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逃げるということ


 島姫への投票が始まった。

 雪花は正直なところ誰にも投票したくなかった。

 しかし、投票しない、誰の名前も書かずに投票箱に入れる、という選択肢は存在しない。

 そんなことをすればすぐにバレて、雪花が島のあり方に批判的な考えを持っていることもバレてしまう。


 雪花は投票用の札に、陽奈梨の名前を書いて箱に入れた。

 一票の重みを、雪花は五年前に体感してしまっている。

 恐怖で身体が震えそうになるのを、雪花は必死で堪えた。

 周りの大人たちがいつもと変わらぬ様子で投票している姿に、怖気が走った。


 夜の七時になると、再び候補者の娘たちが仮設ステージに上がった。

 そこで村長から、今回の島姫が発表される。


「今回の島姫に選ばれたのは、陽奈梨」


 緊張した面持ちでステージに立っていた陽奈梨だが、名前を呼ばれると表情がぱっと明るくなった。

 山神様へ捧げる祈りの舞に使用する、島に代々伝わる扇が、村長から陽奈梨に手渡される。

 陽奈梨は扇をそっと胸に抱き、後ろの方からステージを見ていた雪花を見つめ、太陽のような笑みを浮かべた。


 陽奈梨はこれから山の麓にある祈り小屋に移動し、太陽が昇るまで祈りの舞を踊り続けなければならない。

 島の老人たちに連れられ、祈り小屋へ向かう陽奈梨の後ろ姿を見届けると、雪花はふいに後ろから声をかけられる。

 振り向くと、そこには泣き出しそうな顔をした芽衣子が立っていた。


「雪くん」

「芽衣子…………お疲れ様」

「うん、ありがとう。ダメだったけどね」


 島姫になって、雪くんに意識してもらいたかったなぁ。

 そう呟く芽衣子に、雪花は思わず声を上げそうになった。


 芽衣子、違うんだ。

 島姫はそんなにいいものじゃない。

 俺に意識してもらいたいだなんて、そんな理由で目指すようなものじゃないんだ。


 まだ成人の儀を受けていない芽衣子は、陽奈梨と同じく、島姫の本当の意味を知らない。

 きっと芽衣子も、島姫がどういう存在かを知れば、自分が島姫に選ばれなくてよかった、と思うはずだ。


 でもそれを今伝えることはできない。

 何も言葉を見つけることができない雪花に、芽衣子は悲しそうな表情で問いかける。


「雪くんは、陽奈梨と一緒に本島に行くの?」

「…………それは、」

「ううん、訊き方を変えるね。雪くんは、陽奈梨と結婚するの?」


 想像していなかった質問に、雪花は目を見開いた。

 間の抜けた表情で固まる雪花に、芽衣子は言葉を続ける。


「陽奈梨と結婚する気なら分かるよ。でもそうじゃないなら、本島にまで着いていかなくていいじゃない」


 芽衣子は、雪花が陽奈梨と共に本島に行ってしまう、と確信しているようだった。

 そして雪花のことを止めようとしている。

 雪花のことが、好きだからだ。


 芽衣子の気持ちが痛いほどに分かるから、苦しかった。

 この恋が叶わなくても、そばにいたい。

 願わくばすぐ近くで、その笑顔を見守っていたい。

 芽衣子もそう思ってくれているのかもしれない。


 雪花は唇を強く噛み、芽衣子に優しい口調で呼びかけた。


「俺がどんなに陽奈梨を好きでも、陽奈梨は俺を選ばない。でも…………それでも、そばで陽奈梨を守りたいんだ」


 芽衣子はそれ以上何も言わなかった。

 ごめんな、と心の中で謝って、雪花は二重山へ向かった。



 島の男たちは二重山に入り、昼間のうちに飾りつけたちょうちんに火を灯していく。

 山の中にたくさんあるちょうちんを全て灯すと、昼間のように明るくなるのだ。

 神慰撫祭の夜は、山神様に祈りの舞がちゃんと見えるように、山を明るくする、というのが習わしだった。


 二重島の島民はそんなに多くない。

 女と子どもと老人が夜の山に足を踏み入れるのは危険なので、明かりを灯すのは若い男の役目だ。


 成人の儀を終えてから一年半。

 雪花はこのときのために、毎日険しい山道をランニングして、トレーニングを続けてきた。

 どんな仕事をするにも体力は必要だろ、と大人受けの良さそうな理由を話せば、感心されることはあれど疑われることはなかった。


 最初は息が切れてばかりで、ろくに走ることもできなかった。

 しかし一年半も続ければ、山の中を自由に駆け回ることができるようになった。

 ついでに二重山の細かい地理もかなり把握することができたので、トレーニングは無駄ではなかったのだろう。


 一つ、また一つとちょうちんに火を灯していく。

 山頂近くのちょうちんのところに来て、辺りを見回すと、すでにほとんどの明かりが灯っているようだった。


 雪花はうるさく鼓動する心臓の音を聞きながら、山中の至るところに隠していた灯油を回収していく。

 方角をよく確認しながら、雪花は山の頂上から下に向かって灯油を撒いていく。

 村を囲む山の一方向だけ、火の手が回らないようにしっかりと計算してある。

 これならば、島民たちはみんな同じ方向に逃げるはずだ。


 人的被害は出したくない。

 死人も怪我人も出してはいけない。


 起こすのは、ちょうちんから木に燃え移った結果の不幸な『山火事』だ。


 心臓がバクバクとうるさく鳴っている。

 深く息を吸い込み、しっかりと吐き出して、雪花は村からは見えにくい海岸側に向けて火を放った。



 全速力で山を駆け降りる。

 浴衣のままなので走りづらいが、今だけは全力で走らなければならない。


 祭で賑わう村に足を踏み入れる頃には、胸が苦しくなっていた。

 雪花は構わず、大きな声で叫んだ。


「火事だ…………! 山が燃えてる……!」


 島民たちが振り返り、山の明るさがちょうちんの灯りではないことに気がつき騒ぎ出す。


「大変だ! ありゃあ山の向こう側だな? 火消しに行くぞ!」

「おい! 水だ! 海水からも引っ張ってくるぞ!」

「山が燃えたら大変だ、急げ!」


 初動は雪花の予想通り、まだ小さいかもしれない山の火を消しに行くようだった。

 灯油を撒いたのは海岸側なので、火を消しに山を登ったとしても、逃げることはできるはずだ。

 雪花は混乱に乗じて、山の麓にある祈り小屋の方へ向かおうとした。


「雪花、どこに行く。お前も山の火消しの方だろう」


 雪花を呼び止めたのは、村長だった。

 その後ろには島の老人たちが集まっている。

 祭の飾りで村は十分に明るいはずなのに、老人たちの目はどれも漆黒のように深い闇の色をしていた。

 ぞく、と背中に悪寒が走る。

 雪花は動揺を悟られないように、村長に向かって呼びかける。


「でもじいさん。山火事なんて、山神様が怒っているから起きたんじゃねえの」


 雪花の言葉に、村長が眉を顰める。

 二重島の大人たちは、山神様の存在を疑うことなく信じている。

 それならば、その信仰を逆手に取ってしまえばいい。

 雪花はわざと焦ったような調子で言葉を続けた。


「火事を消す組も必要だけど、山神様に早く島姫を捧げた方がいいよ」


 二重島における島姫の本来の役割は、祈りの舞を捧げることではない。

 山神様への贄、人身御供なのだ。


 二重島の大人たちは、美しく若い女の命を山神様に捧げることで、島の平穏を得ようとしている。

 存在するはずもない山神様を信じ、何も知らない少女に、犠牲を強いていたのだ。


 島の大人たちはみんな共犯だ。

 許されていいはずがない。


 雪花一人では、この悪習を変えることはできないだろう。

 だから、せめて全てをぶち壊して、逃げてしまおう。

 それが雪花にできる最大限のことだ。


「じいさん。少し早いけど、島姫を埋めてしまおう」

「…………そうだな。雪花の言う通りだ。島姫を捧げれば、山火事もおさまるかもしれん」

「山に入った男たちを呼び戻すかい?」

「いらねえよ。俺一人で十分だ」


 雪花の言葉に村長が頷く。

 しかし、老人たちはしっかりと雪花が陽奈梨を埋めるところを見届けるつもりらしい。

 祈り小屋まで着いてくる足音に、雪花の心はひどく焦った。



 狭い祈り小屋に足を踏み入れると、祈りの舞を踊る陽奈梨と目が合った。

 島姫としての役割をきちんと果たそうとしているようで、雪花の姿を見ても舞をやめようとはしない。


 幼い頃から陽奈梨に家事を教え込んでいた着物屋のばあさんは、うっとりしたような表情で舞に見入っている。

 さんざん罪を犯してきた老人も、孫のようにかわいがってきた少女が贄になることは、さすがに抵抗があるのかもしれない。


 雪花がほんの少しだけ抱いた期待も、場違いな声によって粉々に砕かれてしまった。


「ああ、これは綺麗だねえ…………山神様もさぞ喜ぶだろうよ」


 ぐにゃり、と視界が揺らぐような気がした。

 なんとか吐き気を堪え、雪花は顔を上げる。


「陽奈梨! 浴衣を脱いで!」

「えっ?」

「早く!」


 困惑したような顔で陽奈梨は舞を止めた。

 雪花は帯を乱雑に解き、浴衣を長老に投げつける。

 中に着ていた服は汗でぐっしょり濡れているが、動きやすければ今は何でもいい。


 状況が分からないながらも、陽奈梨は慌てて浴衣を脱ぎ捨てて、薄手のTシャツとスカート姿になった。

 それを確認し、雪花は陽奈梨の手を引いて、祈り小屋から無理矢理抜け出した。


 老人たちが必死に食い止めようとするのを、右手で振り払いながら、左手は陽奈梨の手を握って離さない。

 若い男たちはみんな火消しのために山中に入っている。

 どんなに追いかけてこようとも、老人の足では雪花と陽奈梨には追いつけない。


「雪花が島姫を連れて逃げた! 誰か追え! 絶対に逃してはならん!」


 村長の必死な声は耳に届いていたけれど、雪花は振り返らなかった。

 村も、山も、辺りは全て騒がしい。

 でも確保していた逃走ルートは無事だった。


 息を切らして走りながら、船の元まで辿り着く。

 後ろから二人を呼ぶ声が聞こえ、雪花は必死で陽奈梨を船に押し込んだ。


「きゃあ!」


 無理矢理船に乗せたせいで、バランスを崩して陽奈梨が転んでしまう。

 ごめんと謝る余裕もなくて、雪花も続いて船に乗り込もうとしたときだった。


「雪花ぁ!」


 聞き覚えのある声に、思わず振り返ってしまった。

 雪花の同級生であり、ライバル。

 陽奈梨のことが好きな千夏だった。


 二重島で一番足の速い男なので、十分に警戒していたつもりだった。

 千夏が火消しのために一番遠くまで走ったのも確認していた。

 それなのに、必死の形相を浮かべた千夏が、雪花の服をぐい、と掴む。


「っ!」

「雪花くんっ……!!」


 陽奈梨が船の上から、雪花へ手を伸ばす。

 泣きそうな顔をしていた。


 きっと今、この島で誰よりも状況を把握していないはずの陽奈梨が、それでも雪花に手を差し出してくれていた。


 雪花が必死で陽奈梨の手を掴むと、「行かせねえよ!」と千夏の叫び声が背中に向けられる。

 それなのに、雪花の身体は後ろからぐい、と押し上げられた。

 船に倒れ込むように乗り込んだ雪花は、千夏の方を振り返る。


 千夏は逃さねえぞ、と大きな声を上げながら、その目に涙を浮かべていた。


「千夏、まさかお前…………」

「早く行け、雪花。そんで、一生帰ってくんなよ」


 その一言で、雪花は全てを理解した。

 千夏も陽奈梨を救いたいのだ。

 でも表立って助けるわけにはいかない。

 だから、追っ手のふりをして、雪花の手助けをしてくれたのだ、と。


 陽奈梨の手を引いて、雪花は操舵室に向かった。

 船が動き出し、乗り込もうとしていた千夏は、その手を自ら離した。

 海に落ちた友人は、島の方へ泳いで戻っていった。


 海岸に島民が少しずつ集まってくる。

 それでも、山火事がおさまっていない以上、島を捨ててまで船を出して追いかけてくることはないはずだ。


 生まれ育った二重島が、少しずつ遠くなっていく。

 緑が綺麗な島なのに、火事のせいで木もかなり燃えてしまったかもしれない。


 全て雪花がこの手で行なったことだ。

 山に火をつけて、祭をぶち壊して、陽奈梨を連れて逃げ出した。

 視界が歪んで見えるのは、涙のせいだった。


 ぎゅっと手を握られて、雪花は隣を見る。

 何も知らない陽奈梨が、大丈夫だよ、と不安そうな顔で笑う。


「なんで逃げ出したのか……どうしてみんなが追ってきたのか……山が燃えてるのも、千夏くんの言葉の意味も、全部分からないけど…………」


 早く陽奈梨に状況を説明しないと。

 二重島の歴史と秘密。

 島姫の本当の意味。

 そして、雪花が陽奈梨を連れ出した理由と、計画の全てを。


 ああでもその前に、進路が本島の方角になっているか確認して。

 それから着替え。風邪を引くから早く服を替えないと。


 頭がぐちゃぐちゃで、うまく考えがまとまらない。

 言葉を紡ぐことのできない雪花に、陽奈梨はやわらかく笑いかけた。


「雪花くんは意味もなくこんなことしない。きっと私のためにやってくれたことなんでしょ? だから、…………ありがとう、雪花くん」


 その一言で、雪花は泣き崩れた。


 まだ、これは第一歩だ。

 島を出る。たったそれだけしか達成できていない。


 これから先、無事に本島に辿り着けるか。

 追っ手は来ないのか。

 二重島のその後を確認する方法はあるのか。

 そもそも、雪花と陽奈梨は本島で生活していけるのか。


 課題は山ほどある。

 でも今は、陽奈梨が無事でいる。

 目の前で笑って、雪花の名前を呼んでいる。

 その事実に、涙が止まらなかった。


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