Ⅰ:輪のない天使
雲一つない大きな青空、そして豊かな自然に満ちた大地。その大地の至るところには、何の規則性もなく小さな家や大きな屋敷がぽつぽつと建っていた。
ここ一帯はオルソという村である。
その村の外れに、古めかしくも立派な教会が建っている。
大きな扉を潜ると、そこにはきちっと並んだたくさんの長椅子が目に飛び込んでくる。そして長椅子の向く方向には、少々古くなってしまった素朴な祭壇があった。
この教会に暮らすのは、村に古くから住んでいる老天使、セルシルドである。
彼は、村人どころか他の街からも懺悔等にやってくる者がいるほどの有名人で、多くの人に慕われていた。
そしてこの教会には、セルシルドの他にもう一人天使が住んでいる。
名前はアリウス。
まだ幼いその天使は、その日は外へ遊びに出かけていた。しかし、教会を出てから三十分と経たないうちに、アリウスは教会に戻ってきた。それも大粒の涙を流しながら。
「んん? ……どうしたアリウス。こっちへおいで」
セルシルドが優しく手招きをすると、アリウスは涙を拭いながら小走りで駆け寄ってきて、セルシルドの胸に抱きついて顔をうずめた。
「ひっ……セルシルド様ぁ……ひっく。だって……ひっ……みんなが僕のことを避けるんだもん……ひっ」
「そうか……また仲間に入れてもらえなかったか。可哀想に」
セルシルドは、皺だらけの大きな手をアリウスの頭に乗せて何度も撫でた。
アリウスは、生まれながらにして他の天使と違うところがあった。
それは、天使なら誰もが持っている頭上の輪、“リング”が無いのだ。
このリングが一体何なのか、知っているものは誰もいないという。
それでも、自分達とは違う者に対して、周りの者達は冷たかった。アリウスと同年代の子供達がからかうだけではなく、その親達でさえ気味悪がってアリウスを毛嫌いした。
セルシルドを慕う村人達も、アリウスのことに関しては良く思っていなかった。何故セルシルドはあの子の面倒を見るのか。村人達がセルシルドに対して思う唯一の不満であった。
しかし、セルシルドはそんなことを一切無視して、アリウスにも優しく接していた。
「みんな……ひっ……僕がリングを持ってないからって気味悪がるんだ。ひっく……なんで、僕にはリングが無いんだろう」
まだ泣いているアリウスを見ながら、セルシルドはゆっくりと語りかけた。
「アリウス。確かにお前にはリングが無いが、それが変なことかい?」
「……だって、みんなは持ってるもん。セルシルド様だって持ってるのに」
「良くお聞き。……お前にはリングが無いが、私にだって無いものがあるんだぞ?」
アリウスは不思議そうにセルシルドの顔を見つめた。
「それはな、お前の優しさだよ。こんな老いぼれと一緒に暮らしてくれているからな。それに、お前はいじめられて帰ってきても決して相手の悪口などは言わない。強い証拠だ。私ではとてもお前には敵わんな、はぁっはっはっは!」
セルシルドはいつもそういってアリウスを元気付けてくれた。
アリウスは、そんなセルシルドが大好きだった。いつまでも一緒にいたいと思っていた。
そして数年の時が過ぎた今でも、アリウスとセルシルドは仲良く暮らしていた。
村人達のアリウスに対する態度は変わらなかった。
しかし、それと同じく変わらないことは、セルシルドがずっとアリウスの心の支えとなってくれていたことだった。
アリウスも十五歳になったが、その優しさはまったく変わっていなかった。
「おや? ホワイトベリーの実がなくなってしまったな」
セルシルドは銀色の器を振りながら言った。
「セルシルド様、僕がとってくるよ!」
アリウスは元気良く言って、背中から生えている翼を大きく広げた。
リングが無いアリウスも、他の天使と同じように翼はしっかりと生えていた。だから例えリングが無くとも、自分は天使なのだと言い聞かせてきたのだ。
翼を一度羽ばたかせると、アリウスの体は体重を失ったかのように宙に浮いた。そのまま上昇を続けて、教会の天窓目掛けて一直線に上がっていった。
教会の外に出ると、空は少し曇っていて灰色になっていた。雨が降り出しそうな天気だった為、アリウスはスピードを上げて飛んだ。
オルソ村の少し北にある大きな森、ジョーアの森。この森にあるホワイトベリーは、村でも昔から食料や衣服の色染め等と様々な用途に使われている生活必需品である。その為、毎日のように誰かしら森の中でホワイトベリーを採取している。
その日も、何人かの天使が森でせっせとホワイトベリーを摘んでいた。
アリウスも森の中へと降り立つと、それに気づいた者達が次々と場所を変えて離れていく。しかも、必ずアリウスに向けて冷たい視線を送ってから。
アリウスはいい加減慣れたような顔で、黙々とホワイトベリーを摘み始めた。
その頃、セルシルドの教会には十人ほどの男達がやってきていた。
「……何か御用かな?」
セルシルドが話しかけると、中央にいた男が不気味な笑みを浮かべて言った。
「ああ、お会いできて光栄だよ。“大天使セルシルド”殿」
それまで穏やかだったセルシルドの表情が一気に強張った。その十人の天使達に敵意を表したのだ。
男は続けて言った。
「俺の名前はスペイダーだ。今日はちょっとお話があって来たんだが……」
「なにかな?」
「あんたの持っている『禁断の聖書』を渡していただきたい」
その言葉を聞いた瞬間、セルシルドから凄まじい殺気が放たれた。
中央の男以外の全員が思わず後ずさりをしてしまった。
「渡すわけにはいかん。それ以前に私にそんなことを頼むとは愚かな男だ。……貴様、私を誰だと思っておる! 神より直々に使命を受ける大天使セルシルドと知っての愚行かぁっ!」
セルシルドの目は普段の穏やかさを完全に失い、放たれる殺気はさらに強まった。
一歩一歩スペイダー達に歩み寄っていくと、まるで押されているかのように天使達が後ろに下がっていく。ただ一人、スペイダーを除いて。
近づいてくるセルシルドから少しも目を逸らさずに、スペイダーは不気味な笑みを浮かべたまま小さく言った。
「渡さなければ村が無くなるぜ」
「なに!?」
セルシルドが足を止めた。
「別の手下達が村の襲撃に備えて待機している。あと数分で俺が聖書を持っていかなければ襲撃するように言ってある」
セルシルドの額から汗が噴き出していた。
自分の判断が村人達の運命を握っている。もちろん村人を助けたいという気持ちがある。しかし、セルシルドは知っているのだ。『禁断の聖書』の恐ろしさを。
これをスペイダーに渡してはならない。
セルシルドは歯を食いしばって考えた。そして、恨めしそうな視線をスペイダーに向けて言った。
「聖書は……渡せない」
握り締めた拳は震えていた。
「はっ! そうか、なら村は諦めろ。……まあ、それはそれで賢い選択だ。後は力ずくで聖書を奪いにかかる俺達を何とか出来ればいいだけだがな」
そう言って、今度はスペイダーが前に出ていった。
森でホワイトベリーを摘んでいたアリウスは、村から聞こえる騒ぎ声や悲鳴に気が付いた。
不思議に思ったアリウスは、実を入れた籠を抱えたまま、村に向かって走り出した。
そこで見たものは、槍や剣を持った天使達に襲われるオルソ村の天使達の逃げ惑う姿だった。
次々と切り捨てられる村人、真っ赤に燃やされる家々。囲まれて逃げ場を失って順番に胸を貫かれていったのは、まだ幼い子供の天使達だった。
アリウスはとてつもない恐怖に襲われた。
「うわああぁぁぁっ!」
突然聞こえてきた悲鳴の方に目をやると、先ほど森の中でアリウスを避けていった天使だった。
剣を構えた二人の天使に追われていた。
アリウスは、傍に転がっていた一本の木の枝を握り締め、震える足で必死に走り出した。
後ろから追っていた天使が剣を振りかぶった瞬間、アリウスは枝を投げ飛ばした。それは敵の顔に直撃した。その隙にアリウスは逃げる天使を森の中へと誘導しようとした。しかし、突然飛んできた矢が、逃げ惑う天使の体を貫いてしまった。
アリウスは涙を流しながら森に逃げ込んだ。
後ろから何本もの矢が飛んできて、そのうちの一本がアリウスの左腕を掠めていった。
傷ついた左腕を押さえながら、アリウスは森の中を逃げ回った。
しばらくすると、矢も飛んでこなくなり、村の方からは何も聞こえなくなっていた。
そして雨が降り出した。
アリウスは震えながらも、少しずつ村に戻っていった。
森を抜けると、そこには変わり果てた村の姿があった。
アリウスの知っている風景はまったく見当たらなかった。転がる死体、崩れる家屋、雨に打たれてもしつこく燃える火。武器を持った天使達の姿はどこにもなく、雨の降る音だけが聞こえていた。
アリウスは泣きながら村の中を歩いた。
向かう先は教会。
すると、教会の方からアリウスに向かって歩いてくる天使がいた。
歩き方はよろよろしていて、近づくと、怪我だらけのセルシルドであることが分かった。
「セルシルド様ぁっ!」
アリウスは駆け寄った。
セルシルドは、今にも倒れそうな体で踏ん張って、アリウスを左腕で抱きしめた。
「よく無事だったな」
「うう……なんで、こんなことに……。む、村が……無くなっちゃった。怖かった、皆も助けてあげたかった…………」
アリウスは、泣きながらセルシルドに抱きついていた。
セルシルドは、アリウスの頭を何度も撫でながら言った。
「教会に戻ろう。そこでちょっと話がある」
そういってセルシルドは左腕をほどいて振り返った。
教会の中はボロボロになっていた。
アリウスは、散乱する壊れた長椅子の中からまともに座れるものを見つけると、それを引っ張ってきてセルシルドを座らせた。
ふと、セルシルドの右腕を見ると、二の腕が青紫色に腫れていた。骨が折れている。
しかし、セルシルドはその腕を放っておいたまま、村が襲撃された理由と教会でのスペイダーとの戦いを話した。
どうやら教会での戦いは、セルシルドが何とか彼らを退けたようだ。
話を静かに聞いていたアリウスは、村人が襲われる原因となったセルシルドの判断を思うと複雑な心境になった。
信頼するセルシルドの止むを得ない判断であった。しかし、その『禁断の聖書』というものが村人達の命よりも大事なものだったのか。その聖書が何なのかを知らないアリウスにとっては、答えが出るはずも無かった。
セルシルドが祭壇の裏にある隠し扉から、一冊の本を取り出した。
それは、スペイダーが欲しがっていた『禁断の聖書』であった。
「セルシルド様……その聖書は一体何なんですか?」
セルシルドはしばらく俯いて黙っていたが、ゆっくりと顔を上げて言った。
「これに書いてあることは、今は知らなくてもいい。……アリウス、この聖書を持ってここを離れなさい」
「えっ?」
「スペイダーはまたいつか私の所にやってくる。本来私が守るべきものだが、幸いにも奴らはお前を知らない。だからお前がこれを持っていたほうが本は守られるだろう」
アリウスの目の前に聖書が差し出された。
アリウスはゆっくりとそれを受け取ると、教会の窓にかかっている破れたカーテンを使って、本が開かないように縛った。
「いい子だ。決して開いてはいけないよ。時が来たら本を開いて読みなさい、いいね」
アリウスは小さく頷いた。
「セルシルド様はこれからどうするんですか?」
「私は、神に会ってこなくてはならない」
「か、神様に……!?」
神とは、アリウス達の暮らす天界を作ったとされる者で、彼らにとって絶対の存在である。
「そうだ、私は大天使セルシルド。神に仕える者だ。私が与えられた使命は“禁断の聖書を守ること”なのだ」
セルシルドが大天使であったと初めて聞いたアリウスは、ただ驚くことしかできなかった。神からの使命を受け、天界を神とともに支える者こそが大天使と呼ばれているのだから。
しばらくしてから、崩れかかった教会の中で簡単に荷造りをして、それぞれ旅立ちの準備をした。
「アリウス、何度も言うがその本を手放すな。そしてまだ中を見るな。他の天使に見せてもいかんぞ」
「分かりました。きっと守り抜きます」
「うむ……頑張れよ、アリウス。お前が最後の希望なのだからな」
「はい」
二人は別れを済ますと、それぞれ別々の方向に歩き出した。
アリウスは、背を向けた後で涙を流した。そして振り返らなかった。
セルシルドが自分を信じて聖書を預けたのだ、決して弱いところは見せたくなかった。
きっとまた会うことが出来ると心に言い聞かせて、アリウスは歩いていった。
セルシルドも同様にアリウスとの別れが辛かった。赤ん坊だったアリウスを、今まで自分の子供のように可愛がってきたのだ。別れが悲しくないわけが無かった。
しかし、それでも耐えなければならない。
何故なら、アリウスの運命が動き出していることを知っていたのだから。
「おそらくあの子はこの旅で知ることになる。自分にリングが無い訳を、自分の運命を……な」
セルシルドは誰にも聞こえない程に小さな声で言った。