第八話 線を引く者、越える者
退職届を書く指は、思っていたよりも落ち着いていた。
竹本ゆうじは、会社のデスクで書類を見つめている。
白い紙に並ぶ文字は、たった数行。
それでも、この数行が、これまでの生活をすべて終わらせる。
(……案外、実感ないな)
上司に呼ばれ、会議室へ入る。
「本当に、いいのか」
引き止める声ではあった。
だが、慰留ではない。
「探索者、ですか」
「はい」
それ以上の説明は、求められなかった。
「君が選んだなら、止めない。ただ……無事でいろ」
それが、この会社なりの別れだった。
会社を出た瞬間、肩の力が抜けた。
スーツ姿のまま、ゆうじは空を見上げる。
平凡な日常は、ここで終わる。
その夜。
探索者ギルドの管理フロアで、黒瀬ミサキは一人、資料を読んでいた。
竹本ゆうじ。
固有スキル《中二病》。
時間・重力系統の発現。
出力変動、精神負荷、制御難度――すべてが危険域。
(……このままじゃ、潰れる)
管理者としての結論は、すでに出ていた。
だが、それは前例を壊す判断でもある。
翌日。
黒瀬は、ゆうじを呼び出した。
「会社、辞めたそうですね」
「……はい」
黒瀬は、短く息を吐く。
「なら、こちらも決断します」
端末を操作し、正式文書を表示した。
「あなたを、 特別監督第二段階 へ移行します」
「……第二段階?」
「はい。探索回数制限を撤廃。その代わり――」
視線が、真っ直ぐ向けられる。
「私が、直接責任を持ちます」
一瞬、言葉が理解できなかった。
「それって……」
「失敗すれば、私の管理責任です。処分対象になる」
管理者として、越えてはいけない線だった。
「どうして、そこまで……」
黒瀬は、少しだけ目を伏せる。
「あなたのスキルは、管理すべき“災害”ではない」
そして、はっきりと言った。
「育てるべき“人材”です」
その言葉が、胸に深く刺さる。
初めてだった。
力ではなく、自分自身を見られた気がしたのは。
「探索者としての第一歩は、ここからです」
黒瀬は、そう締めくくった。
数日後。
ゆうじは、探索者用の軽装を身にまとい、ダンジョンの入口に立っていた。
会社員ではない。
副業でもない。
探索者、竹本ゆうじ。
(……戻る場所は、もうない)
だが、不安よりも、覚悟のほうが大きかった。
言葉が、力になる世界。
選んだ以上、逃げない。
黒瀬ミサキは、管理室からその背中を見送る。
(……越えたわね、私も)
だが、後悔はなかった。
ダンジョン時代は、才能を飲み込む。
だからこそ――守るべき線と、踏み越える線がある。
その選択が正しかったかどうか。
答えは、これから彼が進む先でしか、得られない。




