XIII:選ばれた者
手足をバタつかせる。
そこには何も無いのに、掴めるもの、触れられるものを求めて必死に手足を動かす。
翼を動かそうとすると激しい痛みが走る。
今まで翼を動かせて当然だった。空を飛べることが当たり前だった。
どんどん遠ざかっていく巨大岩の頂上も見ている余裕が無く、着実に迫る死の恐怖にアリウスは翻弄されていた。
悲鳴も出ない。
内臓が浮く感じ、腹がむず痒くなる感覚はあった。
山よりも高いところから落下するアリウスは、生まれて初めて空を怖いと思った。今まで背中の翼で自由に飛んでいた広大な空。そんな空は、翼を失ったというだけでアリウスに容赦なく恐怖を与えた。
このまま落下すれば地面に叩きつけられる。待っているのは骨折などの生易しいものでは無く、絶対的な死だけだ。
自分の死を確信し始めたとき、脳裏に映ったものは自分の今までの人生などではなかった。
セルシルドの優しい笑顔も、村を旅立ってから出会った仲間達でもなく、映ったのはスペイダーの最後に見せた、勝ち誇ったような顔だけだった。
「スペイダァァァッ!」
悔しさのあまりに思わず発した声。
その声を響かせながら、背を下にして落下を続けるアリウス。
すると突然、落下スピードが減速して、体が受け止められるような衝激を感じた。
そのまま数秒間体を支える何かに身を委ねて下降していき、周りの景色は木々が生い茂る山の中へと変わった。
どうやら地面にたどり着いたらしい。
そこで初めて自分が誰かに抱きかかえられていることを知った。
そして顔を上げると、そこには汗をかいて大きく息を吐くティレンツェの顔があった。
「っあー! 焦ったぁ! 大丈夫かよ、アル」
「ティレンツェ……」
その太い腕からゆっくりとアリウスを地面に下ろし、額の汗を拭ってもう一度大きく深呼吸をするティレンツェ。
アリウスは自分が生きていることに気がつき、一気に全身の力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
目の周りは涙が飛び散っており、落下中に涙が出ていたことを気付かせた。
「はー……ありがとうティレンツェ。すっごく怖かったし、もうダメかと思った」
「俺も必死で飛んできたよ。すっげえとばしてきたんだぞ」
ティレンツェもその場に腰を着いて呼吸を整える。
ふと、アリウスはティレンツェに尋ねた。
「そういえば……セルシルド様と一緒に上に行ったんじゃ……」
「ああ、神殿内部でマスターリングも見つけたよ。そしたらセルシルドさんがアル達の所へ行ってやってくれっつーからさ。手伝いに来たの。そしたらちょうどお前が落っこちてるところだったんだよ」
アリウスは改めてティレンツェに感謝した。まさに絶妙のタイミングだったようだ。
ほっと胸を撫で下ろしていると、ティレンツェは気がついたかのように言った。
「アル、お前……その翼大丈夫か?」
言われて思い出すと、顔をしかめるぐらいに痛みが込み上げてきた。
純白だった羽毛はその半分以上を、傷口を中心に赤く染めていた。しかも右側の翼と形を比べると、歪に変形していた。もう羽ばたけそうも無い。片側の翼だけ動かすことは、手の薬指を動かさずに小指だけを曲げるのと同様で非常にやりづらいのだ。仮に動かせたとしても、これでは空を飛べない。
アリウスは顔を上げて浮遊する巨大岩を睨んだ。
「スペイダーが上に……ゼオシストさんもいるんだ。それにセルシルド様だっているんでしょ? 助けなきゃ」
アリウスはすっと立ち上がり翼を動かそうとした。
ピクリと翼が動くたびに、痛みで歯を食いしばって体を前に屈めてしまう。
飛べるはず無い。そんなことは分かっているのに、それでももう一度神戯殿まで行かなければという思いがアリウスをそうさせた。
「アル、無理すんなって」
「でも……行かないわけにはいかないよ。僕は死なずに済んだ。だからまだ抵抗しなきゃ。スペイダーの思い通りにさせちゃいけないんだ」
立ち上がったティレンツェを見ながらアリウスがさらに言った。
「まだ僕は諦めない。僕がまだ生きてるってことは、これからまだ挽回できるチャンスがあると思うんだ。だって僕はまだ風の励ましを受けてない、条件を満たしていないから…………。逆を言えば、これから条件を満たすかもしれない」
するとティレンツェは、歯を見せて笑いかけながらアリウスに近づいた。
そのままアリウスの後ろに回り込むと、突然アリウスを羽交い締めにした。
ティレンツェの胸に翼が当たり、少し痛みが走った。
「痛っ!」
「ちょっと我慢しろ。このまま飛んでお前を上に連れて行くまでの辛抱だ」
「え?」
アリウスが後ろを振り返り、ティレンツェの顔を伺った。
ティレンツェは空を見上げ、巨大岩の上までの距離を測るように上空を見つめ続けていた。
その途中でアリウスに言った。
「リングを手にする条件がまだ揃ってないんだってな。今から揃えてやるよ」
「どういうこと?」
「俺がお前の“風”になってやるってことだよ」
そのままティレンツェは地面を一度蹴り、アリウスを抱えたままどんどん上昇を続けた。
そこで思ったのだ。アリウスのリングを手にする条件の一つである“風の励ましを背に受ける”ということ。これこそまさにそうではないかと感じ始めた。
実際にアリウスは、今まで幾度と無くティレンツェに励まされ、助けてもらってきた。
この旅で得た仲間に改めて大きな感謝をするアリウス。
仲間達の期待に応える為に、仲間達と天界を守る為に、アリウスは決してスペイダーに負けないことを静かに誓った。最初の頃の不安などは微塵も残さぬように。
「スペイダー、絶対止めてやる!」
「ああ! その意気だ!」
神殿内部は光が入り込まず、真っ暗だった。
そんな中をスペイダーにナイフを突きつけられてゼオシストは歩いていた。
この、先が見えぬ暗闇の中のどこにマスターリングがあるのか。
それはゼオシストにも分からなかったが、スペイダーは迷うことも無くただひたすらに真っ直ぐ歩き続けるだけだった。
「なぜ私を殺さない」
ゼオシストが問いかけた。
暗闇でスペイダーの表情はほとんど見えないが、ヘラヘラしているように思える声が返ってきた。
「別に理由は無えよ。せっかくここまで来たんだからマスターリングを拝ませてやろうと思っただけさ。リングを手にしちまえばいつでも殺せるし。それに、お前達大天使同士で殺し合いをさせてみようかと思ってるからさ……俺が殺しちゃつまらないだろう?」
二人はさらに足を進めた。
どれ程歩いたのか、あるところから異様な雰囲気が辺り一面に広がっていることに気がついた。
何か空気が違う、まるで別世界にでも来てしまったかのような。
ゼオシストが辺りを見渡すと、ふいに周囲の景色が一変した。
それは先程までの暗闇の中には無かった、光に包まれた部屋。
高い天井と広い室内。部屋の中央には台座があった。そしてその上に浮かぶ直径四メートルほどの巨大な輪を形作っている光。
色は天使の頭上に浮かぶリングと同じ薄いレモン色。
「あれが……マスターリングか……」
「そうだ。神が天使という存在を支配する為に作った遊具。俺たち天使はこのマスターリング無しでは生きられず、生まれてから死ぬまでこのリングに支配され続ける存在なんだ」
台座の前には、スペイダーより先に神殿内に入っていた幹部の者達が集まっていた。
スペイダーとゼオシストの存在に気がつき、全員の視線は二人に向けられた。
「やあ、遅くなって悪かったな」
「スペイダー、実はこいつが先に来ていたんだ」
幹部の一人が台座の下にもたれかかって倒れている天使を指差した。
「セルシルド!」
ゼオシストは駆け寄ろうとしたが、素早くスペイダーが腕を掴んで引き戻した。そしてそのまま体の大きい幹部の者に、目で合図しながらゼオシストを預けた。
首をがっちりと抱え込まれて身動きの取れないゼオシスト。
スペイダーはゆっくりとセルシルドの傍まで歩み寄った。
「殺したのか?」
「いや、生きてる。とりあえずあんたの指示を待とうと思って……」
「そうか、よくやってくれた。あんがと」
スペイダーは次に台座の上へと上がり、マスターリングの中央に立った。そして腰に巻いた帯に挟んである禁断の聖書を取り出し、大きく深呼吸をした。
「ああ、遂に来たんだ。ここまで」
ゼオシストはスペイダーを睨みつけていた。
それを見たスペイダーは、小さく鼻で笑うと聖書を開こうと手をかけた。
「神も馬鹿な奴だよ。あいつは何の力も持っちゃいない。このリングを手にする者こそが真の神だ!」
スペイダーは聖書の表紙を開いた。
スペイダーの手に載せられた聖書が、目を開けていられぬほどの眩しい光を放ち、その場にいる全員の視界を奪った。
しばらくして徐々に聖書の輝きは弱くなり、今では温かそうな優しい光を僅かに放っている程度となった。
スペイダーが聖書のページを一枚一枚めくっていく。
小さく肩を動かして笑いながら言った。
「ははっ……ははははっ! 読めるよ! 聖書が読めるんだよ!」
スペイダーの様子にある種の恐怖を感じながらも、一人の幹部が尋ねた。
「な、何が書いてあるんだ?」
「えー? 何が書いてあるかって? そうだなぁ、書いてあることは読めるんだけど、何て言えばいいのか分かんねえよ。まあ、言葉にするようなことじゃないのさ。ははははっ!」
天使達は不思議そうに首を傾げるだけだった。
それでも楽しそうに聖書を眺めるスペイダー。
ふと、突然あるページを開いたまま動かなくなった。顔からも先程の嬉々とした表情が消え失せていた。
一人の幹部が声をかけようと一歩歩み寄った瞬間、スペイダーが明らかに企みを隠した卑しい笑顔を浮かべてこちらを見た。
ゼオシストの背筋を冷たいものが走る。
「おい、デューロン……」
一歩近づいた天使の名を呼び、スペイダーは彼の進行を止めた。
デューロンと呼ばれたその天使は、やはり顔に汗を掻いて緊張していた。
「な、なんだ?」
「お前さあ、俺の聖書を奪って自分がマスターリングを手に入れようって考えているだろう」
とっさの言葉に首を大きく横に振って言った。
「な、何言ってやがる! 俺はそんなことは……」
「嘘だね。分かっちゃいねえな。マスターリングはお前たちを支配するものだぜ? これはお前たちの思考や記憶、果ては脳から四肢に送られる命令信号まで自由にできるものなんだよ」
顔中を冷や汗が走り回っている。
デューロンの鼻先、顎先からはポツポツと垂れた汗が、汚れなき白の床へと吸い込まれていく。
「俺は……」
「嘘をつくな。正直に言うんだ、いいな?」
優しく、ゆっくりと話しかけるスペイダー。
震える体をどうにか抑えようと、拳をぎゅっと握り締めたまま体を力ませているデューロン。
そして、一生懸命に言葉を搾り出した。
「そりゃあ…………そんなすげえもんを目の前にしたら、欲しいって思っちまうのは仕方ないだろう」
「そうだな、よく正直に答えてくれた」
安心したかのように息を吐くデューロン。しかし、そんな安心感も長くは続かなかった。
安心感と入れ替わりでデューロンを襲うのは、頭を内側へと押し縮められるような激しい苦しみだった。
頭を両手で抱えながらその場で倒れこみ、のた打ち回るデューロン。目を見開き、耳からは血が流れ、歯と髪が少しずつ抜け落ちていく。悲鳴は徐々に小さくなり、遂には苦悶の表情を浮かべながら微動だにしない、変わり果ててしまった一人の天使の死体と化した。
「俺と一緒に動き出した頃から何かと油断できねえ野郎だったしな。とりあえずお前はもう要らない」
残忍に言い放ったスペイダーは、唖然とする他の天使達の方を向き直った。
すると、一人の初老の男が恐怖におののく声で言った。
「な、なあ……我々は今までお前さんについてきたじゃないか。その……確かに我々全員がマスターリングへ多少なりとも憧れを持っただろう。だが、決してもうそんなことは考えんぞ。それはまさしくお前が」
「見苦しいぞ」
スペイダーが会話を止めた。
「そんな回りくどい命乞いはするな。こう言えばいいんだよ、『殺さないでください』ってな」
怪しく笑うスペイダーを見上げ、その場にいる全員が息を呑む。
殺される、ここにいてはきっと。
それを直感した途端、体中から汗がふきだし膝が震えだす。
「十秒だ……」
「え?」
「十秒だけ時間をやる。その間に遠くへ逃げろよ。一……」
スペイダーがカウントを始めた途端、その場にいた幹部のもの達が一斉に走り出した。
一枚のドアも見当たらない、一見完全に密閉されたこの部屋の、真っ白な壁に体をぶつける天使たち。すると、溶け込むかのように白い壁の中へと体が埋まっていく。
ゼオシストはこの部屋に入った時のことを思い出した。暗闇の中で空気の変わった感覚は、壁の中を抜けているときだったのだ。
ゼオシストの首を抱え込んでいた大柄な天使も、その巨体で全力疾走をしていった。
スペイダーのカウントダウンが続く。
ゼオシストはそのうちにセルシルドの方へと駆け寄った。
「八……九……十……よし、時間だ」
台座の上で再び聖書のページをめくるスペイダー。
マスターリングの力からは逃げられない。離れた場所に移動したからといって、逃げたことになどなるわけがない。それでもパニック状態となってしまった彼らには、スペイダーの指示通りその場から逃げ去ることしか出来なかったのだろう。おそらく、今はデューロン同様に全員死んだに違いない。
マスターリングを操るスペイダーにとって、天使はまるでおもちゃだった。
ゼオシストはセルシルドの体を抱えて、スペイダーの立つ台座から遠ざけようとした。
「ん? ……どうやらアリウスがこっちに向かってきているな。アリウスを抱えて飛んでいる天使はお前達の仲間だろう?」
「何……?」
「ったく。余計なことをしてくれるもんだぜ」
「…………ティレンツェか?」
スペイダーが聖書をめくろうと手を動かした。
ゼオシストはそれに気がつき、素早く翼を広げてスペイダーに飛びかかった。
彼女の伸ばした手が聖書へ触れようとした時、彼女の体は空中に浮いたまま硬直し、石のように固まってしまった。
「ぐっ!」
唯一動かせるのは目と口のみ。
あとほんの僅か、小指の爪の半分ほど先に、スペイダーの持つ聖書があった。
たったこれだけの距離が届かない。
ゼオシストは必死に手を伸ばそうとする。しかし、伸ばそうとする意識があるだけで、体は全く動かなかった。
「残念だったな、少し遅かったようだ。お前にも見せてやりたいよ。これからティレンツェという男は、抱えているアリウスを自らの手で殺すんだからな」
ゼオシストの全身に鳥肌が立った。
「やめろっ!」
スペイダーは笑いながら聖書に視線を落とす。
ここまで来て、訪れるのが最悪の結果では今までの自分たちの苦しみは何の意味も持たない。
そのとき、スペイダーの背後から二本の腕が静かに伸びた。
その気配に気がつき、とっさに聖書をめくる。
そして振り返ると、そこには今にもスペイダーを押さえ込もうとするセルシルドが、ゼオシスト同様に石のように固まっていた。
「てめえ……目ぇ覚ましたのか?」
「お、おのれ!」
アリウスに気を引かれている内に、素早く裏に回りこんだセルシルド。
しかし、その目論見は非常に惜しい結果となってしまった。
「死に急ぐな。後でじっくりと遊んでやる」
そういって再び聖書に手をかけるスペイダー。
自らの意思に反して後退するセルシルドの体は、そのまま高さ一メートル程の台座から落下した。
さらに空中で硬直したままのゼオシストも台座から離れるように飛ばされて床に落下した。
背中をたたきつけ、咳き込むゼオシストを見下ろしながら微笑するスペイダー。
マスターリングさえあれば出来ぬことなど何一つ無い。天界に生きる天使は全て自分の手足であり、それは天界全てが自らの一部になったということ。
スペイダーはそんな優越感、満足感、達成感を噛み締めていた。
逆らえる者はもはや存在しない。神の用意した対策手段、アリウスでさえも自分の所までたどり着けなければ意味が無い。
そう、アリウスはこれから、親友に殺されるという悲劇の主人公になるのだから。
聖書を手にし、アリウスの様子を伺おうとするスペイダー。
しかし、またしても彼を邪魔する存在が現れた。
突然飛んできた横からの投石を紙一重で交わす。
「ちくしょう! 誰だ!?」
その姿を確認する間もなく、次は木製の棍棒が勢い良く回転しながら飛んでくる。反射的に身を屈めてそれを避けた。
聖書に意識を集中したくても、飛んでくる飛来物に意識がいってしまう。
いい加減に避けてばかりもいられないと思い、正面からぶつかる気持ちで聖書を片手に立ちあがるスペイダー。
見据える先には取り出したナイフを投げつけようと構えるジェオルドの姿があった。
素早く聖書をめくり、ジェオルドの動きも封じる。そのままジェオルドの体を操り、未だ握り締めたままのナイフを彼自身の喉下へと近づける。
「やっぱりお前だけは先に死ね」
刃先が頚動脈へと徐々に近づく。
鋭く光る刃が皮膚に触れるまであと僅か。
「はははっ……余所見をするからだ」
「ああ?」
ジェオルドの笑いを見て、スペイダーが何かに気付いたように慌てて聖書を構える。
それと同時に、ジェオルドの背後の壁から抜け出てきたのは、アリウスとティレンツェの二人だった。
「だあああっ!」
真っ直ぐ、スペイダー目掛けて走る二人。
構えた聖書にスペイダーが念じると、固まっていたジェオルドの体は、必死に抵抗しようとするジェオルドの意思をまるで無視して、その手に握られたナイフを二人の方に目掛けて投げつけた。
その動きを予測していたかのように、自分の翼を広げてアリウスの背中を守るティレンツェ。一直線に飛ぶナイフはティレンツェの右翼に突き刺さった。
「んぐっ!」
歯を食いしばって苦痛に顔を歪めるティレンツェ。それでも走る足は止まらない。
さらに聖書に念じるスペイダー。
天使を支配するマスターリングと聖書は、所持者の意思に従い、頭上にリングを持つ者の自由を許さない。例えどんな天使であろうとも。
間一髪、ティレンツェは台座から僅か二メートルの距離でその体を硬直させていた。
しかし、スペイダーは気がついた。
忘れていた、唯一マスターリングを持ってしても操れぬ存在を。
てっきりティレンツェと一緒にその場に磔に出来ていると思っていた。
そう思った瞬間に、聖書は自らの手中から奪い取られていた。
アリウス。
リングを持たぬ存在であるが故に、マスターリングの影響をまったく受けぬ天使。いや、正確にはアリウスは天使ではないのだ。
短時間で連続的に邪魔が入ったため、一瞬だけ頭から忘れていた。
しかし、その一瞬がこの結果を招いてしまった。
今、聖書はアリウスの手元に戻ってきた。
「しまった!」
少しスペイダーから距離をとって振り返るアリウス。
視線の先には、台座の上で歯を食いしばっているスペイダーが立っていた。
すぐに台座から飛び降りてアリウスに走り寄って来た。
「返せぇ! それは俺のものだ!」
突進するするスペイダー。
しかし、その背後からスペイダーを羽交い絞めにして取り押さえるティレンツェ。
「よう……よくもさっきは俺の翼に傷をつけてくれたな」
その場で暴れて必死に抵抗をするスペイダーから、視線を手元の聖書に向けるアリウス。
黒い背景に金色の縁取り模様。真ん中には聖書のタイトルが入っているようだが、その文字は古代文字でアリウスには読めない。
これを持って部屋の中央にある台座に立てば、アリウスはマスターリングを使うことが出来る。
当然、リングを持つスペイダーを生かすも殺すも自由にできるのだ。
「アル! 早くそれを持ってここに……」
ティレンツェが言いかけた瞬間、スペイダーが背後に肘撃ちを食らわせると、ティレンツェは脇腹を押さえ込みうずくまった。
遠くからジェオルド達も動き出したが、この距離では走り出したスペイダーが一番早くアリウスの元へとたどり着く。
「それを返せ! 聖書は俺が手にするべきものだ!」
「違う……」
アリウスも駆け出した。
目指すはマスターリングのある台座の上。
血走った眼球で、アリウスを捕らえようと両腕をいっぱいに広げて掴みかかろうとするスペイダー。
アリウスは考えた。どちらに逃げる、右か、左か。
迷える時間はそう長くない。
一瞬の判断力は、アリウスの体を小さく屈めさせて、スペイダーの股の下を滑り潜らせた。
すぐに立ち上がるアリウス。スペイダーも慌てて振り返る。
台座はすぐ目の前。
振り返ることなどしなかった。できなかった。
高さ一メートルの台座へと飛びついて昇る。スペイダーの右手がアリウスの左足首を掴んだ。
それと同時に、アリウスの手中で開かれた聖書は激しい閃光を放って目を眩ませた。
スペイダーが片腕で顔を隠す。おそらくティレンツェ達も眩しさを感じているに違いない。
そしてその光が収まると、アリウスは足首を握られたまま、ぼんやりと光る聖書へと視線を落とした。
スペイダーはアリウスの足首を掴んだまま何もしなかった。いや、そうではない。何も出来ないでいた。
先程までスペイダーが何人もの天使にしてきたように、アリウスはスペイダーの体の動作を一切許さぬようにマスターリングに念じていた。
「て、てめえ……」
そのままスペイダーは一歩ずつ後退させられ、台座から遠ざかっていく。
「リングは…………運命は僕を選んだんだ。あなたが以前言ったように、僕にはリングを手にする為の条件を満たすような出来事があった」
「黙れ! てめえなんかがリングを手にする運命だなんて信じねえ! 俺は……てめえなんかとは違うんだ、リングを有効に使えるんだ!」
首を横に振るアリウス。
「僕たちは似ているよ……」
今まで迷っていた。
マスターリングを使ってスペイダーを殺すか、天界から消し去るか、それはリングを扱うアリウスに委ねられたこと。
彼を天界から消し去ってよいのか、ずっとその答えは不明瞭なままだった。
自分の村を壊滅させた相手なのに、大切な人を傷つけてきた人なのに、それでも自分自身がこんな考えを持っていることに驚いていた。
聖書を片手に持って台座に立った瞬間、全てを理解した。
スペイダーの生まれた理由を、自分が生まれた理由を。
そして、アリウスは決断を下したのだった。