十六夜(いざよい)はまだ満ちない 〜ただの初心者高校生がSNSの炎上を見て詠んだ短歌、宮内庁の重鎮たちが『現代社会への宣戦布告』だと勘違いして裏で大パニックになる〜
時は奈良時代、聖武天皇の御代。
平城京の夜空には、今よりもずっと深く、濃密な闇が支配していた。その闇のなかで、一際妖しく、側に立つ者の心を凍らせるほどの美しい「月」の和歌を詠む天才歌人がいた。
名は、月読。
夜を統べる神の名を冠された男だった。
ある秋の、見事な中秋の名月(十五夜)の夜。
宮中で催された観月の宴にて、月読が披露した一首は、あまりにも透き通るような情景を写し出し、満座の公卿たちを静まり返らせ、天皇の心を深く震わせた。
感動した天皇は、御簾の奥から立ち上がり、彼を絶賛してこう仰せられた。
「見事なり、月読。そなたの歌の美しさは、この天に昇る汚れなき満月そのものだ。これほどまでに月を愛し、月に愛された者に、ただの名のりは相応しくない。これよりそなたに、月の第一人者たるを示す『十五夜』の氏を授ける。我が国の誇りとせよ」
「十五夜」の氏。それは貴族としての頂点であり、これ以上ない最高の栄誉であった。周囲から羨望と嫉妬の眼差しが向けられるなか、月読は歓喜するどころか、深く頭を垂れたまま、静かに、しかし毅然としてこう応えた。
「畏れ多くも、身に余る光栄にございます。……しかしながら、畏れながら申し上げます。満月とは、これ以上満ちることのない、いわば終わりを迎えた姿。未熟なる私がその名を戴くなど、あまりにおこがましく、恐れ多きことにございます」
天皇の言葉を拒むのは不敬にあたる。ざわめく議場を余所に、月読は懐から一枚の懐紙を取り出すと、即興でさらさらと一首の歌を書き付け、天皇へと捧げた。
『いざ宵の 月の光の 畏れ多く 満つるを前に すこし立ち寄る』
「満月が完璧な光であるならば、私はその美しさに気後れし、一歩後ろでためらう『いざよう(躊躇する)月』で十分でございます。完璧を求めず、常に満ちる途中に身を置き、歌の道をどこまでも精進いたしたく存じます」
満月の翌日の夜、少しだけ欠け、ためらいながら遅れて昇ってくる月。それを「十六夜」と言葉を訳し、とんちを効かせて自らの志を表現してみせたのだ。
表向きは「おこがましい」と身を引きながらも、その本質は「完成されたお前たちの歌など、俺はいつでも一歩後ろから追い抜いてみせる」という、狂気にも似たストイックな傲慢さであった。
天皇は差し出された歌をじっと見つめ、やがて、朗らかな笑みを漏らされた。
「……ハハハ、見事なとんち、そして恐ろしいほどの雅よ。満ちることを拒むのではない。常に満ちる途中でありたい、か。よかろう、その美しい志を称え、そなたの望む通り『十六夜朝臣』の氏を授けよう」
こうして、最高の栄誉を捨て、あえて「影」であることを選んだ男の伝説が始まった。
だが、このあまりに不遜で美しすぎる逸話は、時の権力者たちのプライドを傷つけ、のちに正史からは完全に抹消されることとなる。
――それから、千年の時が流れる。
この「十六夜」の本当の恐ろしさを知る者は、もはや、歴史の深層に生きる一握りの老人たちだけとなっていた。
◇
――そして、千年の時が流れた。
遮るもののない平城京の夜空とは違い、ビル風が吹き抜ける街の隙間に、ぽつんと月が浮かんでいる現代。
鎌倉の高校に通う俺、十六夜 朔弦には、最近ちょっとした趣味がある。
夜、ベランダから月を眺めていると、頭の中に五・七・五・七・七のリズムが自然と溢れてくるのだ。
国語の成績は平凡。短歌の知識なんて授業で習った程度。
だから、これはただの「暇つぶしの妄想」だ。
その日、SNSのタイムラインは、ある有名インフルエンサーの炎上騒動で荒れに荒れていた。
見ず知らずの他人が、匿名の安全圏から、これでもかと残酷な言葉を投げつけている。
画面から溢れる、どす黒い承認欲求と悪意。
「うわぁ……みんなスマホの画面ばっかり見て、必死に誰かを叩いてるな」
ふと画面から目を離し、夜空を見上げる。
そこには、満月の翌日の、少しだけ欠けた「十六夜の月」が、静かに世界を照らしていた。
「……なんか、変なの」
俺は、短歌の練習用に新しく作ったSNSの裏アカウントに、思ったことをそのまま、たった三十一文字にして投稿した。
『スマホ見て 誰かを叩く 指先は 闇に溺れて 月も見えぬか』
よし、五・七・五・七・七、ぴったり収まった。
我ながら初心者らしい、シンプルな歌だ。
俺は満足して、スマホを枕元に置いて眠りについた。
――まさか、その一首が、日本の国政の裏側を揺るがす大事件になるとは夢にも思わずに。
◇
「お、おい……! すぐにこのアカウントの主を特定しろ……!!」
深夜、宮内庁の奥の院。
現代歌壇の最高権威であり、政財界の黒幕でもある老歌人・御園生は、震える手でタブレット端末を握りしめていた。
画面に映っているのは、フォロワー数ゼロの、開設されたばかりの不審なアカウント。
そこに投稿された、たった一首の短歌。
深夜にもかかわらず、急遽招集された歌壇の重鎮たちが、冷や汗を流しながらその画面を凝視している。
「御園生殿……これは、ただの若者の青臭いSNS批判では……?」
「愚か者が! 貴様は何も見えていない!」
御園生が怒号を飛ばす。
「言葉の格調を見よ! 『スマホ』『叩く』という極めて現代的な俗語を使いながらも、全体の調べは奈良時代の『万葉集』の語法を完璧に踏襲している!
何よりこのロジックだ。ネットの闇に溺れ、正義を盾に他人を叩く現代人の視界には、天に輝く美しい月(本質)すら見えていないと、一刀両断にしている……!」
重鎮たちが息をのむ。
「さらに、このアカウント名を見よ……ッ!」
画面に表示されたユーザー名。
【@izayoi_sakuto】
その文字を見た瞬間、老人たちの顔から一斉に血の気が引いた。
「い、十六夜……!? かつて聖武天皇から『十五夜』の姓を賜りながらも、おこがましいと拒否し、自ら歴史の影へと隠れた、伝説の月の歌人・月読の血脈……!」
「そして名は、朔弦。『朔(新月)』とはすべてを無に帰すリセットの闇。『弦』とはそこから立ち上がる鋭い意志の刃……。
これは、上辺だけの教養で現代のメディアを支配している我々への、痛烈な皮肉! いや、新時代からの宣戦布告だ……!!」
「化け物が……千年の眠りから目覚め、現代の世相を言葉一つで裁こうとしている……!」
老人たちは、まだ見ぬ高校生の圧倒的な『才能の影』に、ガタガタと恐怖で震えるしかなかった。
◇
翌朝。
鎌倉の自宅で目を覚ました俺は、あくびをしながらスマホを確認した。
「あれ、通知が1件来てる」
裏アカを開くと、見知らぬおじいさん(※御園生の本アカ)から、ものすごく長文のDMが届いていた。
『貴方様の一首に魂を揺さぶられました。不躾ながら、古典の助詞の使い方の意図をお伺いしたく――』
「……うわ、なんか国語の先生みたいなガチ勢から絡まれた。短歌の世界って、初心者がちょっと投稿しただけでこんなに熱く語られるもんなの?」
自分の血脈に眠る、千年前の怪物の記憶。
それが「知識」というトリガーを得て、これから現代社会をバサバサと切り裂いていくことを、俺はまだ、何も知らない。




