「学園生活中に真実の愛を見つけたい!」とか無邪気な婚約者は捨てるに限る
「せっかく学園に通うのだから、思いっきり恋愛をして、
真実の愛を見つけてみたいものだな!」
開口一番、婚約者であるアーサー伯爵令息は常識外れな言葉を放った。
晴れやかな笑顔と胸を張る姿はまるで自分の発言に一点の疑いもないようで、今年学園に入学する年齢という事実との落差が酷く目に映る。
かくいうリディアも彼に対する愛想などとうに尽き果てており、もはや何を言われても心が揺れることはない。
ただ、静かに「もうどうでもいい」と思っているだけだった。
「左様ですか。どうぞご勝手に……いえ。
どうか、人様に迷惑をかけることだけは慎んでください」
そう告げる声は、努めて丁寧に、しかし感情の温度をそぎ落としたものになる。
リディアは銀縁のメガネを、まるで息を吸うのと同じ自然さで押し上げた。
レンズの奥にある藍色の瞳は、氷のように冷たく、何ひとつ彼を映していない。
「……? あぁ、もちろんだとも!」
アーサーは、言外の意図をまるで理解していない顔で笑い返す。
その無邪気さを微笑ましいと思えた時期など、とっくに過ぎてしまった。
本来であれば、手綱をしっかり握り、道を外れぬよう監督しておくように──と、未来の義父から再三念を押されている。
しかし、リディアも在学中くらいは自由に過ごしたいと思っていた。
学園に通う以上、たくさん学びたい。
多くの人と交流し、将来につながる仕事の縁を得たい。
できれば伯爵家に嫁入りするのではなく、領外で働きたい。
そうした願いを胸に、静かに決意を固める。
皮肉なことに──アーサーとリディアの利益は、初めて一致した。
互いに別の方向を向いたまま。
それでも利害だけは、妙に噛み合っていた。
◆
それから一ヶ月。
アーサーとリディアは無事に学園へ入学した。
新しい制服の襟を整えながら校門をくぐった日が、もう遠い昔のことのように思える。
アーサーとは別のクラスになり、特にリディアは入試の成績がよかったため生徒会へ推薦され、淡々とではあるが順風満帆な学園生活を歩んでいた。
「しかし、今日も今日とて熱烈ですこと」
書類をめくりながら視線を向ける──その先には、また一人のご令嬢へと迫るアーサーの姿があった。
木漏れ日の下、彼だけが妙に浮いて見える。
リディアに割り振られている生徒会の仕事のうちおよそ六割が、繰り返される「真実の愛探し」で占められている。
生徒会長からは温情めいた言葉をかけられ、生徒会へ推薦してくれた人物からも期待をかけられている以上、引き受けざるを得なかった。
そのためリディアは今日も、いつもの時間と場所で張り込みをする。
放課後に、裏庭近くの柱の影で。
彼自身は友人に囲まれ、学園生活を満喫しているつもりなのだろう。
しかしご令嬢からすれば、通り魔に遭うよりも悪質かもしれない。
そんな婚約者は、今日も例に漏れず絶好調だった。
「俺にはきみが必要なんだ。在学中だけでいいし、
なんなら期限限定の恋人でも構わない!
それにもしリディアとの婚約を破棄できたら、きみが次期伯爵夫人に……」
「い、いやです! ごめんなさい……!」
狙うのは、決まって伯爵家以下のご令嬢ばかり。
権力を振りかざしやすいからなのだろう。
先日は寮母や、婚約者のいる令嬢にまで言い寄ったと聞き、リディアはため息をつかずにはいられなかった。
とはいえ、彼女らも貴族だ。
矜持があり、自分の未来を見据える力もある。
だからこそ、今回のように即座に断られるケースしか報告として上がってこない。
「……また振られたみたいね」
リディアが小さく呟いたその時、さきほど拒絶したご令嬢が涙をこらえながら走ってくるのが見えた。
これからすべきことは決まっている。
被害者のアフターケア、情報の整理、そして学園への報告──すべてが「後始末」だ。
柱の影からそっと手招きして顔を確認すると、怯えた表情のご令嬢を抱きしめた。
「お久しぶりです、生徒会庶務のリディア・カルティです。
先ほどのやり取りの記録はすべて押さえてありますので、ご安心ください。
……お疲れでしょう。これから、お茶に付き合っていただけますか?」
事情聴取を兼ねたお茶会の席では、彼女たちは皆、安堵に涙を流す。
そして「あんな婚約者を持つなんて大変ね」とリディアに同情し、口々に礼を言うのだ。
彼女らの目に、リディアはいったいどう映っているのだろう。
優しい人間だろうか。
実際のところ──
◆
そんな日々を過ごして丸一年。
正式に学園と生徒会から承認を得て、リディアは「公の場で婚約破棄を受け入れる」という権利を得た。
後は婚約者が破棄を言い出せる場を整えるだけ。
学園で開かれている夜会にて。
煌びやかな灯りと楽団の調べが満ちる会場で、リディアは友人と穏やかな談笑を楽しみ、皿に盛られた軽食を口へ運んでいた。
──その前に、影が差す。
目線を上げると、華やかな装いを纏った男女が立ち塞がっていた。
紅い礼服と、青と金糸のドレス。
対の雰囲気をまとっている二人。
婚約者アーサーと、友人のフィーニャだ。
二人は互いに見つめ合い、腕を絡ませ、まるで本物の婚約者同士であるかのように寄り添っている。
しかし、態度より彼女の装いに目が行くのはなぜだろう。
デザインも色も、これでもかとパートナーの存在を主張している。
ただ、意図はともかく、その趣向に関しては一級品だった。
光沢のある布地が揺れ、可憐さと優雅さの狭間を揺蕩うその美しさは、リディアも感嘆してしまうほどだ。
そんな思いを咀嚼で隠しながら、彼の言葉を待った。
「リディア・カルティ子爵令嬢!
俺はきみの言う通り、他人に迷惑をかけず真実の愛を見つけた!
よってきみは婚約破棄を認め、新たに結ぶフィーニャ嬢との婚約を祝福して欲しい!」
「まあ、それは……おめでとうございます」
リディアは食べる手を止めなかった。
声音にも、驚きも涙も乗らない。
むしろ、軽く視線を横へ向けて、友人に「少し遠くのデザートを取ってきて」と静かに頼む余裕さえ見せる。
この態度には、さすがのアーサーも顔をしかめた。
「……なんだそれだけか? 今、きみは俺に振られたんだぞ?」
リディアはナプキンでソースを拭い、ゆっくりと顔を上げた。
目の前のアーサーとフィーニャを冷静に見据え、いつもの癖で眼鏡を押し上げながら静かに微笑む。
「ふふ、アーサー様はそう思われているのですね。
しかしながら、誰にも迷惑をかけていない? 婚約破棄?
挙句の果てにフィーニャ様と婚約を……?
はぁ……冗談はその頭だけにしてくださいませ」
深く、呆れたようにため息をつく。
まさか、ここまで阿呆だったとは。
これと同い年なのかと思うと、笑いすらこみ上げてくる。
リディアは空になった皿をそっと置き、二人へ向き直った。
「いいですか? まず──迷惑は既に、多方面にかかっています」
入学してから一ヶ月、リディアは後始末以外の事柄であっても、積極的に動いていた。
それは、生徒会に推薦されたことに起因する。
元々勉強が好きだった。
しかし伯爵家へ嫁ぐ立場ゆえ、必要以上に秀でてはいけないと、長く押し込められてきた。
それでも隠れて本を読み、リディアは夢を見ながら知識を蓄え続けた。
そして努力が実を結び、入試で学年一位を取ったのだ。
──同学年にいる、第一王子を差し置いて。
「私は生徒会に所属させていただいております。
庶務……主に面倒事の処理を担当しているのですが、その中の大半が、アーサー様絡みの事案なのです」
第一王子は優秀な者を好む。
彼の計らいで、リディアは高位貴族しか入れない生徒会の席を得ていた。
「なっ、知らないぞ?!
俺絡みの面倒事とはどういうことだ!
それに、生徒会だって……? 俺には声すらかかっていないのに!」
「えぇ、えぇ。アーサー様が理解できるよう、一つずつご説明しますね」
リディアは疲れたように、しかしどこか達成感の滲む表情を浮かべた。
「生徒会に関して知らないのは当然です。
アーサー様にご報告する義務も、お会いする必要もありませんでしたので。
ちなみに、面倒事というのは『真実の愛探し』のことです。
私はその奇行の現場に度々居合わせていたのですが」
ハンカチを取り出して眼鏡のレンズを拭う。
一連の動作は、さも日常の一幕だというように自然で。
その中で、リディアはあらわになった瞳に不満を滲ませ、吐き捨てるように呟いた。
「ご令嬢に無理やり迫り、いつも決まって『きみは真実の愛を信じるかい?』と……。
私の身にもなってください。恥ずかしい」
再び眼鏡をかけ直すと、光景が鮮明に映る。
アーサーの顔は既に真っ赤になっていた。
冷ややかな視線が彼に突き刺さる周囲の生徒たちの様子も、否応なく目に入る。
それも当然。
この一年でアーサーの悪評は隅々まで広まり、今や腫れ物として扱われている。
それに気づいていないのは、彼だけだ。
「し、しかしだな! こうして俺はフィーニャ嬢との真実の愛を見つけたのだ!
彼女は伯爵令嬢で家格は同じ。体裁も取れる。
リディアが婚約破棄を受け入れさえすれば、この場は丸く収まるんだぞ!」
リディアは困ったように頬へ手を添え、小さく呟いた。
「世の中、そう上手くはいかないものなのです」
その時、すっと人波を割って姿を現したのは、金髪碧眼の美しい青年だった。
この国の第一王子──レストである。
周囲のざわめきが一瞬で落ち着き、空気が張りつめた。
リディアは反射的に裾をつまみ、深くカーテシーをし、臣下の礼をとる。
しかし彼はそれを片手で制した。
「僕とリディア嬢の仲じゃないか。楽にしてくれ」
「……恐れ入ります。しかし殿下、そういう口振りをされますと、婚約者様に愛想をつかされてしまいますよ」
レストは表面上は穏やかに笑いながらも、欠片も思っていない親密さを纏って、リディアの肩を抱いた。
その動きはあまりに自然で、遊び慣れた貴公子のようでありながら、どこか無機質だった。
リディアはそれを、わざと無抵抗に受け入れる。
彼は無駄なことはしない。
この煽りは話を先に進めるために必要なのだろう。
更にレストは興が乗ったとでもいうように、嬉々とした表情で犬を扱うようにリディアの頭を撫で、指先で顎を掬い上げる。
リディアは彼を見据え、笑ってみせた。
愛玩動物のように、力を抜いて、身を委ねて。
──その堂々とした様子を、アーサーはただ、顔を歪ませて見ていた。
怒りなのか、羞恥なのか、自分でも整理のつかない感情が渦巻いているのだろう。
リディアはその表情を見て、嘲るように言った。
「……ふふ、ショックですか?
私はアーサー様が誰彼構わず迫っている姿を見て、吐き気を覚えたのですが」
軽くレストの身体を押し、リディアは微動だにせずアーサーを見上げた。
その藍色の瞳には、なにも映っていない。
「おや、もう満足かい?」
その一言で、一連のすべてがリディアのためだったのだと気づいて驚いたが、それは口に出さないでおく。
「えぇ。アーサー様も己のしたことを僅かでも理解できたでしょう。
しかしながら殿下、いい加減にしないと本当に──」
リディアが僅かに眉をひそめ、レストに意見しようとした、その時だった。
「──レスト様。リディアは確かに優秀ですが、あなたの唯一はわたくしでしょう?
それとも鞍替えですの? この期に及んで? 彼女を得ることは利益になるとはいえ、わたくしにこのようなおぞましい命を下しておいて?」
アーサーに絡ませていた腕を振りほどき、鋭く明瞭な声と共にレストへ迫る可憐な令嬢──フィーニャ。
纏っているのはレストの色のドレス。
深海を思わせる静謐な青の布地に、金糸の刺繍が星々のように煌めいている。
一目で第一王子の婚約者だと分かる装いだ。
リディアは苦笑せざるをえなかった。
「……ね? 私は忠告しましたよ、殿下」
そう小さく呟いて、するりと二人の間から抜ける。
夫婦喧嘩──いや、婚約者同士の喧嘩は犬も食わない。
巻き込まれるのは御免だ。
フィーニャはすねた様子で「もう知りませんわ」とぷいと顔を逸らしている。
だがレストはすぐにフィーニャへ跪き、そっと手を取り、ご機嫌取りに勤しみ始めた。
「ごめんね、僕が悪かったよ。
でも、フィーニャがリディア嬢の友人として頑張りたいと言ったから、無粋かなと思って。
僕も僕で動いていたし。
もう手続きは済ませたから、あんなことはしなくていいよ」
レストが彼女の手にキスをすると、周囲からかすかに黄色い声が上がる。
「あら、ではリディアは正式にわたくしたちに仕えることとなったのですね。
嬉しい……流石レスト様ですわ」
ぱっとフィーニャの表情が綻び、レストもほっと安堵を浮かべる。
やはりこの二人は並ぶと絵になる。
そう思いながら、まだ状況を理解できていないアーサーへ、リディアは淡々と説明を与えた。
「アーサー様はご存知ないかもしれませんが、社交界にてこのお二方は、それはそれはお熱い婚約者として有名なのです。
政略で婚約したにも関わらず、きちんと信頼を築き上げ、愛し愛されて……と。割と有名な話なのですが」
尤も、アーサーが知らなかった理由は簡単だ。
レストたちに憧れて余計な騒ぎを起こさないよう、リディアが間接的に情報を遮断していたこと。
そして、アーサー本人が表面上の友人しか持たないことによるものだった。
「でも……」
「アーサー様は未来の王子妃……いえ、王妃を籠絡したかったのですか?」
「し、知らなかったんだ!
それにフィーニャ嬢を口説いた時、婚約者がいるかと聞いても首を横に振ったし、好きだと伝えたら自分もだと……」
要は、仕草や同調で丸め込まれたということ。
アーサーは、肝心な「言葉」を引き出せていなかった。
言質さえなければいくらでも言い逃れができる。
そしておそらくやりとりが行われたのは密室──に見せかけた、王家の影がいる空間だったのだろう。
事実として残っているのは──
アーサーがフィーニャを口説き、この夜会に連れ出したという一点のみ。
フィーニャはきゅっとドレスを握り、か弱い子うさぎのように震えた。
青いドレスが揺れる。
「わたくし、怖かったですわ……。
夜会でエスコートさせてほしいと、突然申し出をされて……。
ドレスを贈るとも言われましたがわたくしは曖昧に首を傾げましたの。
しかし、了承しないと帰さないと言われてっ……!」
被害者がこう訴えれば、それが事実になる。
「なっ! なぜだフィーニャ嬢!
その時確かに俺が贈ったドレスを抱いて、微笑んでいたではないか?!」
「ひっ……レスト様……」
フィーニャはレストの胸に顔を埋め、レストは鋭い眼差しでアーサーを睨む。
──なんと見事な美人局。
彼らが、前々からリディアを優秀だと評価していることは知っていた。
レストとは生徒会の仲間として、フィーニャとは友人としてよくしてもらっている自覚はあった。
しかし、ここまで壮大な段取りを整えるとは思わなかったのだ。
それでも、自分の能力を正しく評価し、公式の場でそれを明らかにしてくれるレストとフィーニャのことは──
リディアにとっては、大変好ましく思える存在だった。
しかし補足しておくと、リディアは彼らが介入するより前に、布石自体は打っていた。
もう詰みという状態まで来たところをレストに声をかけられたので、盤上ごと譲ったにすぎない。
リディアは率先して、被害を抑えるための根回しを行っていた。
実際、被害に遭ったご令嬢たちのほとんどは、リディアが個人的に情報収集を頼んだ相手ばかりである。
極稀に例外は出たが、彼女らにも同じような対応をした。
だが、理不尽に恐怖を与えられたのは紛れもない事実。
リディアは情報提供の対価に加え、心のケアまできめ細かく行った。
おかげでアーサーは停学や退学にはならず、実家への形ばかりの示談金取り引きだけで済んでいる。
尤も、その示談金の書類が伯爵家に山のように届いている現状を鑑みれば、むしろ「早く学園から追い出した方が良い」と判断されるのも時間の問題だろう。
近々リディアは領地へ帰る。
アーサーは既に呼び出されているので、ことが終わり次第送り出す予定だ。
リディアは未来の義父──いや、婚約破棄が成立すれば赤の他人──から叱責を受けるかもしれないが、自分の生家である子爵家は概ね喜ぶはず。
「それにしても、よかったですね。アーサー様」
ぽつりとリディアが呟くと、アーサーはきょとんと首を傾げる。
リディアの、その藍色の瞳に初めてアーサーが映ったように見えた。
哀れな、男の姿が。
「在学中に真実の愛を見つける──夢が叶ったではありませんか。
おかげさまで私もご縁をいただき、殿下の側近としてお仕えすることになったのです」
ゆるやかに微笑むと、アーサーの顔色はさらに悪くなる。
「ま、待ってくれ……リディア。も、もう一回やり直そう!」
みっともないほどに縋りついてくるアーサー。
涙か鼻水か判断のつかない液体がリディアのドレスについた。
ワインレッドのドレスが汚れる。
しかし、もうこの好きでもない色を選ばなくてよいと考えると、少しだけ溜飲が下がった。
「今度こそ、きみだけを愛す!
仕事だって好きにしてくれて構わない! だから──!」
「あら? それはおかしいですね」
リディアは声を和らげながらも、冷ややかな光を瞳に宿した。
これまでアーサーの主張には、否定する説明が面倒なため、半ば流すように同調してきただけ。
しかし、こういう場面では言葉を紡ぐこと自体が、妙に面白い。
「私はアーサー様に捨てられる立場なのでしょう?
今さら愛すと言われましても……」
「それは誤解だ! 俺の真実の愛は、リディアただ一人だったんだ!」
なんとなく理由は想像がつく。
困ったものだ、とリディアは心の中で肩をすくめた。
アーサーは本能的に理解しているのだろう。
──ここでリディアを逃せば、現伯爵である父から怒りを買い、後継者から外されると。
それほどリディアという存在が、伯爵家にとって重要だった。
しかし彼女はアーサーのように崖っぷちではない。
学があるゆえに、いざという時の雇い先はいくつも手が挙がっている。
「結構です。私は、婚約破棄を受け入れます。
そもそもアーサー様を必要だと思いませんし……。
というか、一度も思ったことがないのです」
アーサーの顔が、音を立てるように崩れる。
「う……嘘だ。嘘だろう……?」
リディアには学園や生徒会、レストがしたためた正式な書面がある。
もう逃れようがないし、逃すつもりもない。
彼女を伯爵家で一生飼い殺しにするつもりだった現伯爵に、婚約破棄を呑ませるのだ。
リディアは彼に向き直った。
「さようなら、アーサー様。
捨てられるのはどちらなのか、じっくり考えながら伯爵領へお戻りください」
「い、いやだ……リディア、捨てないでくれ──!」
ちょうど会場の大扉が軋んだ音を立てて開き、アーサーの言葉の端をかき消した。
退場はあちらですよ、と外を指す。
しかしいつまで経っても呆けたまま動かないので、場内の衛兵に頼んで、彼を馬車に乗せて実家まで送るように指示をした。
背中を丸めた男が、ずるずると引きずられていく。
場内は静寂に包まれた。
ふぅ、とため息を一つ。
やっと終わった割には、実感がないものだ。
リディアはこれからの未来に思いを馳せた。
明日朝、太陽が出るより前に馬車を走らせ、領地に帰らなければならない。
リディアを伯爵家で飼い殺しにするつもりだった現伯爵に、婚約破棄の旨を伝えるために。
その後は学園へとんぼ返りし、レストとフィーニャを支えるため、一層勉学に励む。
小さい頃願った夢というのは、案外叶うものなのかもしれない。
本では知り得ない思いが、胸の奥から込み上げてくる。
「リディア嬢、大丈夫かい?」
「ふふ、なにぼーっとしているの。今宵の主役はあなたよ?
レスト様を貸すから踊ってきなさい。わたくしからの最初の命令よ」
我に返り言葉を反芻する。
僅かな驚きと、こんなにもリディアを大切に思ってくれていることへの嬉しさが胸に満ちた。
「……はい、承りました」
この二人に仕えることができる。
なんて、幸せなことだろう。
エスコートを受けてダンスホールの真ん中でくるくると踊る。
リディアのこれまでの物語に、ヒーローはいない。
しかし、今までしてきたことは間違いではなかったのだと、改めて感じた。
◆
時が過ぎ、主催がお開きだと宣言した後。
リディアはお礼や報告のため、まだ会場に残っていた。
声をかけた全員に労われ、新たな門出を祝福されることに戸惑いつつ、素直に気持ちを受け取る。
それも一段落ついたので、休憩がてら余ったお菓子を口に入れた。
甘く、すっきりとした味が胸に広がる。
「……本当に、ありがとうございました。アーサー様」
ぽつり、誰にも聞こえないように呟く。
存外声は響いたが、言わずにはいられなかった。
彼を疎ましく思っていたのは事実だ。
しかし、今口に出した感謝だけは、嘘ではない。
リディアの夢は叶い、これからもっと素敵な未来を掴み取るための足がかりとして機能することだろう。
運命の歯車はかけ違い、そしてまた正常に動き出す。
リディアの幸せは、忠誠は、婚約者を捨てることで成り立った。




