001:龍ヶ棲町
僧が案内人かと思いきや、消えてしまったのでは関係者という線も消える。
雄大な自然を前にした恩恵か、若干ながら感情も戻りつつあったので、わずかな危機感と、まぁそれでもいいやという自暴自棄を覚えた。どちらかといえば後者が大半を占めたので、焦りはすぐに消えた。
案内人が来なくてもどうでもいい。足を進める。道のりに関してはなにも聞いていないのだし。諦観の域にあった意識が、また深く沈んでいく感覚があった。
車道沿いを歩く。手元に時計がないのでどれだけ歩き続けたかわからない。
常に見えていた線路が消えた。どうやら無意識のうちに道を逸れて、山の斜面の獣道に入ったらしい。深い霧が目の前どころか全方位を囲っていた。
それでも構わない。この霧が、俺をどこかに連れて行ってくれるような予感があった。
厳然としていて、それでいて優しく体を包み込む気体に触れながら斜面を登る。すると、いきなり硬質な感触を靴越しに捉えた。
アスファルトだと理解するまで数秒もかからない。もしかしたら直線に進んだ影響で、迂回するような大きなカーブをしていた公道をショートカットしたのかもしれない。
沈殿し始める感情は新たな発見にさえ動かない。
いや、少しだけ動いた。
川だ。電車に乗っている際、車窓から何度も見えた。渡良瀬川。日本がいくつも有する巨大な川、一級河川のひとつ。
上流から流れるそれは支流であり、下流に届くと───記憶にはないが、どこかにある大きな川と合流するとか授業で習った。試験には出なかった。
川がどうしても見たかった。車道を横断して、対面側に移る。あわよくば、そのまま───
「辰くん! 玖頸、辰くん!」
「え」
俺の名を力の限り叫ぶ男の声により、ガードレール手前で立ち止まる。
このフルネームを久々に呼ばれた気がした。
なにしろ高校に入るまで誰とも会う機会がなかったし、両親からは「おい」とか「そこの」とかしか呼ばれた記憶しかない。
濃霧の向こうから必死の形相で走ってきた男は、見慣れない服装をしていた。制服やユニフォーム、スーツといったものなどではない。とはいえ、ラフであるとはとてもではないが呼べない。
テレビでしか見たことがない、神職を連想させるような歴史を思わせる重工な装備を纏い、えっちらおっちらと危なげに走るものだから、つい凝視してしまう。
「い、いやぁ………参ったよ! まさか単独でこんなところまで来てしまえるなんてね! い、いや。責めているわけではないんだ。遅刻してしまった僕がすべて悪いのだからね。それにしても流石は渡良瀬家の直系というべきかな。ここはとてもではないけどひとりで来れる場所ではないからね。渡良瀬家の血が導いてくれたのかな?」
この神主のような男は俺がなにも言っていないのにどかどかと喋り続ける。笑い続けているのに息を吸っていない。どういう肺活量をしているのだか。
「あ、あの」
「ああ、すまないね。僕は水面。見てのとおり神主をしているんだ。今回は神音さん………辰くんのお祖母さんに頼まれて、駅まで迎えに行こうとしたのだけど………いやぁ、面目ない。急用が入ってしまってね。暴れん坊がいたものだから大人しくさせて来たんだよ。お陰で電車の時間に間に合わなかった。本当にごめんねぇ。ひとりで心細かっただろう?」
「………いえ」
「あ、そう? ならいいのだけど。それにしても勇気があるねぇ。あの霧のなかを一直線に進んでくるのだから。大抵の人間は、混乱して後戻りするはずなのに。でも手間が省けたよ。すごいねぇ。もう町の入り口まで来てしまったのだから」
「入り口?」
俺にはこの濃霧の向こう側になにがあるかは見えない。地元民でも目視できなければ距離感を測ろうにも苦労するはずが、この水面という男にはまるで見えているようだった。
「さぁ行こう! 僕の手を握っているんだよ? そうすれば安全だからね」
この中年の男は遠慮がない。相手が潔癖症だったりとか、考えないのだろう。俺は別にそういう嫌悪感など抱かないから、いきなり手を握られても拒否しなかった。
手を引かれて歩き出すと、水面の言うとおりそこは入り口だった。濃霧が嘘のようにパッと開ける。瞬時に消えてしまった。背後を見ても、もうそこには俺が来た道しかない。
「ようこそ、玖頸辰くん! 龍ヶ棲町へ!」
鳥居のような建造物を潜った先に待ち受けていたのは、俺が小さい頃の記憶を再現した田舎の風景───ではあったのだけど、感情の起伏が低下してしまった俺にとってでも絶句してしまうような、非現実的風景が広がっていた。
水面がオーバー気味に片腕で示す龍ヶ棲町は、なんというかその名のとおりの町だった。
龍が、棲んでいる。
茜がかった空は都心ではまずお目にかかれないほど開けて、形容しきれぬ解放感を得られる。
大地には田畑が広がり、小川はせせらぎを奏で、それに沿うように子供たちが走って遊んでいる。大人たちは農具を抱えて納屋に収納し、子供たちに帰宅を促す。
そして当然であるかのように、上空の龍にも声をかけた。
龍たちはこれも当然であるかのように人間に答えを返し、はしゃぐ子供たちに合流する。
「なんっだ………こりゃ………夢?」
まだ電車のなかで見た悪夢が続いていたのだろうか。
そう。夢としか思えない。龍とは空想上の生物だ。中国から伝わり、日本では古来から独自の伝説を築き上げた霊獣である。
それが、これはどうしたことだろう。
龍は上空を泳いでいた。五月初旬に各家庭で飾られる鯉のぼりよろしく、ただ空を泳ぐ龍はお父さんお母さん子供たち、といったラインナップでは済まされない。
これはどこかで見たことがあるなと思えば、テレビで見た海のなかだ。あるいは水族館。水中を群泳する魚とでも称しようか。途中で群れを解散しては遊泳する個体もいる。白や青を基本とした綺麗な燐光が反射して、幻想的な空間を作っていた。
「あ、あー………そういえば辰くん。龍は見たこと、ないというか………もしかして、知らない?」
「空想上の生物ってことくらいしか………」
「あちゃー………やっちゃった」
あまりの衝撃に、ギギギッと鈍くなった首関節を曲げて水面を見る。
独自のルールでもあって、俺がそれに反しでもしてしまったのだろうか。
だが幸い、俺の過失ではないらしく。水面は右手で顔を覆って、天を仰いでいた。失態に苦悩するかのように。
「ごめんねぇ。説明しておくべきだったね。僕はてっきり当主様がすでにご説明されているか、小さい頃から知っているとばかり………」
「なにか不都合なことでもあったんですか?」
「そうじゃないんだけど………う、うん。こうなったら辰くん。きみに頼みたいことがあるんだ。これから先、当主様のご自宅に着くまで、大きな声をあげてはいけないよ? 龍を驚かせてしまうからね。僕は立場上、きみを守ることが義務なのだけど、龍族ならともかく龍が来てしまっては相手にならないからねぇ」
随分と不穏なことを言ってくれる。
龍族と龍の違いとやらが気になるが、今は衝撃の連続で声を出せそうにない。水面には首肯で示し、龍ヶ棲町の入り口から真っ直ぐに伸びる、タイルで補装された道を歩いた。
進めば進むほど、周囲の目が俺に集中する。
畑では農業に携わる人間から。田畑を抜けた先にある商店街では買い物帰りの主婦たちから。仕事帰りのサラリーマンから。学校帰りの子供から。
なんとも居心地が悪い。敵意は感じないが善意もない。
まるで、俺が両親から───いや、両親だったふたりから押された烙印の影響で、蔑むような。
また胃がキリキリする。軽く吐き気を覚え、そして、
龍ヶ棲町は、最初は龍我居町という名前にしようと考えていたのですが、あまりにも無骨すぎてやめました。龍と俺が居るよ。という意味だったのですが。
それよりもオシャレな感じがほしくて、龍が棲む町のままにしてみました。
プロローグでもあったようにわたらせ渓谷鉄道の途中で下車しましたので、渡良瀬川上流沿い付近にある秘境と考えてくださればと思います。
さて。更新はまだまだ続きますよ!
やっと始まったばかりですが、「面白そう」と感じていただけたら応援なりブックマークなり☆を存分に抉ってくだされば、作者は喜んでまだまだ大量更新を続けることでしょう!