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真夜中の台所

作者: 妙原奇天

第1話 冷蔵庫の奥


 葬儀が終わった翌朝、団地の階段はいつもより軽く感じた。肌寒いのに、息が白くならない。手に提げたゴミ袋が、やけに透明だった。中身が透けないよう、二重にしたはずなのに、母の部屋へ向かうほどに、あの家の匂いが袋を薄くする。洗剤と油と、古い木製のまな板の甘い匂い。私の体は、鍵を差し込む前から、台所に引っぱられていた。


 玄関を開けると、靴箱の上に、黒い腕時計が置かれていた。ベルトの裏に白い跡。母は汗をかかない人だった、と誰かが通夜で言っていた。正確には、汗を見せない人。そこに置かれた時計は、時間を動かすことをやめているのに、薄く湿って見えた。


 台所は、昨日の花の匂いが抜けて、空気が軽い。誰もいない家の音は、思っていたより多い。隣室のテレビ、階下の洗濯機、外の風。冷蔵庫のブーンという低音だけが、音の底で持続していた。私は最初に、そこから始めると決めていた。母の死が病院で決まっていったのなら、母の生活はこの箱の中にこぼれているはずだ。蓋を開ける作業は、蓋を閉じ直す作業でもある。そう思えば、怖くないふりができる。


 戸を開けると、整っているのに、整えた人がもういない冷たさが頬に当たった。タッパーは四角い容器ごとに背丈順、ラベルの字は青い油性ペンで、日付の数字がきれいに並ぶ。古い瓶、古い段取り。奥へ手を伸ばすと、指先がガラスの冷たさに触れて、背中がわずかに縮む。見覚えのない、小さな瓶だった。丸い肩、蓋の縁に指の跡。紙を切り抜いたようなラベルが貼られている。ひらがなで、麻衣へ。知らない名前が、私の家の冷蔵庫で暮らしていた。


 瓶を持ち上げると、中の赤が光を吸った。苺より深く、さくらんぼより鈍い。艶があるのに、息苦しい赤。母は糖分を控える主義だった。果物は食べるけれど、ジャムは買わない。砂糖は料理の背中を押すもの、前に出すものではない。そう言って、角砂糖をお茶の横に置かない人だった。けれど瓶の中身は、角砂糖を溶かして煮詰めたような濃さが、蓋の裏まで染み出している。


 瓶の底に、小さく折られた紙片が沈んでいた。赤の向こうで、紙は薄い肉のようにふやけている。蓋を開けるのは、明日でも良い気がした。今日は見るだけ。見て、戻す。それが遺品整理の正しい手順だと思っていた。けれど、ふと、紙の端に墨の濃淡が見えてしまった。目が読む準備を先にしてしまった。取り出してしまったのは、瓶ではなく、私のほうだ。


 「また作ってあげるね」


 母の癖のある丸みの字。あの人はいつも、最後の音を伸ばす。語尾をやわらげ、約束を約束しない。紙にはそれしか書かれていなかった。その一行に、体の芯が冷えた。母が誰かに与えていた。私には与えられなかった種類の、甘さ。母が誰かのために、口の中に残るものを作っていた。じゃあ、私は誰のために育てられたのだろう。選択肢は一つではない。私たち家族のため、地域のため、自分のため。けれど、そのどれでもなかった答えが、もう一つ棚の奥に隠れていたのだとしたら。


 その夜、私は寝室の電気を消しても、台所の音を消せなかった。ブーンという低い音は、母が眠っている時の呼吸に似ている。規則的で、乱れがない。耳を塞げばいいのに、聞こえなくなるのが怖い。音が止まれば、中が腐る。音が続けば、誰かのための甘さが保存される。私はどちらの味方でもなかった。眠れない夜は長いふりをして、朝は早く来る。朝はいつだって、私の準備が整う前に来る。


 翌日、引き出しを開けると、レシートの束が綺麗に輪ゴムで留められていた。母の几帳面さは、神経の一本一本にまで染みている。端から日付を目で撫でると、同じ日付が二つずつある日が、いくつもあった。朝と夜。近所と駅の向こう。買うものも似ているのに微妙に違う。近所のスーパーでは大根と鶏肉と牛乳。駅の向こうでは、グラニュー糖とレモンと瓶。レシートの隅に、カフェ・レナ。コーヒー豆、紙袋、手作りジャムの棚、と明細にある。母がどこに通い、誰に会い、何を習ったのか。レシートは無口だけれど、嘘をつかない。


 スマホで検索すると、小さなカフェの写真が出てきた。白い壁、木のテーブル、窓辺に飾られたジャムの瓶。店名の横に小さく、「季節の果物で作るジャムが人気」と書かれている。母は季節を日付で記録する人だった。少しだけ、つながった気がした。けれど、冷蔵庫の奥の赤は、画面の上の光より濃い。私は画面を閉じ、箱の音を聞いた。ブーン。約束は、音のないところでは続かない。


 昼前、私はカフェ・レナに向かった。駅の向こうは、通学の頃から、なんとなく避けていた。知らない知り合いに会う場所だからだ。知っているふりをする人と、知らないふりをする人。母も、きっとその間に立っていた。交差点を渡り、アーケードの見慣れない色を通り抜けると、カフェは想像より小さかった。入口に吊るされた木の看板は、雨で角が丸くなっている。扉を押すと、ベルが鳴った。音が軽い。家の音と違って、この音は誰かのために鳴る。


 窓辺の棚に瓶が並んでいた。苺、柑橘、ルバーブ。瓶の肩に、手書きのラベル。ひらがなで、誰かの名前。麻衣、の文字が見えた気がして、目線が揺れた。けれど、ラベルに書かれているのは、果物の名前で、麻衣は見間違いに過ぎなかった。私はいちばん手前の、赤い瓶の前で立ち尽くした。蓋の縁には、指の幅が残っている。店員の女性が、柔らかい制服の音を立てて近づいてきた。


「いらっしゃいませ。試食、されますか」


 女性の声は、砂糖を煮詰めて黄金色になりかける直前の温度だった。甘さの手前に、少しの焦げ。差し出された小さなスプーンに、赤いジャムが乗っている。私は首を縦に振って、開いた口の中に置く。舌に触れた瞬間、甘さより先に、ざらつきが広がる。果実の繊維と、煮詰めた砂糖の粒。しばらくしてから、遅れて甘さが来る。甘さが来る前の時間が、やけに長かった。


「今日のは、少し硬めに炊いているんです。パンより、ヨーグルト向きかもしれません」


「おいしいです」


 私の声は、喉の横を通って、何かを避けた。おいしい、と言ってしまうと、母の瓶もおいしかったことになってしまう。私はおいしいものをもらっていない、という不公平さが、ひとつ薄くなる。薄くなるのは良いことなのに、怒りが薄くなるのは、負けることに似ている。


「ご家族で、よく来られていた方がいて。いつも赤いジャムを選ばれてました。『うちの子は、赤がいちばん喜ぶから』って」


 女性が私の顔を、初めてまっすぐに見る。私は笑ったふりをして、何も聞いていないふりをした。


「お会計、こちらでよろしいですか」


「はい」


 私は瓶を一本買った。財布から出したお札が、少し濡れていた。汗ではない。外の冷たい空気が、指先の血を引いた。レシートを受け取ると、店名の横に、見慣れたフォントで印字された電話番号があった。一度も見たことがないのに、既視感があるのは、昨夜のレシートの束に何度も出てきた数字だからだ。印字された番号は、母の生活の横に、影のようにずっと存在していた。


 家に戻って、瓶を冷蔵庫に並べた。母の瓶と、店で買った瓶。並べてみると、色が違う。市販の赤は、陽に当たった果実の色をしている。母の赤は、窓のない部屋で生まれた色。蓋を開ければ、違いはもっと明らかになるはずだ。けれど、蓋を開けるのは、今日ではない気がした。私は瓶の肩を軽く押して、動かないことを確かめた。冷蔵庫の音が、瓶の間をすり抜ける。


 父からの着信は、無視した。通夜のあと、父は大人しくなった。大人しく、という言葉は、父に似合わない。父は声の大きさで家族を守る人だった。告別式で、喪主としての挨拶をしたとき、「妻は家族の中心でした」と言った。そのときの父の声は、小さかったが、正しかった。中心は動かないのに、家は動いている。中心は空洞になって、空洞が空気を吸う。暇なときほど、空洞はよく働く。


 夜になっても、眠気は来なかった。私は台所の椅子に座って、引き出しの中を整理した。輪ゴム、クリップ、古い保証書、見たことのない鍵。鍵の頭には、203、と刻まれている。母の部屋は二階の角で、番号は205だ。203は、同じ階の別の部屋かもしれないし、別の棟の知らない扉かもしれない。鍵の縁には、微かな赤い跡がついていた。ジャムの色ではない。金属の錆とも違う、紙やすりで擦ったような擦過。ポケットの中で、何かと擦れ合っていたのだろう。人と人が擦れ合う音を、鍵は覚えている。


 引き出しの底から、薄いノートが出てきた。献立表、と表紙に青いペンで書かれている。ページをめくる。曜日ごとに並んだ、いつもの料理。筑前煮、肉じゃが、鯖の味噌煮、ポテトサラダ。木曜日の欄だけ、白い。空白が続く週が、いくつもあった。白い場所は、なぜか目に沁みる。空白は、サボりではない。予定で埋まっている白さがある。白い木曜日の横に、かすれたメモが残っていた。


 「駅の向こう、四時」


 私の胸の中で、時間が音を立てた。四時は、母が家にいない時間だ。私が学校から戻ってくる前。父が会社から帰るずっと前。家の中の空気が、いちばん穏やかになるはずの時間。そこに母はいなかった。母は駅の向こうで、誰かに会い、何かを作っていた。そして、また作ってあげるね、と書いて、瓶の底に沈めた。私の家の冷蔵庫の奥は、誰かの約束で満たされていた。


 私はノートを閉じ、鍵をポケットに入れた。鍵は軽いのに、ポケットが重くなる。座ったまま、冷蔵庫の音を聞く。ブーン。音は変わらない。音が変わらないから、私の考えが変わる。母は私の母である前に、誰かの何かだったのかもしれない。女の人は、誰かの何かになれるように育てられる。母はその役目を、間違えずに果たしてきたのだろう。家族という名の皿に、ほどよく盛り付けて。皿の外で、別の皿を用意して。盛り方を誰にも見せずに。私はそれを、食べていなかっただけだ。


 眠る前に、冷蔵庫の前に立った。手前の瓶を動かし、奥の瓶を少し手前に引いた。蓋の縁に、赤が薄くこびりついている。指で触ると、かすかに固い。私は指を口に運びかけて、止めた。味見は、誰かの役割だ。私がする味見は、いつも後回しになる。私は蓋を持ち上げた。開かない。抵抗がある。開けようとする力と、開けないでほしい力が、金属のネジの中で均衡している。私は息を止め、もう一度だけ力をかけた。蓋はわずかに動いて、止まった。冷蔵庫の音が、少しだけ大きくなった気がした。私は蓋を戻し、瓶を奥に押し込んだ。蓋が開くのは、私が誰の役なのかを決めてからでいい。


 翌日、父が来た。鍵を持っているのは父だから、来られる。ノックはしない。玄関で靴を脱ぎながら、父は何かを言った。言葉の半分は、靴箱の中に落ちた。


「お前、レナに行ったか」


 父の口から、その名前が出ると思わなかった。私の顔が先に答えたのだろう。父はため息をつき、リビングの椅子に座った。父がこの椅子に座ると、椅子は少し小さく見える。


「母さん、あそこの店の女と知り合いでな。店の常連ってだけだ。ジャム教室、みたいなやつに通ってたらしい。俺は、知らなかった」


「私も、昨日、初めて知った」


 父は頷き、テーブルの上の献立表に目を落とした。指で木曜日の空白をなぞる。その指が、皺だらけに見えた。父の指は、いつから老いたのだろう。


「お前に言わなかったのは、悪かった。母さんは、『心配させるな』って人だからな。自分が何をしているか、他人に渡す前に、うちで全部消してしまう人だ。きれいに、な」


 父の言葉は、言い訳の形をしていなかった。告白の形もしていなかった。ただ、状態を述べた。父の言葉の中で、母は事務的な美しさを持っていた。私は頷くふりをして、心の中で反対をした。消す、という言葉は、誰かから見えなくするという意味と、誰かから消してしまうという意味を持つ。母はどちらの消し方を選んだのだろう。


「麻衣って、誰」


 父は一瞬だけ、目を上げた。表情は変わらないのに、視線の焦点がずれる。


「麻衣?」


「冷蔵庫の瓶に、書いてあった。麻衣へ」


「……知らん」


 父が知らない、と言うときは、本当に知らないか、知っているけれど知らないふりをしたいときだ。二つのどちらなのか、見分ける方法は昔からない。私は父の目ではなく、父の手を見る。手がテーブルの端を軽く叩く癖は、知らないときの癖だ。知らないのなら、誰が知っている。母は自分のことを話さない人だ。母の代わりに話してくれる人がいるのだとしたら、その人は、彼女の台所に座っていたのだろうか。駅の向こうの四時。木曜日の白い欄。鍵の頭の203。


 父が帰ったあと、私は階段を降り、二階の廊下を歩いた。203の前で立ち止まる。ドアの前には、古い靴が二足置かれている。片方は男物、片方は女物、どちらも擦り減っている。呼び鈴を押すべきかどうか、決められない。鍵穴は、鍵を待っている。鍵は私のポケットで、体温に馴染んでいる。呼び鈴を押すのは、勝手だ。鍵を差すのは、犯罪かもしれない。母の死は、私にいくつかの罰を渡した。罰は、選べるように見えて、どれを選んでも似ている。


 私は呼び鈴を押さなかった。代わりに、階段を降り、郵便受けの前に立った。新聞、チラシ、封筒。そこに、薄いはがきが紛れている。カフェ・レナのスタンプカード。名前の欄に、直子、とある。母の名前ではない。母は恵子だ。直子は誰だろう。母が使っていた偽名、あるいは、別の誰か。カードの端に、青いインクが滲んでいる。スタンプは九個。十個で一つサービス。最後の一個は、もう押されることがない。約束の形は、スタンプの丸さに似ている。


 部屋に戻ると、冷蔵庫の音が、少しだけ高くなった気がした。夕方の台所は、匂いが濃くなる。光が狭くなる。私は瓶の前に立ち、今度こそ蓋を開けた。抵抗は、さっきより弱かった。蓋が回る音が、金属の中で乾いた。開いた瞬間、甘さが上がる。鼻が、甘さの形を確かめる。スプーンを差し入れ、底に沈んだ紙片を、そっと持ち上げる。紙は破れなかった。柔らかいのに、しっかりしている。母の字は、ふやけた紙でも、はっきりしている。私は「また作ってあげるね」の下に、薄い鉛筆の跡があるのを見つけた。消しゴムで消したような薄さ。横線の上に、小さな丸。麻衣、の、い、の点が、二つ重なっている。書き直したのだ。母は最初、違う名前を書いたのかもしれない。あるいは、自分の名前を書こうとして、やめたのかもしれない。


 スプーンの先に、ほんの少しだけジャムをすくって舌に乗せる。昨日の店の味と違う。甘さが早い。早く来て、早く引く。甘さが去ったあとに、かすかな苦みが残る。レモンの皮の白い部分の苦さ。うまく取れなかった白皮が、鍋の中で頑固に残った味。母がこんな失敗をするだろうか。失敗ではないのかもしれない。意図して残した白。残し方の技術。甘さを引き締めるための、苦み。


 私は瓶を閉じ、引き出しの鍵を取り出した。203の鍵は、銀色に見えて、少し黄ばんでいる。古い家の金属の色。ポケットに戻す。戻す、という動作は、保留に似ている。明日に回す。明日は、今日よりも少し静かになるはずだ。人は、何かを見つけた翌日は、少しだけ優しくなる。優しくなってしまうから、やるべきことをやらなくなる。私は自分に怒ってみた。怒りは、甘くならない。怒りには、固まるという救いがある。


 夜更け、布団に入ると、冷蔵庫の音は、母の声に変わった。名前を呼ばれている気がした。沙耶、と呼ぶとき、母は一拍置く。さ、の音と、や、の音の間に、空気を挟む。そこに、言わない言葉が詰まっている。私の名前の中に、母は何度も言い残した言葉を挟んで、私に手渡したのだろう。私はそれを受け取り、何も入っていないと決めていた。空気は、軽い。軽さは、誤解されやすい。


 翌週、私は木曜日の四時に、駅の向こうへ歩いた。カフェには寄らず、アーケードの裏路地へ入る。細い道に、古い印刷屋、閉じた文具店、看板のない小さな部屋。若い女の人が、ドアに鍵をかけようとしていた。足元に、空の瓶が入った紙袋。女の人は、私に気づいて、会釈をした。私も頭を下げる。すれ違うとき、女の人の手から、瓶のぶつかる音がした。ガラスとガラスの当たる軽い音。私は、つい振り返った。


「すみません」


 女の人が言った。謝る理由はなかった。けれど私は、謝られた気がした。彼女の肩越しに見えた部屋の奥に、小さなテーブルがあり、上にジャムの瓶がいくつか並んでいた。ラベルのひらがなが、私の目を追いかけてくる。見てはいけないものを見たような後ろめたさと、やっと見つけたような安堵が、一緒に喉に上がってくる。私は会釈を返し、何もない顔で歩き続けた。


 団地に戻ると、ポストに手紙が一通。差出人は、見覚えのない女性の名前。封を切ると、短い文が一枚。母のことを、お悔やみ申し上げます。いつも助けていただきました。麻衣も、最後まで、恵子さんのジャムが好きでした。ありがとうございます。紙の端に、小さな赤い点。指で触れると、乾いている。ジャムの色は、時間が経つと、血の色に近づく。私は手紙を冷蔵庫の扉にマグネットで留め、音を聞いた。ブーン。音は、手紙の文字を冷やす。冷たさは、保存するための温度だ。忘れないように、冷やしておく。忘れたくないものを、奥にしまっておく。私は冷蔵庫の奥に、手紙をしまうべきなのかもしれない。けれど、扉に留めることにした。見える場所に置いたほうが、私は嘘をつかなくて済む。


 「麻衣へ」


 冷蔵庫の奥の瓶は、まだ半分残っている。私はそれを捨てない。捨てるのは簡単で、間違いだ。捨てると、何も起きない。何も起きないようにするのは、母のやり方だ。私は母のやり方を真似て、生き延びてきた。けれど、真似をやめる時期が来ている。私は蓋に指を置き、回さなかった。回すのは、来週でもいい。来週、私は203の前で、呼び鈴を押すかもしれない。鍵を差すかもしれない。押さないかもしれない。差さないかもしれない。可能性は、冷えた瓶の中で固まっていく。固まって、甘くなる。甘さが、私を裏切る。裏切られた痛みは、悲しみより長く持つ。長く持つもののほうが、扱いやすい。


 その夜、夢を見た。台所の床に、赤い円がいくつも並んでいる。瓶の底の丸さが、床に移ったもの。私は円の間を歩き、どれか一つの中に立つ。円の中は、少し暖かい。母の手の温度に似ている。私は円の外に出ようとするけれど、足が少し重い。外に出ると、冷蔵庫の音が止まる。音が止まると、母の呼吸が止まる。私は慌てて、円に戻る。音が戻る。戻る音に、私の名前が挟まっている。さ、と、やの間の空気が、甘くなる。目が覚めても、舌の上に、甘さの影が残っていた。


 朝、台所の窓を開けた。冷たい空気が、部屋の匂いを薄くする。薄くなった匂いの向こうで、冷蔵庫の音は変わらない。私は冷蔵庫の扉を叩いた。叩くと、音は少しだけ高くなる。返事をしているように見える。返事のない人に向けて、私は叩く。返事を期待していないふりをして、期待している。母の冷蔵庫は、私のために残された唯一の機械だ。機械は感情を持たない。だから、信じられる。


 昼、私は駅の向こうにもう一度行った。今度は、カフェ・レナの扉を押さなかった。ガラス越しに、中を覗く。窓辺の瓶が、陽を受けて光る。テーブルに座る若い母親が、子どもにパンをちぎって渡している。子どもは赤いジャムを指先につけて、舐める。指の先から甘さが脳に上がっていくのが見える気がした。私はガラスに触れた。冷たさが、指先の形を確かめる。私はそこにいない人だ。いない人は、何も壊さない。いない人は、何も直さない。母は、そこにいる人だった。いる人は、形を残す。残された形は、奥にしまわれる。奥にしまわれたものが、いつか冷たく甘くなる。甘くなるまで、私は待てる。待てるふりをして、待たない準備をする。


 帰り道、横断歩道の手前で、女の子が母親の手を振りほどいた。走り出す小さな背中に、母親の声が追いつく。「麻衣!」 足が止まる。女の子が振り向く。母親が駆け寄る。腕の中に引き寄せ、叱るように抱きしめる。抱きしめる腕の中で、子どもは笑う。遠くで、車のクラクション。私は信号が青に変わるのを待ち、横断歩道を渡った。名前は、どこにでもある。どこにでもあるものを、特別にするのは、呼ぶ人の声だ。母は、その声を持っていた。私には、その声が届かなかった。届かない場所にいた。届かない場所を選んだのは、誰だったのだろう。


 家に戻ると、台所の机の上に、一本の封筒が置かれていた。差出人は書かれていない。中には、ジャムのレシピが一枚。材料の分量、火加減、煮詰める時間。最後に、注記がある。「砂糖は、人によって甘さが違います。残したい味によって、調整してください」 母の字に似ているけれど、違う。丸みの中に角がある。私はレシピを持って、冷蔵庫の前に立った。扉の内側に、マグネットで留める場所はまだ空いている。貼ると、紙が冷たくなる。冷たさで保存するのは、甘さだけではない。残したいものの、形。


 私はスプーンを取り、母の瓶をもう一度、ほんの少しだけ舐めた。甘さのあとに、苦み。苦みのあとに、何もない時間。何もない時間のあとに、遅れてくる酸味。遅れて来るものは、たいてい正しい。正しさは、遅いから、痛む期間が長い。私は痛みの長さを、舌で測る。測り終える前に、冷蔵庫の音が一段低くなった。ブーン。音の底に、母の名前が沈んでいる気がする。私は目を閉じた。奥、という言葉の輪郭を、舌でなぞる。冷蔵庫の奥、心の奥、名前の奥。奥にあるものに、私はこれから、指を伸ばす。伸ばす前に、一度だけ、私の名前を自分で呼んでみる。沙耶。声は、思ったよりも落ち着いていた。落ち着いた声は、甘さを薄める。薄まった甘さは、長く残る。


 私は椅子を引き、台所の真ん中に座った。部屋の四隅が、静かにこちらを見る。静かな視線に見守られながら、私は紙に、木曜日の四時と書いた。次の木曜日に、私は何かを開ける。瓶か、扉か、誰かの口か。開けた先に、誰かの名前が待っている。名前は、呼ばれるためにある。呼ぶ人がいなくなっても、冷蔵庫の音は続く。機械の呼吸は、私たちの間違いよりも正確だ。私は音に合わせて呼吸し、目を開けた。奥は、いつも冷たい。その冷たさに、ゆっくり指を慣らしていくことを、私は今、始めた。


第2話 レシートの束

 台所の引き出しは、音を立てずに開いた。レールの油がまだ生きている。母は、こういう細部だけは抜かりがない。布巾のたたみ方、ラップの端の折りこみ、輪ゴムの重ね方。遺された家事が、私を小さな仕事へ導く。私は浅い箱の中に手を入れ、爪の先で紙の角を拾い上げた。軽い紙の重みは、日付の数だけ増える。手の中で、過ぎた日が厚みになっていく。

 レシートが、束で現れた。輪ゴムに締め付けられて、角がわずかに丸い。白地は時間の脂で少し黄ばみ、印字の黒はところどころ薄れている。母は捨てない人だった。すぐ要らなくなるものを、なぜ保つのか。昔、そう訊いたことがある。母は微笑んで、「数字は嘘をつかないから」と答えた。私はそのとき、母を合理的だと思った。今は、数字の正しさが私の腹の中でじわじわと膨らむ。嘘をつかない記録は、人の嘘を浮かび上がらせる。

 私はテーブルに古い下敷きを広げ、レシートを日付順に並べた。同じ日に二枚あるものを脇に寄せ、時間を確かめる。印字の「14:03」「14:47」「15:02」……数字の間に、台所の光が反射する。午後二時台から三時台が多い。週末、特に月初の土曜。駅の向こう側の小さなレシートは、決まってその時間帯だ。表に「カフェ・レナ」の角ばったロゴ。内訳には、苺、グラニュー糖、レモン、ガラス瓶、ガーゼ布。ジャムの材料ばかり。紙の上に、煮立つ音がにじむ。

 指で、近所のスーパーのレシートをたどる。白菜、豆腐、豚こま、特売の卵。いつもの買い物。母は家庭のために買い、誰かのために買い、両方のために袋を持って帰ってきた。けれど、冷蔵庫に並ぶ保存容器のどこにも、甘い赤の居場所はない。母の台所に、甘さは一滴まで配分されていた。近所のスーパーのレシートと、駅向こうのカフェのレシートが、月初の白い週末に重なる。規則性は、ある種の誠実さを帯びる。決まった時間に、決まった場所に立ち、決まった材料を買う。そこに私の名前は、一度も印字されない。

 私は一枚、また一枚とレシートをめくった。親指の腹に、紙の繊維がほつれてぴりぴりと残る。その小さな刺激が、心の中の言い訳を削る。たまたま、ではない。誰か、だ。母が誰かのために鍋を見ていた。泡をすくい、火を弱め、木べらで回す円が、私の知らない方向へ向かっていた。「麻衣へ」。瓶のラベルの、ひらがなの斜めの角度が、頭の裏でちらつく。

 母のスマホは、電源を入れるとパスコードを求めた。四桁の数字。母の誕生日を入れても、父の誕生日を入れても、私の生年月日を入れても、拒まれる。冷たい振動が掌に伝わる。スマホの黒い画面は、母の口の固い線に似ている。教えない、という意思に光沢がある。私はべつの引き出しに手を伸ばし、紙の手帳を探した。背表紙が布の、淡いグレーの手帳。油の染みた指で触ると、布が少し暗くなる。

 手帳の月間ページは、家族の用事で埋まっている。父の検診、自治会の当番、ゴミの収集日、年金の振込。母は事務を愛していた。罫線の間に鉛筆が正しく歩く。薄い線は、消そうと思えば消せる強さで書かれている。私は端から指でめくり、ページの角に引っかかる違和感で止まった。八月のページの右下。小さく折れた角に、丸いインクが滲んでいる。開くと、余白に走り書きがあった。

 「麻衣ちゃん □□市△△一丁目五―十二」

 住所は、団地から二駅離れた住宅街。商店街の終端の先、踏切の向こう。私の通学路ではない。見知らぬ場所。見知らぬ名前。けれど「ちゃん」の柔らかさが、どこか幼さの匂いを連れている。母の字の「い」の点は、いつも少し大きい。そこだけインクが溜まって丸く光る。母が他人に付ける「ちゃん」が、紙の上でささやく。私はスマホを開き、地図アプリに住所を入力した。青いピンが落ちる音が、胸の奥で響いた。登録、というボタンを押すのは、軽かった。行くつもりはなかった。この時点では。

 その日の午後は、針のように長かった。何もしない時間ほど、冷蔵庫の音がよく聞こえる。ブーン。音の底に、台所の影が揺れる。椅子を引く音、鍋を置く音、水道の短い呼吸。音は記憶を呼び戻す。母の背中が、冷蔵庫の前で少し丸くなる。扉のゴムパッキンが空気を吸う音と同時に、白い光が母の手元の赤を浮かばせる。私は視界の片隅で、それをいつも見逃していたのかもしれない。見ようとすれば、見えるものだったのに。見なかったことにしていたものほど、今は濃くなる。濃さは、甘さと似ている。甘さは、怒りと同じ速度で舌に残る。

 夕方、父から電話がかかってきた。私は数コール鳴らしてから出た。父の声は、午後の日差しのように弱くてまぶしい。「明日、役所に行く。戸籍の手続きだ」「ありがとう」と短く返す。言葉を長くすると、言えないことが増える。私は受話器を耳から離し、冷蔵庫の音に耳を寄せた。電話の向こうの父の生活音と、こちらの機械の息が、別々の正確さで進む。どちらも止められない。止めない人のほうが、強いのだと、最近は思う。

 夜更け、時計は二時を指した。針は紙の上で音を立てないのに、胸の中では金属音がした。ブーン、と冷蔵庫が唸り直す。モーターの切り替わりの一瞬、空気の圧が変わる。あの音に、私は昔から起こされる。子どもの頃は、冬の夜に牛乳を温める母の背中が、その音の向こうにあった。今、私の頭のスクリーンに浮かぶのは、あの背中の輪郭に、もう一人の小さな影が重なる映像だ。椅子に座って、足をぶらぶらさせる背丈。台の端に肘をのせ、鍋の中をのぞきこむ斜めの視線。「麻衣」という二つの音節の軽さが、鍋肌で弾ける。母は、子どもに向ける声を私に向けなかった。それとも、私がその声の時間にいなかっただけなのか。

 怒りは、眠気を追い出す。悲しみと同じ匂いをしているのに、温度が少し高い。鼻腔の奥がじりじりして、目の裏が乾く。私はベッドから起き上がり、台所に行った。冷蔵庫の取っ手は冷え、触れると指紋を隠す。扉を開けると、光が眠気を払い落とし、瓶の肩が光る。赤いジャムは、半分より少し下。表面に薄い皮が張り、時間の膜がゆらりと震える。「また作ってあげるね」。紙片の文字が、夜の冷気でも滲まない。約束は、低温で保存される。

 私はスプーンの柄を握り、何もすくわずに戻した。味見をするのは、正解に近づくための行為だ。私は今、近づきたくない正解を見ている。正しさは遅れてくる、と前に思った。遅れて来ない正しさが、ひとつだけある。行く、か、行かない、か。私はその二択を、明日の朝に回した。朝になると、人は少し善人になる。善い人間は、迷いを長引かせる。私は明日の自分を信用しないことにした。

 翌朝、目は乾いているのに、体は軽かった。眠れていないのに、決めることはできる。決める、という動詞は、体の水分を使う。私は顔を洗い、髪を束ね、鞄に手帳とスマホと、小さなメモ帳を入れた。ペンは二本。赤と黒。台所のテーブルに手を置くと、木目の筋が指先に逆らってくる。留守にする家に触れておくと、帰ってきたときの匂いの変化が、少し穏やかになる。玄関で靴を履き、扉の鍵を閉めた。鍵穴が、小さく喉を鳴らす。203の鍵は今日は持たない。余計な鍵は、余計な扉を開ける。

 二駅先。電車の窓は、曇りを拭った跡が波のように残る。車内アナウンスの抑揚は、人間が練習して身につけた機械の声。私は座席に座らず、扉のそばに立った。停車駅のホームに、私の知らない人たちの生活が横切る。ベビーカー、スーツ、学生鞄、買い物袋。それぞれの手に、それぞれの「奥」が提げられている。電車の音に、母の台所のリズムを重ねる。走行音が煮立ち、減速が弱火、停車が火を止める動作。台所はどこにでも移植できる。人の暮らしが続く限り、鍋の音は日々の音に紛れる。

 目的の駅で降りる。改札を出ると、朝市の名残りのような匂いがある。魚の影、濡れた段ボール、古い氷の筋。地図アプリの矢印が、私の向きを修正する。商店街のアーケードを抜けると、陽が強くなる。信号待ち、踏切の音、遠くの保育園の歌。住所の丁目をひとつずつ指でなぞる。郵便受けの並ぶ平屋、色褪せた布団を干す二階建て、雑草の生えた空き地。私の団地と違うのは、路地が時間でやせていないことだ。自転車が互いに譲り合う幅が残っている。風の通り道が、無理をしていない。

 「△△一丁目五―十二」は、想像より新しい建売の並びだった。白い外壁、同じ高さのポスト、同じ形のインターホン。違いは、門柱の錆びと、表札のフォントだけ。五―十二の表札には、苗字がひらがなで書かれていた。子どものいる家が選ぶ書体。玄関の脇に、小さな植木鉢。ミントの葉が、触らなくても香りを立てる。窓辺のカーテンに、赤い小さな水玉。風に揺れて、光の斑が玄関タイルに落ちる。私は立ったまま、呼吸の数を数えた。十を超えたところで、インターホンに指を伸ばす。触れる手前で止める。押した瞬間、私は誰かになる。訪問者、迷惑な人、善意の人、遺族。どの名前も、今の私には似合わない。

 門柱の陰で、近所の犬が吠えた。短い吠え方。見知らぬ匂いに反応して、すぐ飽きる声。郵便配達のバイクが通り過ぎ、新聞の束が金具の音を立てた。私はまだ押せない指を、ポケットに戻す。中の紙の端が、汗で柔らかくなる。「麻衣ちゃん」。手帳の走り書きを指でなぞる。ちゃん、を付けるのは誰の役目だったのか。母は役目を配分するのが上手かった。疲れない範囲で、善い人をやる方法を知っていた。善い人の最小単位だけを、取りこぼさないように拾い続けた。その手の先に、私の顔はなかったのか。それとも、私が手の届かないところにいたのか。答えは、玄関の向こうの空気の温度に潜む。

 「すみません」

 背中のほうから、声がした。振り向くと、乳母車を押した若い女性が立っている。日焼け止めの匂いと、ミルクの甘い匂い。彼女は道を尋ねるふうでもなく、私を見て、微笑んだ。私も口角だけで返す。乳母車の中から、小さな指が覗いた。指先に透明なゼリーのような光。垂れて固まったジャムの痕に見えた。見えただけで、私は視線を逸らした。

 帰り道、私は遠回りをした。線路沿いの柵に、赤い実をつけた雑草の群れ。名の知らない実は、誰も摘み取らない。誰かのために残す甘さと、誰のためにもならない甘さ。その差は、どこに生まれるのか。私はポケットからメモ帳を出し、歩きながら書いた。「月初・土曜・14—15時/駅向こう・苺・砂糖・瓶・ガーゼ/住所/麻衣」。箇条書きの文字が、列になって私を追いかける。砂糖は人によって甘さが違う、レシピの注記が頭をよぎる。残したい味によって、調整してください。では、残したくなかった味は、どうするのだろう。捨てられない苦みは、甘さの中に刻んで保存するのだろうか。母のジャムの底に沈んでいた紙片の角、指で触れた時のわずかな硬さ。あれは、消し忘れた苦みの角だったのかもしれない。

 団地に戻ると、ポストに広告が詰まっていた。近所のスーパーの特売、学習塾、リサイクル回収。「不要な家電、引き取ります」。冷蔵庫のイラストが笑っている。私はチラシを持ったまま台所に入り、冷蔵庫に背を預けた。機械の冷たさが、背骨をまっすぐにする。冷たいものに触れると、自分の体温の正確さがわかる。私は扉を開け、瓶を見た。赤い面が、朝よりも水平だ。光の当たり方が変わっただけかもしれない。私は蓋を少しだけ開け、空気を入れ替えた。新しい空気は、古い甘さの上に薄膜を置く。腐らないように、呼吸を与える。

 手帳を再び開く。住所のあるページの端に、小さな点がある。インクが滲んだのではない。指先についた何かが、紙に触れて乾いた跡。薄く赤い。私は鼻先を近づけた。匂いはしなかった。匂いは時間に弱い。匂いを保存するのは難しい。だからこそ、甘いものは煮詰められる。水分を追い出し、香りの骨格だけを残す。母は、何を煮詰め、何を追い出したのか。追い出されたものが私の側に溜まって、夜ごとに冷える。

 夕方、父が来た。書類の束を持ち、印鑑のキャップを歯で外すいつもの癖。印影は、朱の色が浅くなっている。「役所は、もういい」と父は言う。テーブルに置かれた戸籍の謄本に、母の名前のあとに小さな括弧が付いている。旧姓。知らない苗字の響き。私の指先が、その括弧をなぞる。括弧は、何かを包んで隠す便利な記号だ。中身は見えるのに、目に入らないふりができる。母は括弧を上手に使った人だ。父は冷蔵庫を開け、ペットボトルの麦茶を取り出した。扉が開く音が、部屋の温度をひとつ変える。父の背中越し、瓶の赤がわずかに揺れる。

「このジャム、うまいのか」

 父が蓋を見て言った。質問はいつも、感想のふりをしている。

「甘い。少し苦い。どこかで習った味」

「どこか、ね」

 父は笑った。その笑いに、疲労が乗っている。父は椅子に座り、膝の上で手を組んだ。広い掌。掌の真ん中が、少しだけ窪んでいる。「お前、どこか行ったか」と父。私は頷いた。父は聞きたがっているのに、聞く勇気を持たない。「二駅先」とだけ答える。「そうか」。父はそれ以上、何も言わなかった。沈黙は、善意の最後の手段だ。言わないことが、誰かを守ることになると信じられるうちは、まだ優しい。

 夜、私は机の上にレシートをもう一度広げた。月初・土曜の列を作る。時刻の欄の数字が、同じ小さな癖で印字されている。カフェ・レナのレジの機械が、数字の形に性格を持っている。私の家の冷蔵庫の音にも、性格がある。私は紙の海の中に、小さな島を作った。駅向こうと、家。苺と、白菜。砂糖と、だし昆布。瓶と、保存容器。ガーゼ布と、台布巾。並べた対は、美しくない対称を作る。対称という言葉の響きが、どこか裁断に似ている。母は二つに割って暮らしていたのか。半分ずつ、私たちと、誰かに。

 私はひとつだけ決めた。来週の土曜、月初の午後、駅の向こうへ行く。カフェ・レナのレジの前に立ち、苺と砂糖と瓶とガーゼ布を、同じように買う。同じ時間帯に、同じ品物を。数字の列に、私自身の印字を重ねる。重ねたところで、私は母になれない。けれど、数字は嘘をつかない。私の行為が、母の行為の影であることを、数字が証明する。証明された影は、少し濃くなる。濃くなった影の輪郭に、誰の顔が浮かぶかを、私は見届けるつもりだ。

 ベランダに出ると、夜風が湿っていた。遠くで救急車のサイレン。赤い光は見えないのに、音の波は確かに近づいて、遠ざかる。私は団地の中庭を見下ろした。砂場に猫の足跡。鉄棒の赤い塗料が剥げ、地金の銀が夜に浮く。どこにでもある風景は、見ている人の事情で濃度を変える。今夜の世界は、少し粘度が高い。甘いものを舌に載せたあとみたいに、空気が喉に残る。私はベランダの戸を閉め、カーテンを引いた。室内の空気が、瓶のように静まる。

 眠りに落ちる前、冷蔵庫の音がわずかに高くなった。ブーン。音の中に、名前が混じる。麻衣、でも、恵子、でもなく、沙耶。自分の名前を、機械の喉が呼ぶ。呼ばれているふりをして、私は目を閉じる。目蓋の裏で、レシートの数字が雨のように降る。時刻、日付、合計金額。合計は、いつも思ったより少ない。少ないのに、重い。紙片の重みは、奥へ奥へと沈む。冷蔵庫の奥、引き出しの奥、母の奥。私はそこへ、指を伸ばす準備をする。明日の私に渡す、浅い眠りの底で。

 朝になれば、私はもう一度住所を確かめるだろう。地図アプリの青いピンを、別の色に変えるかもしれない。目印の星印を付けるかもしれない。印は、忘れないための道具だ。忘れたふりをやめるための釘。私はそれを、私の心の壁に打つ。打った釘の頭が、夜ひかる。赤いジャムの表面の光に似ている。甘さは、嘘を引き寄せる。嘘は、甘さを守る。守られたものに、私は手を伸ばす。伸ばした手が、何を掴むのか。掴んだものが、誰のものだったのか。真夜中の台所で煮詰められた真実は、やけどをさせる温度で、私を待っている。私はその熱に、ようやく指先を差し入れるつもりでいる。


第3話 見知らぬ家

 駅から二つ先。地図アプリの青い矢印は、私の歩幅の癖まで知っているかのように、曲がるべき角を寸分違わず指し示した。住宅街の端に立つと、空気が変わる。車の通りが途切れ、遠くの犬の吠え声が薄くなり、代わりに誰かが水をまく音や、洗濯物を取り込む布の擦れる音が濃くなる。ここは、私の生活が一度も混じらなかった音でできている。アプリのピンが示したのは、灰色の平屋。外壁は新しくはないが、手入れの手が入っている。雨樋に落ち葉は詰まっておらず、玄関前のコンクリートは雑草を許さない直線で縁取られていた。

 インターホンを押す指は、ポケットの中で丸くなったまま、外に出てこない。塀の外から、そっと覗く。視線の高さに合わせて、カーテンの縁がわずかに持ち上がっている。黄味がかった電球の灯りがもれて、布地に小さな色の粒が浮いて見えた。レースの陰の影が動く。人の影。台所の流しのほう、低い位置。床を滑る小さな影の動きは、眠たい日の朝に、母の足元で私がしていた動き方そのものだった。

 塀の内側に、表札。木目の板に焼印で押された苗字。「木下」。母の旧姓。読めるのに、読めないふりをしたくなる字面。目の奥が熱くなり、鼻の奥がしょっぱくなる。ここは、母の名前が、私より長くこの場所に属している家だ。門扉の内側、靴が二足揃えて置かれている。そのうちの片方は、子ども用。光るシールが踵に貼ってある。雨の日に水を弾くような質感の小さなスニーカー。泥汚れは拭かれ、紐は固結びで短く切ってある。ほどけないように、という気遣い。家の中の誰かの、癖。

 目線を上げると、窓の向こうに小さな子どもがいた。髪は柔らかく、耳の後ろに癖が出ている。おもちゃのスプーンで、空気の中の何かを混ぜている。透明なゼリーか、そこにしか見えない汁気のようなものをすくって、また戻す。すくって、戻す。そのリズムは、鍋の前の手つきを模倣する遊びだと、すぐにわかる。子どもは、誰かの手の動きを正確に真似る天才だ。ソファの上に置かれた写真立てを抱きしめる仕草は、抱かれることに慣れた体の動きだ。ガラス面に頬が当たり、曇る。曇った面の向こうに、笑顔の人。母の笑顔。

 喉の奥が、落ちた。呼吸が間違った方向へ行く。私は塀の影に身を引き、首の後ろに汗が滲むのを感じた。この家に、母の笑顔が、私の知らない笑顔が、額縁の中で呼吸している。笑っている母は、誰に向かって笑っているのか。答えは、窓の中の小さな背中が知っている。

 「あなた、誰?」

 玄関先から声。若い女性の声だった。年下だろう。慎重さよりも正直さが先に立つ響き。私は反射的に頭を下げる挨拶をしてしまい、すぐにそれが余計だったことに気づく。彼女の表情の筋肉が固くなる。警戒が一拍遅れて顔に出たのが、逆に素直に見えた。

 「……道を、間違えて」

 言い訳の短さは、嘘の量を隠し切れない。彼女は目を細め、その奥に怯えを宿しながら、私と塀の間の距離を測っている。身を乗り出しはしない。後ろの気配に敏感だからだ。玄関の影から、小さな男の子が顔を覗かせる。目の下に、涙の跡みたいな黒子。左目の下。見慣れた位置。鏡のなかの自分と同じ場所に、同じ大きさで、同じ形で。

 私の指先が、勝手にそこへ触れようとして止まる。触れてはいけない。目は、すでに触れてしまっている。世界が、二回転した。私は塀の外にいるのに、内側に倒れ込んだようなめまい。母の台所で見た、あのスプーンの軌跡。ジャムの赤が、鍋のふちを濡らして、光と影を交換する瞬間。誰かのために作られた甘さが、誰かの口を通って身体の中に入る、その当たり前の動作の当然さを、私は知らない場所で見せられている。

 「木下さん、どうかしました?」

 近所の家の扉が開き、年配の女性が心配そうに顔を出す。若い女性――表札と同じ苗字で呼ばれたその人は私から視線を外し、「大丈夫です」とすぐに微笑んだ。笑顔は薄いが、練習されている。事情を言葉にしないことに慣れた人の笑い方。私は息を戻すために、いちど視線を地面に落とした。コンクリートに残る、誰かの靴の踵の跡。小さな足跡の隣に、大人の足跡。短い距離を何度も往復している。玄関から台所へ。台所から玄関へ。子どもの靴は踵で止まり、大人の靴はつま先で向きを変える。

 「ごめんなさい、本当に、道を——」

 言いながら、私はもう後ずさっていた。女の人は、なおも私を見ていた。怯えを握りしめたまま、視線だけで玄関の内側へ合図をする。男の子は素直に引っ込んだ。扉の枠から消えるとき、彼の横顔に母の面影が重なった気がした。眉間に寄る皺の位置、下唇の厚み、耳たぶの薄さ。血を分ける、という比喩が現実の重量を持つ瞬間を、私は初めて体で知った。背中に冷たい汗。踵が砂利を踏んで、音がやけに大きく響く。

 逃げるように角を曲がり、曲がりながら、私は振り向かなかった。振り向けば、私はそこで何かを名付けてしまう。名付けると、責任が生まれる。私は責任から遠ざかるために、足を速めた。角を三つ、信号を一つ、踏切を渡る。電車が通り過ぎる風圧が、頬の汗を急いで乾かす。駅の階段を降りる頃には、心臓の音がゆっくりとまともな言葉の形に戻っていた。母は二重生活をしていた。母は、別の家庭を持っていた。言葉にした瞬間、胸の奥の何かが静かに着地した。長い間、空中にぶら下げていた重さが、ようやく地面に触れた安堵。安堵は、罪に似ている。気づいた時点で、もう共犯。

 ホームに立つ。電車の風が、ジャムの匂いを連れてこないはずなのに、私の鼻腔は甘い。苺でも、砂糖でも、レモンでもない、煮詰めた時間の匂い。焦げる手前で火を弱める慎重さの匂い。母が夜の台所でしていたことが、誰かの眠りを守る儀式だった可能性。そう考えると、怒りの温度が数度下がる。私の知らないところで、人として生きていた母。その事実に、私は安心してしまったのだ。母が聖人ではなかった、という安堵。母が、母でありながら、女であり、人であり、弱さをもつ生きものだったという証拠。証拠は、写真立ての中で微笑んでいた。私に向けられた笑顔より、少し柔らかかった。

 電車の窓に映る自分の顔は、他人の顔に見えた。頬の内側を噛んだ跡が、乾いて白くなっている。左目の下の泣きぼくろ。マスカラがわずかに滲んだ黒を、指で押さえる。鏡の中の私と、玄関の影から覗いた彼の顔。どちらにも同じ点がある。点は、線になる。線は、関係を示す。関係には、責任が伴う。さっき逃げた私は、その責任から逃げた。逃げたという言葉は、足音の速さを測るのに便利だ。私は速かった。速さの分だけ、見なかったものがある。

 団地に戻ると、台所の空気が湿っていた。窓を開けると、風が書類の端をめくる。テーブルに広げっぱなしのレシートの束が、薄い音を立てた。カフェ・レナの印字、苺、砂糖、瓶、ガーゼ布。文字は変わらない。意味が変わったのは、私の側だ。私は引き出しから手帳を出し、母の字で書かれた住所のページをもう一度開く。角の折れは、さっきより深く見える。紙の繊維が疲れて、白い骨が見える。人も紙も、角から弱る。

 冷蔵庫の前に立つ。扉の向こうで、機械は同じリズムで息をしている。扉を開ける。瓶の赤。蓋の縁の糖の結晶が、光を小さく反射する。指で撫でると、ざらりとした硬さが残る。私はスプーンの背で、表面の薄皮を割った。膜が破れて、下から新しい甘さが顔を出す。スプーンの先を舌に乗せる。甘さは早く来て、早く引く。遅れてくるのは、微かな苦みと、かすかな酸。ジャムは、真実に似ている。すぐに来てくれるのは、たいてい嘘だ。本当に必要な味は、遅れてくる。待てる人にしか、届かない。

 私は椅子に座り、手帳の向こう側の空気を見つめた。母が「職場の知人の手伝い」と言って出ていった日。木曜日の四時。月初の土曜の午後。駅の向こう側。灰色の平屋。写真立ての中の笑顔。玄関の影から覗く小さな横顔。左目の下の点。点が示すものは、血か、偶然か。偶然は、繰り返さない。繰り返すものを人は家族と呼ぶ。家族という言葉は、安全な箱に似ている。内側にいる人は、外側の寒さを知らない。外側にいる人は、内側の温度を想像するしかない。

 父に、この家のことを話すべきか。口の中で言葉を転がす。父は、どうするだろう。父は怒鳴る人だが、若い女性に怒鳴るだろうか。小さな子どもの前で、怒るだろうか。怒らないとしたら、何をする。沈黙する。沈黙で、家を守る。それは母の方法でもあった。沈黙は、家族の間ではたいてい「優しさ」と呼ばれる。けれど、黙ることは、私を母に似せる。私もまた、嘘を保存し始める。ガラス瓶の中に、意味のある沈黙を流し込み、熱で封をする。封をすると、香りは逃げない。逃げない香りは、長持ちする。長持ちする嘘は、たいてい善意と名前を変える。

 私は携帯を掴んだ。父の番号の上で親指が止まり、そのまま画面が暗くなった。通知はない。誰も、私を呼ばない。冷蔵庫の音だけが、規則正しく私の名前を呼ぶ。沙耶。さ、の後に小さな間。や、の前に吸い込む空気。あの呼び方をする人は、もういない。機械が、代わりに動いている。機械は、裏切らない。だから信じられる。信じられるものが音を立てている間は、人は判断を先延ばしにできる。

 夜、私は台所の灯りを落とし、窓の外を見た。隣のベランダに干された洗濯物が風に揺れる。タオルの端に縫い込まれた名前の刺繍。生活の証拠は、目立たない場所に均一に縫い付けられている。母は、どこに名前を縫い付けていたのだろう。私の家のタオルには、家族の苗字の刺繍が並んでいた。けれど、木下、という糸はどこに。母の旧姓は、ここでは飾りに過ぎなかった。飾りが、いつの間にか表札になった場所が、今日、私の視界に入った。

 眠りに落ちかけた頃、夢を見た。夢の中の台所は二つあった。ひとつは見慣れた我が家。もうひとつは、灰色の平屋の中。どちらにも同じ鍋が置かれ、同じ木べらが回っている。泡が膨らみ、弾け、弱火で均される。片方の鍋から上がる湯気は、私の髪の先を湿らせる。もう片方の鍋の湯気は、私の頬に触れない。離れた場所で同じ手つきが繰り返されるたび、私の胸の中の天秤がわずかに傾く。砂糖を一匙、もう一匙。どちらの鍋に入れるか。入れなかったほうの鍋が、わずかに苦くなる。苦さは、覚悟の味だと誰かが言う。目が覚めても、その言葉だけは消えなかった。

 目覚ましの音より早く目が覚め、私はベッドの上で天井を見ていた。白い天井に薄くひびが走っている。細い線が交わって、小さな星座を作る。線と線が出会う点を数える。数えることは、私を落ち着かせる。数は、私を裏切らない。レシートの束、日付の並び、時間帯の反復。すべては、私をここへ連れてきた。見知らぬ家の前に立たせ、塀の外から中を覗かせ、少年の目の下の点に私の指先を動かしそうにさせた。手は、まだ、伸びない。

 午前中、カフェ・レナに向かった。ガラス越しに棚の赤を眺め、扉を押さずに帰る。ジャムの瓶の肩に並ぶ手書きのラベル。「春いちご」「うらら」「あまおと」。名前は、食べる人の記憶に絡みつくように選んである。誰かの思い出を甘くするための言葉。母は、どんな名前を瓶に書いたのか。あの瓶に、麻衣へ、と書いたとき、母の手は震えたか。震えずに書ける人だった。震えない人の手で、私は育った。

 家に戻り、机に座って、白紙のメモに書いた。「告げない」。次の行に、「確かめる」。二つの言葉は、互いに矛盾しているようで、同じ方向を向いている。私が告げないでいる間に、私は確かめ続ける。その間に、誰かが何かを知り、何かが傷つき、何かが救われるかもしれない。救われるという言葉は、私にはまだ似合わない。私はまだ、誰も救っていない。救うためには、名付ける必要がある。私はまだ、名前を声に出していない。

 午後、父からメッセージ。「夕方、寄る」。私は「いいよ」と返した。いい、という言葉の中の許可は、何に向けられているのか。父を家に入れること。父に嘘を渡さないこと。父から、何ももらわないこと。父が居間の椅子に座り、テーブルに封筒を置いた。「母さんの保険」。数字の並び。二重線の引かれた金額。書類の上を、私の視線が滑る。数字は正しい。正しさは、甘くない。父は冷蔵庫を開け、瓶を見て、蓋に触れずに閉めた。父の指の腹の皮膚は、もう硬い。硬さは、守りの証拠だ。守るものが多い人ほど、皮膚が厚くなる。私はそれを、父の背中に見て育った。

「沙耶。何か、知っているか」

 父は言った。知っている、の中身を言わない問い。私は首を横に振る。嘘だ。振る角度を浅くして、罪の量を減らす。父は目を細め、すぐに目を逸らす。見ると、見なくてはならない。見ないでいることを選ぶのは、家族の知恵だ。父は封筒を揃え、立ち上がった。「用があれば言え」。父が言える限りの優しさ。言えない限りの距離。私は頷き、扉の前まで見送った。廊下に父の靴音が短く響く。音はすぐに遠ざかり、階段を降りていく足音に混ざる。私は扉を閉め、鍵を回した。鍵穴が、呼吸を一度だけ止める。

 夜、冷蔵庫の音が少し低くなった。モーターの切り替えの合間に、私は瓶を奥に押しやった。奥は、冷たい。冷たい場所に置いたものは、長く持つ。長く持つものは、しばしば腐らない代わりに、変質する。甘さの周りに薄い苦みの輪郭が出てくる。輪郭は、真実が近くにいる証拠だ。私は灯りを消し、椅子に座り、目を閉じた。母の笑顔が、写真立ての中で笑い続ける。私の知らない誰かに向けて。私の知らない台所の灯りの下で。

 その笑顔を、許すかどうか。許す、の対象は誰なのか。母をか。自分をか。写真の中の笑顔は、許されることを待っていない。待っていない笑顔に対して、私がすべきことは一つだけだ。覚えておく。覚えている間、私は嘘を一つ少なく持てる。持ちすぎると、肩が凝る。ジャムの瓶を持ち上げるたび、腕がだるくなる。瓶の重みは、砂糖の重みだ。事実の重みは、甘くはない。けれど、持てなくはない。

 「おやすみ」

 私は冷蔵庫に向かって言った。返事はない。機械は眠らない。眠らないものが家に一つあると、人は眠れる。眠りは、明日に渡すための箱だ。箱の中に、今日見たものを折り畳んで入れる。折り目はいつか伸びて、元に戻る。戻るたびに、紙は薄くなる。薄くなった紙は、光を通す。通した光が、台所の床に落ちる。薄い光の上を歩いて、私は寝室へ向かった。扉の前で振り返り、冷蔵庫の奥を思い浮かべる。あの向こうに、もうひとつの夜の台所がある。もうひとつの家族の息。もうひとつの瓶。私はその家の塀の外に立ち続ける。押せない指を持ったまま、押さないことを選択し続ける。選ぶたび、私は母に似る。似るたびに、私の中で何かが静かに煮詰まっていく。焦げないよう、弱火にする。弱火にすることは、今の私の唯一の正しさだと思う。そう思えるうちは、まだ、私も人間でいられる。母が人間だったのと、同じように。私は今日、はじめてそれを安堵と呼び、すぐに、罪悪感へと言い換えた。呼び方を変える自由だけは、まだ私に残っている。


第4話 包丁の音

 古びたファイルの背表紙は、布の糸がところどころ出ていて、指でなぞると引っかかった。母の遺品の段ボールの底に、それは横倒しで眠っていた。私は座卓の上に敷いた古いふきんの上に置いて、ゆっくりと開いた。紙は少し波打ち、ページの端には油染み。色は透明ではなく、年月の黄色が混じって、硬い花びらのような形で固まっている。いちごジャム、マーマレード、アップルコンフィチュール。見慣れた文字。青いインクの、母の筆圧の控えめな線。

 材料の分量、火加減、煮詰める時間。どれも正確で、数字は母の性格をそのまま写していた。けれど、その下、欄外の余白に、小さな文字で書き足された“ひとことメモ”のほうが、やけに目に刺さる。嘘は、塩を振って冷ますと長持ちする。愛情は、焦げる寸前がいちばん香ばしい。謝罪は、熱いうちに瓶詰めする。読めば読むほど、レシピというより、隠しごとの保存方法だとしか思えなかった。文字の角は丸く、皮肉の光は抑えられている。だから余計に、意味が強く残る。

 ページを送る指先に、赤茶色の点がついた。紙の端、親指がかすめたところに、小さな血の跡が固まっている。こすっても取れない。何年前のものだろう。台所は、指先の傷を覚えている。母の手はいつも、指サックの奥で小さく湿っていた。思い出せるかぎり、母の指が痛いと言ったのを聞いたことがない。痛みを皿の下に敷いて、料理の高さを均す人だった。

 “包丁”。文字を追っていると、頭の奥でその単語だけが浮かび上がる。私はふと、引き出しの中から包丁を取り出してみることにした。刃先に映る窓の白、手元の濁った影。柄の木は、私の手には少し太く、母の手には少し細かったのだろう。まな板の上に玉ねぎを置いて、上から押さえ、刃先を入れる。トン。もう一度、トン。刃がまな板に触れる音は、思っていたより乾いていた。トントン、と一定のリズムを刻んでいくと、胸のざわめきが少しだけ整っていく。自分の呼吸が、音に合わせて上下する。音が私を連れ出す。母の横顔の影が、視界の端に静かに立つ。

 切り終えた玉ねぎの匂いが目にしみる。涙が出そうになるが、泣きたいのとは別の水分だ。私は鼻をすする代わりに、包丁を布で拭き、柄の丸みをなぞる。刃の腹に、指の腹が映って、そこに薄い赤が残っている。さっき触れたレシピの血の跡が、私のほうにも移ったのかもしれない。洗えば落ちるはずだ。落とせるうちに落とすものと、落とせないから残るもの。母は、それを見分けていた。私はまだ、混ぜてしまう。

 午後の光が薄くなり、台所の照明の白さが床の目地を強調する頃、私はレシピ帳を閉じた。表紙の布の繊維に、指先の湿気が残る。引き出しに戻そうとして、ふと、またページを開く。最後のほうに、空白のページがいくつかある。余白は、不安に友好的だ。そこに書いていないことを、勝手に読み込ませる余地があるからだ。私はペンを持つ代わりに、包丁を握り直した。刃を空に向ける。光が細く跳ねて、すぐに止まる。音なき音。耳の奥に、昼間刻んだリズムが残っている。トントン。トン。たしかに、少し落ち着く。危うい方法で、自分を整える。

 その夜、眠りの浅い水面に立っているような寝入り方をした。夢は、台所から始まった。真夜中の台所。窓の外は墨の色で、内側にだけ光がある。鍋。赤。泡が膨らみ、はじけ、薄い膜が張り直される。蒸気が白く上がり、天井の四角い蛍光灯に小さな雫がふれる。母は鍋の前に立っている。背中はまっすぐで、腰だけがわずかに落ちている。木べらの先が描く円は一定で、端に寄る泡を静かに中心に戻し続けている。母は振り返らない。振り返らないことが、私に向けた優しさの形だった時期があったのかもしれない。今は、私から目を逸らすための防御に見える。

 「あなたも、これを守りなさい」

 声は、振り返らずに出た。鍋の湯気の向こうから、私の名を呼ばない命令。守る、という言葉は、約束と嘘の間に置かれる。何を、と喉が動くのに、声が出ない。母は言葉を補わない。鍋の中に、私の問いは落ちて、泡に紛れる。泡の破裂音が耳の内側を叩き、視界の端から黒が滲む。暗転。音だけが残る。トン、トン。包丁がまな板を叩く音。鍋のそばで、誰かが刻んでいる。母か、私か、どちらともつかない影が、リズムだけを残して揺れる。

 目が覚めた。薄明かりの中、天井の角の影がわずかに揺れている。心臓は静かで、呼吸は浅い。布団の外に手を出すと、空気が冷たい。台所のほうに気配があるわけではないのに、私は起き上がってしまう。流し台の前に立ち、手元を見る。包丁が、ふきんの上に伏せて置かれていた。刃の一部に赤い染み。ジャムの色でも、玉ねぎの汁でもない、濃い赤。触ると、乾いている。指先に移らない。夢の中の泡が、現実に飛び散ったのだろうか。そんなことはありえない。ありえないとわかっているものほど、現実の中心に入り込んでくる。私は水を出し、刃を洗い、ふきんで拭いた。布に赤は移らなかった。残るべき跡は、残り続ける。

 朝の光は薄く、家の匂いは夜よりも軽い。パンを焼くのをやめ、冷蔵庫を開ける。赤い瓶は、表面の皮が薄く沈んで、波の形が固定されている。母のメモが、瓶の底でふやけながら、まだ読める。「また作ってあげるね」。今日は、甘さを舐める気分ではない。私は瓶を奥へ押し、扉を閉めた。閉める音が、部屋の空気をわずかに振るわせる。冷蔵庫のモーターが短く息を吸い、唸り始める。いつもの音。安心する音。倉庫の中で動き続ける、小さな正しさ。

 私は着替えをして、外に出た。足は、決めた道に迷わず向いた。二駅先の、灰色の平屋。門柱の横のミントは、昨日よりも匂いが強い。季節が一日分進むごとに、葉の縁がわずかに濃くなる。インターホンには触れない。塀の外の位置は、私のために用意された立ち位置のように、すでに私の足形を覚えている。窓のレース越しに、動く影。玄関の扉が開く音。小さな男の子が出てきて、段差のところに腰を下ろす。手に、スプーン。左手。右手は、ガラスの小瓶を握っている。蓋にテープ。瓶の肩に、油性ペンの丸いひらがな。「春いちご」。

 男の子はテープをはがすのに苦労して、小さな歯で端を噛んだ。蓋を母親が開けてやる。玄関の内側の影。若い女性の声が、やや上ずっている。「少しだけね」。男の子はスプーンの先で赤をすくい、舌に乗せた。顔がほどける。「これ、お母さんの味だよ」。無邪気な声。甘さは、記憶をまっすぐつなぐ。彼に罪はない。彼の母親にも、まだ罪の影ははっきりとは落ちていない。影を濃くしているのは、塀の外に立つ私だ。私が持っているのは、ジャムよりも粘るもの。嫉妬と、正義と、名付け損ねた甘え。

 私はポケットの中のスマホを取り出した。手の中の板が、異様に重い。カメラアプリのレンズが、現実の光を四角い窓に整える。音は消してある。私は画面を指で拡大し、瓶のラベルと、男の子の笑顔と、玄関の影の奥の女性の横顔を、フレームの中に収めた。シャッターを切る。震えはなかった。もう一枚。別の角度。指が滑る。三枚目。撮っている最中、私は自分を上から見るもうひとつの目を意識していた。証拠でもあり、記録でもあり、ある種の復讐でもある。言葉は、私の行動を薄めたり、濃くしたりするための調味料だ。私は今、どの比率で混ぜているのか。答えは、シャッター音のない無音の中に沈む。

 「すみません」

 若い女性の声が、私の耳に届いた。彼女はこちらを見ていない。男の子の指先から、ジャムが垂れたのを拭いている。「こぼれるよ、気をつけて」。私は背中を壁に押し当て、スマホを下に向けた。ここに立っている私は、もう塀の外にいるだけの人間ではない。境界線を足でなぞり、その上に体重をかけている。私の靴の底が、線を少し削る。削れた粉は、風に乗って、どこかへ落ちる。落ちた先が、誰かの喉になることだって、ある。

 家までの道を、私は早足で戻った。途中の横断歩道で、信号が赤のまま長く感じられた。青にならない時間は、思考に余白を増やす。余白は、ときに毒だ。私は胸ポケットのスマホを、握り直した。カメラロールに並んだ三つの四角。指で開く。笑顔は四角の中でも笑っている。私は消去のアイコンに触れ、離し、また触れた。消す、という行為は、私にとってまだ強すぎる。消せないということが、すでに選択だとわかっているのに、指は逡巡を装っている。

 家に着いて玄関の鍵を回すと、いつもの喉の鳴る音がしなかった。鍵穴が、空気を取り逃がすような間抜けな静けさを返す。胸の奥がきゅっと縮む。台所に入る。冷蔵庫の前で立ち止まる。耳を澄ます。……音が、しない。ブーン、が、ない。電源が落ちているのでも、壊れているのでもない。電気は点き、灯りはいつもどおり白い。けれど、唸りがない。静寂は、不祥事の匂いがする。何かが止まっている。止まるべきではないものが。

 私は冷蔵庫の扉に手をかけ、開けた。中の冷気はいつもどおり冷たく、瓶はいつもどおり透明だ。手を伸ばして瓶の肩に触れる。表面は冷たい。蓋はしっかり閉まっている。扉を閉める。耳を澄ます。やはり、音は戻らない。代わりに、頭の奥で、トントン、という包丁の音が鳴り始めた。音は私の中から鳴っている。誰かが台所で刻んでいるのではない。私の手が、見えないまな板の上で、何かを小さく刻んでいる。刻む対象は、名前のないもの。言い訳や、正しさや、慰めの破片。薄く薄くして、混ぜれば消えると信じたい種類のもの。

 私はシンクの前に立ち、包丁を取り出した。刃の表面には、もう赤い跡はない。柄の木が、私の掌に吸いつく。まな板の上に、何も置かないで、刃先だけを音にした。トン。トン。まな板の繊維が、刃を受けて小さく弾む。音に合わせて、心臓の拍が整っていく。恐ろしいほど、容易く。包丁の音は、私を管理する。リズムは、罪悪感を整頓する。整頓された罪悪感は、居心地が良い。居心地の良さは、たぶん毒だ。

 レシピ帳を開く。《嘘は、塩を振って冷ますと長持ちする》。私は塩をひとつまみ、指でつまんだ。白い粒が、指の腹に乗る。流し台に落とす。ぱらぱらと、音がする。音は弱く、すぐに消える。《愛情は、焦げる寸前がいちばん香ばしい》。母は、焦げる手前を知っていた。焦がさなかった人だった。私は、焦がしたことがある。受験の冬、ココアを鍋で温めていたら、下がこびりついた。母は笑って、「鍋の底は、誰にも見せないから大丈夫」と言った。誰にも見せない底。今日、私は、その底を撮った。誰にも見せないはずの底を、四角い窓に収めた。

 スマホの画面をもう一度ひらく。消す、か、残す、か。証拠、という名の安堵。記録、という名の暴力。復讐、という名の救い。私はどれを選ぶのか。指は、消去の上に止まる。長押しすれば、四角が震え、×が現れる。震えるのは、写真ではなく、私のほうだ。私は指を離した。消さない。残す。残して、いつか、誰かに見せるのか。見せないのか。決めないと決めることが、今は唯一、私をまっすぐ立たせる。

 夜が深くなる。台所の灯りを消して、椅子に座る。窓の外の音が遠い。冷蔵庫の不在の音が、部屋を満たす。代わりに響くのは、包丁の音だ。トントン。トントン。私の頭の中の台所で、私は刻み続ける。何を。母の罪か、私の罪か、その境目か。境目は、刃でしか作れない。柔らかなものは、境界を曖昧にする。曖昧さは、時に優しさに化ける。優しさという名のものに、私は何度救われ、何度縛られてきただろう。

 ふと、冷蔵庫の上に置いたラジオのダイヤルを回した。古い機械は、雑音を挟みながら局を探す。ノイズは海鳴りに似ている。波の音のような雑音の向こうから、深夜番組の落ち着いた声が流れ出す。誰かが誰かに宛てた手紙を朗読している。言葉は、瓶詰めに似ている。届くまでの時間に、意味が変質する。読み手の息の速さで、甘さが変わる。私はラジオを消し、代わりに水をひと口飲んだ。口の中の渇きは、誰の言葉でも癒えない。

 睡魔は、包丁の音の合間を縫ってやってきた。椅子でうとうとしながら、私はまた台所に立っている夢を見た。今度は私が鍋の前にいる。赤は、私の手元で膨らみ、はじけ、また膨らむ。木べらの先で円を描きながら、私は背中で誰かの視線を感じる。振り向かない。振り向かないように、肩甲骨の間の筋肉を意識して固める。背中に、言葉が置かれる。「あなたも、これを守りなさい」。母の声の高さより、少し低い。私の声かもしれない。鍋の底に、焦げた線が一本ついた。私は火を弱める。焦げは、混ぜれば消える。

 目が覚めると、明け方の色が窓の向こうに薄く広がっていた。冷蔵庫の唸りは、まだ戻っていない。静けさは、眠気と同じ温度で、体をゆっくりと冷やす。私は立ち上がり、包丁を流しに戻した。刃を布で包み、引き出しにしまう。音はしない。引き出しのレールの油は、まだ生きている。母のやり方だ。見えないところの滑らかさを保つために、時間を使う。私は冷蔵庫の前に立ち、扉に額をそっと当てた。冷たさが、皮膚の薄い部分にしみる。

 母の罪は、私の手に移った。そう思うと、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。渡された重さは、持ち方を選べる。肩で持つか、胸で抱くか、腰で支えるか。昨日の私は、肩で持って走った。今日は、胸に抱いて立つ。明日は、腰に落として座るかもしれない。持ち方を変える自由だけは、まだある。その自由に、包丁の音が寄り添ってくる。トントン。トン。音は私に呼吸を思い出させる。呼吸は、私に“生きている”を思い出させる。生きている限り、私は選択し続ける。選ぶたび、切り分けるたび、境界が増える。境界の数だけ、瓶が増える。瓶の数だけ、奥が増える。奥の数だけ、音が増える。いつか、全部を並べて、誰かと一緒に開けてみる日が来るのか。来ないのか。まだわからない。

 私は台所の電気を点け、レシピ帳の空白のページを開いた。ペン先が紙に触れた。何かを書こうとして、やめた。やめることを書いた。小さな字で、隅に。「今日、私は消さなかった」。その下に、「今日、私は撮った」。さらに、その下に。「今日、私は守らなかったし、守った」。ペンのインクが紙に染みる。染みた跡は、指でこすっても消えない。私はページを閉じ、表紙に手のひらを置いた。布の繊維が、指紋の谷をやさしく撫でる。

 台所の奥で、微かに音がした気がした。耳を澄ます。……何もない。ただ、私の中で、包丁の音が続いている。リズムは、ひとつ前より少しゆっくり。焦げないように。焦がして香りを立てないように。香りに酔わないように。私は呼吸を合わせ、椅子に座りなおした。私は今日も、台所にいる。母の代わりに、ではない。私のために。私の罪の持ち方を、私の台所で練習するために。音だけが、変わらず、私のそばで正確だ。


第5話 真夜中の台所


 午前二時。

 団地の夜は、廊下の非常灯だけが息をしている。窓の外の風は、ベランダの竿を一度だけ鳴らして、すぐに遠ざかった。部屋の中では、冷蔵庫の灯りだけが小さな舞台を作っている。四角い白のなかに、瓶の肩が淡く光る。私は電気を点けないまま、シンクの上に鍋を置いた。分厚い底に、苺の赤を落とす。ヘタを取った断面が、月の影みたいに湿っている。砂糖を量って、ためらいのない手つきで降らせた。白い粒は、赤の上で積雪のように一瞬だけ形を保ち、すぐに溶けて消える。

 点火。ガスの青い舌が鍋の底を舐める。私は木べらを握り、最初の一巡をゆっくりと描いた。果肉が刃のように柔らかくなり、甘さの予告が湯気に混じる。鼻腔の奥に、母の声が沈殿していた。


 「焦らないで。焦がす前に、ひと息いれるのよ」


 声は、鍋の内壁から返ってくる。火口の金属が温まり、キンと小さく鳴く。私は母の言葉どおりに、ひと息いれたふりをして、呼吸の深さを確認する。吸って、止めて、吐く。甘い匂いが肺のふちを滑っていく。目の前の作業は、罪を煮詰める儀式に似ている。火加減を誤れば、泡は破裂し、甘さは焦げに転じる。母の人生も、ああやって鍋の縁を超えかけていたのだろう。家庭と家庭のあいだで、母と女のあいだで、湯気の向こうに置き忘れた名前の数だけ、火加減が難しくなっていったはずだ。


 泡の粒が増えていく。最初は透明で、やがて乳白に濁り、音を持ちはじめる。ぷつ、ぷつ、ぷつ。破裂するたびに、過去の断片が立ち上がる。木曜日の四時の白い欄。駅向こうのレシート。ラベルの「麻衣へ」。灰色の平屋の窓辺のレース。玄関の影から覗く小さな横顔。左目の下の点。点は、線になろうとして、まだ名前に届かない。私は木べらの軌跡を小さくして、泡の端を撫でる。鍋の中心は、私の知らない温度で赤く燃えていた。


 テーブルの上には、古いレシピ帳。ページの端の油染みに、今夜の蒸気が薄く溶けこむ。《嘘は、塩を振って冷ますと長持ちする》。私は指でページを押さえ、文字の上に影を落とした。塩を振れば、甘さは締まり、表面は早く固まる。固まった表面の下に、やわらかいものが保存される。指先で割らないかぎり、内側は内側のままだ。母は、それを知っていた。私は、まだ探り当てただけだ。

 火を弱める。鍋の泡が高さを失い、音が静かになる。少しだけ安堵が肩に乗る。安堵に体重をかけた瞬間、スマホが震えた。ガスの炎が揺れて、横腹にひやりとした汗が走る。ディスプレイに、見覚えのない番号。午前二時の知らない番号は、たいてい良い知らせではない。押し黙る一拍を、自分の呼吸で埋める。受話ボタンに触れる。

 「……はい」

 小さな息が、耳の奥に落ちてきた。壁の向こうにいるみたいな弱い声。

 「……ママ?」

 空気が逆流した。喉が音を拒む。耳から入った音の重さが、体の芯に沈む。「ママ」と呼ばれる自分を、体が拒否しないで受け入れてしまう。それが、恐ろしかった。声は間違えない。あの家で見た少年の声だ。

 どうして、この番号を。なぜ、今。問いの形にするより先に、理由は滑り込んでくる。私のポケットの中にあるのは、母のスマホだ。私はSIMを差し替え、自分の端末に母の番号を移した。端末も番号も名前も、私の手元に来ても、「登録名」は向こう側で書き換わっていない。少年の記憶の中で、この番号はまだ、母の番号のままなのだ。


 「……起きてたの?」

 かろうじて出した私の声は、鍋の湯気に紛れた。

 「ねえ、また作ってくれる?」

 また。単語が、木べらの柄の節に引っかかったみたいに、固い。私は言葉を探した。探して、見つからないふりをした。母が残した罪の続きを、自分が完遂してしまう予感がしたからだ。私が「うん」と言えば、輪は閉じる。閉じた輪は、次の輪を呼ぶ。甘さは、鎖の形で受け渡される。

 沈黙の間に、鍋の中の苺が泡を吹いた。表面の張力が破れ、真っ赤な液体が鍋の縁を乗り越えた。縁の外の世界に、熱の赤がしぶく。ガス台の上でじり、と音がして、糖が焦げる匂いが刺すように立つ。

 私は木べらを置き、慌てて火を弱めた。遅い。溢れた赤が、蛇口まで細い線を引いて、床に滴り落ちた。足の甲に一滴、弾ける。指先で拭おうとして、逆に触れてしまう。じんとした痛みが現実を引き戻す。現実の痛みは、夢の台詞よりも言葉をくれる。私はスマホを耳に当て直し、言った。


 「……うん。……また作るよ」

 声が、私のものになっていくのがわかった。涙が先にこぼれ、笑いが遅れて追いつく。笑っている自分に驚き、泣いている自分にうなずく。母の罪をなぞるように、私は母になっていた。なぞり方は拙く、線は歪んでいる。それでも、なぞりはなぞりだ。

 「よかった」

 電話の向こうで、小さな吐息が軽くなる。「ねえ、ぼく、ちゃんと待てるよ」

 待つ、という動詞の素直さが、胸を裂く。待つことは、善いことだと教わってきた。けれど今夜だけは、待つことが誰かの罪を長持ちさせる。私は「偉いね」と言わず、「眠れる?」と訊いた。

 「うん。ママの声、ちょっと違う」

 「風邪、ひいてるのかも」

 「ふうん。おやすみ」

 通話が切れる。耳の中に残響。小さな「おやすみ」が、鍋の底の焦げ目に薄くしみこむ。私は火を弱め、鍋の縁をもう一度拭った。冷水をぬらしたふきんで床の赤を押さえる。押さえるたびに、布の繊維が染みて、柄が暗くなる。ふきんをめくると、薄い輪郭が床に残る。日が昇っても、きっと残る。

 ふと、笑ってしまった。泣き笑いという便利な言葉に逃げる前に、笑いのほうが先だった。笑う自分を、夜の冷房の風が冷やす。私は鍋に向き直り、木べらを握って、円を描き続けた。


 夜が、もう一段階深くなる。外の廊下で、誰かの足音がひとつだけ鳴って、止む。台所は音を覚える場所だ。包丁の音、蛇口の音、火の音、瓶の蓋の金属音。私は包丁の音が無いことに気づく。無いのに、頭の奥では鳴っている。トントン。トントン。誰も刻んでいないのに、刻む音だけが続く。音は、私の体のなかで罪悪感を均質にする。微細な塊を細かくして、混ぜやすくする。混ぜたら、消えるだろうか。消えない。混ぜたものは、味を変えるだけだ。

 泡の高さが落ち、赤の粘度が増す。木べらの抵抗が少し重くなり、湯気の匂いが子どもの頃の冬の午後に似てくる。焦がす前に火を止める。鍋を濡れ布巾の上に移し替える。静かな音。室温が赤から熱を引きはがしていく。私は息を吐き、シンクの水を細く出した。指先を冷やす。皮膚の熱が薄まると、心の熱も少し引く。

 冷めるまでの時間、私はテーブルに手を置いた。母のレシピ帳は、開いたまま眠っている。余白に、私の字で小さく書く。「午前二時。電話。『また作ってくれる?』」。それだけ。「うん」とは書かない。書いてしまうと、私のうんが紙に保存され、私の口から離れてしまうからだ。保存された言葉は、言った本人の自由を奪う。私は、私の自由の量を、今は減らしたくない。


 夜明け前の色が、窓の外に滲む。鍋の縁に触れると、温度が人肌に近づいていた。私は用意していた瓶を消毒し、布巾の上で水気を切る。漏斗を置き、赤を流し込む。表面張力がわずかに持ち上がり、瓶の肩を越える前にすっと落ちる。瓶のガラスの中で、夜が沈んでいく。空気の泡がいくつか上がって、動かなくなる。最後に、親指の腹ほどの空隙を残して蓋を閉め、逆さにする。逆さにした赤の表面に、白い電球がひとつ歪んで映る。

 ラベルを切る。ペンを持つ。手が震える。震えのせいにしないために、机に肘をつけた。ひらがなで、ゆっくり書く。

 「悠斗へ」。

 書いて、初めて、名前が私の中に入ってきた。呼んだときの口のかたちが、ペンの運びに似る。名づけることは、刃に似ている。関係に輪郭線を入れ、境目を作る。境目があるから、守ることができる。境目があるから、傷つけられる。

 その瞬間、理解が落ちた。人は、罪を断ち切ることはできない。断ち切ったと信じる形で、別の場所から出てくる。形を変えて受け継がれる。母から娘へ。娘から、また次の誰かへ。私のラベルの文字は、母の最後のひとことメモに似ていない。似ていないことが、弱さの証拠で、救いの証でもある。


 朝が、台所に入ってくる。東の窓から細い光が差し、砂糖の粒がきらきらと光る。床に落ちた赤い染みは、夜よりも生々しく見えた。血のように、そこに残っている。拭えば薄くなるが、完全には消えない。消えない跡は、手順を変えることで薄まっていくのだろう。けれど今は、残しておく。残して、自分の選択の位置を確かめるために。

 私は瓶を冷蔵庫の奥に置いた。母の瓶の隣。肩が触れない距離に並べる。扉を閉める。ブーン……。昨夜止まっていた唸りが、何事もなかったように戻っている。機械は、夜の騒ぎを知らない。知らないものが同じ速度で働き続けてくれるから、人は朝を迎えられる。

 シンクに立つと、遠くで包丁の音がした気がした。隣の部屋か、誰かの家か。違う。耳の奥だ。トントン。トン。母の台所から抜け出した音ではない。私が、私の台所で鳴らしている音だ。私は水を止め、まな板の木目を撫でる。指先の腹に、凹凸が移る。刃を入れれば、音が立つ。音が立てば、呼吸が揃う。呼吸が揃えば、震えが減る。私は今日も、刃を入れる。何かを細かくするためにではなく、境目を確かめるために。私の中で、母の罪が、私の罪へと形を変えていく。

 向こうの家の窓辺に、朝の影が動いた。私はカーテンの隙間に目を細めた。灰色の平屋の屋根の線が遠くにかすむ。ここからは、誰の顔も見えない。見えない距離が、いまはちょうどいい。私は椅子に腰を下ろし、ラベルの乾きを待ちながら、スマホの写真アプリを開いた。昨夜の四角が三つ。指を置く。長押し。震える小さな×。私は消さなかった。残したまま、画面を閉じた。残しておくことは、私の卑怯であり、私の覚悟だ。

 冷蔵庫が、小さく息をついた。ブーン……という唸りに、母の笑い声が混じって聞こえた気がした。笑いは、責めるためではない。私の選んだやり方が、母のやり方と違っていても、台所という場所は人を責めない。火と水と塩と砂糖。四つのものは、事情の違いに鈍感でいてくれる。鈍感なものの側に立つと、人は自分の正しさを少し疑える。私は、疑いを持ったまま瓶に触れた。ガラス越しの赤が、朝の光で少し明るく見える。

 私は、小さく名前を呼んでみた。

 「悠斗」

 声は、思っていたより落ち着いていた。落ち着いた声は、甘さを薄める。薄まった甘さは、長く残る。残っている間に、私は私の罪の持ち方を覚える。母が覚えていた持ち方とは、違う形で。違う形を選ぶ自由だけが、私に残された唯一の遺産かもしれない。


(了)

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