last:あなたに幸せを捧ぐ
神は、天界を創造する時に一つの壁にぶつかっていた。
それは、天使という生命を誕生させる際にどうしても上手く創れないものがあった。
野生に生きる他の生命とはまったく異なる“心”である。
時には本能に背き、時には自ら死を選び、時には他を捨ててまで快楽を求め、無謀に、貪欲に、残忍に、理不尽に、純粋に。
そういった複雑な生命がどのような道を歩むのかということを観測したかった。
だから神は天使を創る事にしたのだが、それは想像以上に困難を極めた。
そしてその問題を解決すべく生み出したのが、マスターリングであった。
マスターリングの持つ理念は、神の求めたものを持っていた。
この理念を天使という生命に組み込むことで、天使は神の望んだとおりの生命となった。
天使は頭上にリングを取り付けられ、これは常にマスターリングの持つ理念を受信し続けている。
こうして天使という生命は誕生した。
天使創造の過程の中で、神には様々な、そして初めて知る気持ちが生まれていた。
思い通りに創り上げられない不満、怒り、苦悩、さらにはある種の絶望。
それらを神はいつまでも抱きたくなかった。抱き続けても何の役にも立たないと考えたから。
そして器を作った。
神の不必要と判断した感情や思考を受け止め、溜め続ける器である。
神は器をどんどん満たしていった。
やがて器は意思を持ち、疑問を抱えた。
なぜこんなにも苦しいものを受け止め続けなくてはいけないのだろう、こんなものは自分だって欲しくはないのに、と。
器自身が持つ不満や怒りなどは、時を重ねることに募り、それは自分の中に溜まり続けた。
苦しくて、辛くて、重くて。器には限界が近づいていた。
そして時は流れ、器はあるものを見てしまった。
天界に暮らす天使の姿だった。
天使はその発達した頭脳で文化を作っていった。そして、他の生物には無い独特な生命であった。
あるところでは、わが子を守ろうとして父親が命を落とし、別の場所では他者を騙して幸せを掴む者がいた。
喜び、悲しみ、恨み、誇り、称え、嘆き、怒り、狂い、立ち直り、絶望に打ちひしがれ、幸せをかみ締め、そして生まれ、死ぬ。
こんなにも様々な気持ちで満ちた生命がいることを、器は改めて知った。
そして羨ましく思った。
自分もああなりたい。
それと同時に怒りもあった。
神はあの天使を創る為に自分を生み出した。なぜ同じ神から創られたのにこんなにも違うのだろう。
あるとき、神は呟いた。
「実に面白い生命だな。預言者を名乗る者が、ある予言を唄にした。私ですら未来など見えぬというのに、私の創造物でしか無いものが私を越えたかのように嘯く」
神は彼等を笑ったが、器は違った。
器は思った。天使はすごい生き物なのではないか。神は生み出すことしか出来ぬ存在だと言うのに、天使は何だって出来る。
そう、天使になれさえすれば自分も好きなことができる。
そしてさらに時が流れた。
器は決意した。自分も天界に降りよう、と。
もう神の屑籠でいるのは嫌だ。天界に行き、天使として暮らそう。
この溜まった今までのものはどうしよう。いや、いい。このまま持っていこう。神への怒りを忘れぬ為に。
そして器は天界に落ちた。
神がそれに気付いた時には、すでに器は神の手の届かぬところにいた。
「まあよい。この後で天界がどのように動くのかも興味がある」
それでも神は、器の心情を知っていたから、マスターリングを狙われることに対して多少の不安を抱えた。
そして、器にマスターリングを狙われた時のために、微力ながらの抵抗策として新たなものを創り上げた。
リングを持たぬ存在。それでいて天使に限りなく近い存在。
おそらくマスターリングから理念を受けぬこの存在は、その命は長くは持たない。
器を止めるのが早いか、命尽きるのが早いか。
「それもまた一興だな」
神には天界がどのようになろうとも、それは単純に娯楽でしかなかった。
そして、天界に落ちた器は天使として生まれ変わり、別の場所では一人の大天使の元へ輪を持たない天使の赤ん坊が託された。
アリウスは、マスターリングから頭に流れ込んでくる全ての真相をしっかりと受け止めた。
今、スペイダーに対して感じるものは、憤りよりも哀れみだった。
「俺がお前に似ているだって? ふざけるな! 俺の気持ちが分かるか! 長い時を……それこそ永遠とも思えるような時を、あいつのゴミ箱として使われてきた俺の気持ちが分かるってのか!?」
スペイダーが叫んだ。
セルシルド達はただその言葉を聞き入っていた。
「なんだか……定められた運命を生きてきた中で感じる、寂しさとか虚しさは分かる気がするんだ」
「うるさい! 俺を哀れむな! 俺はあいつに一泡吹かせるまでは絶対諦めない! ……天界の天使共を使ってあんなやつ消し去ってやる。あんな馬鹿げた生産者なんかいなくなっちまえばいい。必要ないんだ、あいつは! ははっ、自分が創った天使にぶっ殺されるんだ。自業自得さ!」
スペイダーは体を動かそうと必死にもがこうとする。しかし、マスターリングに縛られたその体はぴくりともせず、マスターリングの強制力は揺るがない。
スペイダーが突然笑い出した。そしてその目は鋭いままアリウスを睨みつけ、最後まで諦めないという思いを発していた。
そして、アリウスに向かって諭すように言った。
「お前がリングを手に入れたのは、唄にあった条件を満たしたからだとでも言うのか? 違う、あんなもの関係ない。ただ、今はマスターリングを手にしているってだけだ。いずれそれは俺のところへ戻ってくる。運命なんてのはなぁ、予言なんかにゃ動かされないんだよ!」
それが彼の強がりだということは、アリウスにはよく解っていた。
なぜならスペイダーは、器だった頃に思っていたからだ。予言をした天使を羨んで、憧れて、そして天界に降りてきたのだから。彼が予言を信じて、自分の目的意識の支えとしていたことは、さっきスペイダーの頭の中を見たときに知ったことだ。
だが、それなのにアリウスは少し優しく微笑んでこう言った。
「…………僕もそう思う。だって、今考えてみると、あの予言は外れているんだもの」
「なに?」
「一人ぼっちの子天使って唄っているけど、僕は一人ぼっちなんかじゃない。こんなに仲間がいるから」
オルソの村で共に暮らしたセルシルド、旅立ってから出会ったティレンツェ、ゼオシスト、クラウド、ジェオルド。皆がアリウスにとって大切な仲間であった。そしてそれは彼らにとっても同じであり、アリウスのことを、スペイダーを止める為の手段とは思っていないのだ。
聖書を介して彼等の心の内を覗くようなことをしなくても分かる。
間違いなくアリウスは、一人ぼっちではない。
「アリウス……」
ゼオシストが呟くと、隣にはセルシルドが寄ってきていた。
「あの子の優しさは神が創ったのだと聞いた。だが、私にはそうは思えないよ。今、あの子はスペイダーさえも救いたいと思っている。神はスペイダーを救おうとするどころか、天界そのものに手を下すつもりもないからな」
ジェオルドは天井を見上げて言った。
「クラウドよ、聞いたか? あの子はお前にも負けない優しい子だ」
そしてティレンツェが腕を組んで自慢げに言った。
「馬鹿野郎! そんなの当たり前じゃねえか!」
アリウスは、右手で広げた聖書のページをめくり、大きく深呼吸してからスペイダーの方を改めて見直した。その瞳はすでにスペイダーに対する負の感情は抱いておらず、神のような、いや、髪の偽りの眼差しとは違う本当に優しい眼差しだった。
歯を食いしばり、まだアリウスを睨み続けるスペイダーだったが、ふと表情を崩して、意を決したかのように真っ直ぐ前を見据えた。
「もういい……殺せ」
静かに呟いた。
アリウスはまた首を横に振って言った。
「出来ないよ」
「ふざけるな、このまま立たせとく気かよ。俺は元々神が創った器だ。器が壊れるぐらい誰も責めやしねえよ」
「僕はあなたを殺せない。でも、このまま放っておけない」
「じゃあどうすんだよ?」
アリウスは聖書をなぞるようにしながら目を閉じて念じた。
スペイダーの体が徐々に宙に浮いていき、天井にぶつかりそうなぐらいまで昇った。
セルシルド達が不思議そうに見上げる。
そしてその逆で、スペイダーは彼らを見下ろした。
ふと、自分の異変に気がつく。
足先がぼんやりと光を放ち、その光は徐々に大きく膨らみ、だんだんとスペイダーの体を包み込み始めた。
アリウスが天井を見上げていった。
「あなたに幸せを感じてほしい」
「……どういうことだ?」
「あなたは今まで苦しい思いや辛い気持ちを受け止め続けてきたんでしょう? だから、今度は皆の中で生き続けて、皆の喜びや幸せを感じてもらおうと思うんだ」
「くだらねえ。そんなのまっぴらごめんだ」
光はすでにスペイダーの腹までを包み込んでいた。
「嘘だよ。だってマスターリングを持っていると、気持ちが読めるもん」
笑いかけるアリウスの顔を見て、スペイダーも少しだけ笑った。
スペイダーが初めて感じた喜びは、アリウスの優しさだった。
光はもう首までを包み込み、やがて十数秒には頭の上まで到達した。
そして完全に包まれたスペイダーは光の球となり、しばらく浮いた後で、その場で細かく弾けた。
弾けた無数の破片は、まるで雪のようにひらひらと辺りに降り注いでいった。
その一つはティレンツェの傍まで舞い降りて、肩に触れると吸い込まれるように消えていった。
それに続いていくつもの破片が体に吸い込まれると、突然ティレンツェは涙を流し始めた。
「あれ?」
同じように破片を体全体で受け止めた大天使達も、知らぬ間に自分の頬を涙が流れていることに気がついた。
「悲しい……」
ゼオシストが少し鼻を詰まらせた声で言うと、セルシルドは手の平で目頭を押さえながら返した。
「ああ……こんなにも辛かったのか」
それはスペイダーが今まで溜め込んできた苦しみと悲しみの結晶だった。
そして、触れた者の体に宿り、その者に同じ気持ちを少しだけ伝える。
そして破片に触れた者はスペイダーの気持ちを知り、それに同情する。
そして誓う。
体に入ってきたこの苦しみや悲しみを覆い尽くすように、これからの人生を精一杯の幸せや喜びで満たそうと。
破片は神戯殿の床をすり抜け、浮遊する巨大岩をも越え、地上に降り注ぐ。天界全土に降り注ぐ。
そして、スペイダーを知らぬ者を含めた全ての天使達は、雪に似たその結晶を不思議に思いつつも、体で受け止めた途端に涙を流していった。
一体この気持ちが誰のものなのか知らずとも、哀れむ心で涙を流し、一生の幸福を誓うのだ。
この日、天界全土の天使が泣いた日となった。
「今度はいっぱい幸せな気持ちを受け止めてね」
アリウスは台座の上に立ち、大粒の涙をポトポトとこぼし、それでも微笑んだまま、聖書を片手にいつまでも結晶を受け止めていた。
そして結晶は、いつまでも降り注いだ。
一ヶ月が経った。
カレイルでは、天界のあちこちから移り住んで街の復興を目指す者たちで溢れかえっていた。
まだまだ瓦礫の山も多く残っているが、天使達の賑わいを聞いているとすっかり以前の街の面影を見ることができる。
「おい! そのテーブルはそこじゃねえよ! あっ、おい店長! さっさと酒を出せる準備してくんねえかぁ?」
ティレンツェの威勢の良い声が響き渡る。
ゴウルの街にあった、ティレンツェの行き着けの酒場『暴れ堕天使』は、本日よりカレイルに移転することとなった。
今は常連達の協力で、店の内装を手掛けているのだが、どうも捗っていない様子だ。
「絶対今夜までには終わらせようぜ! 今夜は移転祝いに飲むんだからな! アルやゼオシスト達を潰すぐらいまで騒ぐぞー!」
ティレンツェの掛け声に続いて、店内の天使全てが腕を振り上げて返事をした。
その頃、シャルルー大聖堂の裏庭では、多くの墓標を見渡しながらゼオシストがシャベルを持って立ちつくしていた。
「何をやってるんだ?」
背後からジェオルドが声をかけた。
彼の両手は、今夜行われる“暴れ堕天使移転パーティー”で使われる食材で塞がれていた。
「ああ、ここに立つとシャベルを持ちたくなってしまうんだ。何故だろう?」
「不要な墓穴は掘るなよ……」
少々呆れ顔で歩き出すジェオルド。
それを呼び止めるゼオシスト。
「ジェオルド」
「何だ?」
「姉さんの墓なんだが……あのままにしておこうかと思う」
「……そうか。じゃあ、俺があの教会を貰うってことでいいな」
「ああ」
一週間前、二人はクラウドの眠る丘を訪れていた。
もちろんそれは、幼い頃から見てきた日の出を見るためだった。
そしてジェオルドは、クラウドの墓をカレイルに移すかと提案した。
だがゼオシストは首を横に振って、日の出を見ながら答えた。
「姉さんはここが好きだから。私はカレイルに戻るが、ジェオルドがよければこの村を復興させてくれないか? どうせお前の家は倒壊寸前なのだし、姉さんの教会を使えばいい」
「失礼だな。……だが、それも悪くは無い。まあ、俺も一度カレイルに行って復興を手伝うさ。そのときにまた話そう。お前の気が変わらんとも言えないからな」
そして現在、カレイルの復興を手伝うという名目で、ジェオルドはティレンツェと毎日のように晩酌をしている。
「そういえばアリウスはどこに行った? 今日は見てないんだが」
「アリウスならセルシルドと一緒だ。上にいるよ」
「上?」
シャルルー大聖堂の台形の屋根の上に、アリウスは腰を下ろして空を眺めていた。
その背後で、セルシルドがアリウスの翼にあてがっているギプスを外し、手で翼を何度か動かしてみた。
「痛むか?」
「いえ、大丈夫です。何かすぐにでも飛べそう」
「無理をするな。少しずつだぞ」
アリウスは笑いながら返事をした。
天気が良く、日光を浴びた体は少し汗ばむくらいだ。
「こんな日に空を飛べたら気持ちいいだろうなぁ」
セルシルドも微笑んだ。
しかし、そのすぐ後で真面目な顔になって言った。
「アリウス……お前の命は……」
「大丈夫です」
アリウスが言葉を遮った。
言いたいことは分かっていたようだ。
「神様を恨むつもりもないですし、セルシルド様やティレンツェ達と過ごしている今がとっても幸せだから……全然へっちゃらですよ!」
偽りの無いことはアリウスの瞳を見れば分かった。
アリウスは本当に幸せなのだろう。
セルシルドは口を閉じると、再び微笑を浮かべて頷いた。
下からティレンツェの声が聞こえてくる。実は新しい『暴れ堕天使』は、シャルルー大聖堂の目の前に建てられていた。提案したのはティレンツェで、ゼオシストは反対していた。
屋根から下を覗き込み、ティレンツェを探すアリウス。
すると、ティレンツェもアリウスに気がついたのか、手を振りながら大声で言った。
「アル! 暇してるんならちょっと手伝え!」
「分かった!」
そういってアリウスは翼を大きく広げた。
「ん? おい、大丈夫か」
アリウスは白い歯を見せてにんまりと笑い、そのまま屋根から飛び降りた。
そして一度羽ばたくと、体は地面からぐんと離れた。
そのまま大きく旋回するアリウス。
「おお?」
「ん?」
その姿をティレンツェやゼオシストも確認した。
とても気持ち良さそうに空を飛ぶアリウス。その表情は嬉しそうで、イキイキとした目をしていた。
「伝わってるかな? 僕は今、幸せだよ」
アリウスは胸に手を当てて小さく言った。
きっとその思いは、アリウスの中の小さな結晶に届いていることだろう。
≪了≫