔はまだ赤かった。
「何やってんだ?」
そう言ってティレンツェは、アリウスの隣に座った。遠慮もせずにどかっと座ったので、屋根はぎしぎしと音をたてた。崩れるんじゃないかと心配になったが、どうやら店は持ち堪えたみたいだ。
「……ちょっと考え事があって。それより、どうしてティレンツェさん達は僕のことを気味悪がらないの?」
ティレンツェは「何で?」と言いたそうな顔でアリウスを見た。しかし、すぐに察しがついたのか、一度視線をアリウスの頭上に持っていってから再び目を合わせた。
「俺達はお前にリングが無い程度のことは気にしてねえよ。お前こそ余計なこと気にしてんじゃねえ」
「僕、ずっと村で気味悪がられてたから。リングが無いから“呪われた子”とか言われてたんだ。だから、ティレンツェさん達が僕を普通に受け入れてくれたのがすごく嬉しかったんだ。でも…………」
「でも……何だよ?」
「もしかして明日になって酔いが覚めたら、皆僕のことを嫌いになったりするんじゃないかって思っちゃうんだ。こんなこと考えるのはすごく失礼だと思う。でも……どうしても考えちゃうんだよ」
ティレンツェは頬を指で掻きながらしばらく黙っていた。しかし、アリウスの背中に腕を伸ばすと、バンバンと強く叩いた。
その力が強かったので、思わず屋根から転げ落ちそうになってしまった。
「なあ、アル…………その“ティレンツェさん”っていうのはやめろ。友達同士は名前やあだ名で呼び合うもんだ。だから俺のことは“ティレンツェ”と呼べ」
「えっ…………」
アリウスは驚いた。
アリウスが今までずっと憧れてきた存在、“友達”。生まれて初めて自分のことを友達と呼んでくれたことが信じられなかった。
「僕が……友達……?」
「当たり前だ。…………あのなぁ、お前は確かにリングを持ってないけど、俺にだって無いものがあるじゃねえか」
そう言ってティレンツェは、左目の眼帯をめくって見せた。
その左目は大きな傷に塞がれて、決して光が入ることはないと分かった。
「お前に無くて俺にあるもの、俺に無くてお前にあるもの。俺達はたいして違わないだろう?」
アリウスは、昔セルシルドに言われたことを思い出した。
――お前にはリングが無いが、私にだって無いものがあるんだぞ?――
今、自分の目の前にいる男が、自分の大好きな人と同じ事を言っている。セルシルドが傍にいるみたいに感じる。
「アル、自分に無いものを羨むよりも、自分にあるものを誇れ」
ティレンツェは真剣な眼差しでアリウスをじっと見た。
こんなにも自分の心を打つ言葉は、セルシルドからしか聞いたことがなかった。アリウスは、このティレンツェという男がとても偉大に思えた。
「僕が……誇れるもの」
「そうだ。それでも自分に誇れるものが分からなかったら…………分かるまでは、俺という友達を持ったことを誇れよ! がっはっはっは!」
そう言ってティレンツェは、独特の豪快な笑い声を響かせた。
そしてアリウスの前に手を差し出して、握手を求めた。
ティレンツェは、「俺たちは友達だ。よろしく、アル」と言って右手をずっと差し出し続けていた。
アリウスは嬉しくて涙が出てきた。それを見たティレンツェは、アリウスの頭に手を載せて、髪が抜けそうなくらいに頭を撫でた。
「泣くなっての! 友達との握手ぐらい笑顔でやろうぜ!」
アリウスは頷きながら涙を拭うと、ティレンツェを真似て満面の笑みを見せた。
そして再び差し出されたティレンツェの大きな手を、力強く握り返した。
「よろしく、ティレンツェ!」
「おう!」
ティレンツェは、アリウスの手をぎゅっと握り返してくれた。




